すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

感覚の恣意

2020-10-25 22:16:14 | 心にうつりゆくよしなし事
 山形の朝日連峰で非常に美しい紅葉を撮って、あとで見たらちょっと残念な写真になっていた。手前に枯れ枝が大きく伸びている。よくあることだが。
 美しいものを目にして感嘆するとき、ぼくたちしばしば、その手前にあるものを見ていない。視野には入っているのだが、それを意識から落としてしまっている。落としてしまえば、その向こうの美しいものを見るのに差し支えない。
 同じことはもっと自動的に聴覚についても起こっている。風が鳴り、木の葉がざわめき、枯葉をカサコソ踏む音を立てながら歩いていて、ふと、これから下ってゆく谷の沢音を聞いたように思う。いや、まだここからは聞こえないだろう、と思いつつ耳をすましてみれば、確かに聞こえる。期待が空耳を聞かせるのではなく、まだかまだかと意識を集中させているから聞きとれるのでもなく、耳は近場の様々な音をスルーして遠いかすかな音を捉えたのだ。
 これは例外的なことではなく、もっと日常的にも起こっていることだ。がやがやした場所で友人と会話をしている時、耳は入ってくる信号のうち必要なもの、自分にとって心地よいもの、この場合で言えば友人の声、をかなりな程度、選択的に聞くことができる。そしてそうして選択していることを意識していない。
 この選択能力は、視覚や聴覚の持つ精妙な能力だ。だが、脳の発達した人間だけに備わっているものではない。むしろ、野生の動物の方がはるかに高い選択能力を持っているだろう。人間の千倍の視力を持つ鳥は高い空からピンポイントで獲物を捉えることができる。千倍の視力ですべてのものが見えたら、煩わしくて仕方ないだろう。万倍の嗅覚を持つ獣はエサになる小動物のにおいを万物の犇めく地上で嗅ぎ分けることができる。万物すべてが同じほどにおったら臭くて気が狂ってしまうだろう。
 人間が野生の生き物を越えている分野があるとすれば、それは感覚の次元ではなくて、同じような能力を、出来事の意味の判断、という次元でも発揮できることだろう。人間はニュースを聞き、あるいはある人の発言を聞き、また新聞やネットの記事を読み、あるいは実際にある出来事を目の当たりに見た場合でさえ、それを自分の都合の良いように、あるいは心地良いように、解釈し、選択し、信じ、そうでないものに気づかないでいるという能力がある。これは、動物の感覚についての選択能力が生きるために必須であるのと同様に、人間にとって生きるために、あるいはより居心地よく生きるために、必須だ。
 だがそれはしばしば、大きな誤りのもととなりうる。人間は自分の見たいものを見、聞きたいものを聞く。それはほとんど無意識に行われ、したがって、誤りの可能性のあることに気づかない。ほかの考え方、ほかの立場のありうることに気づかない。ほかの人が自分とは異なる困難に直面していることに気づかない。トランプを熱狂的に支持する人たちの間で起きていることは、かつてヒトラーを支持する人たちの間で起きたことと似ている。それは何らかの宗教を熱烈に支持する人たちの間でも起きる。
 それは、この国でも起きる。ある程度は経験を積んだはずのぼくたち年寄りの間でも起きる。ぼくたちよりも柔軟な脳を持っている(かもしれない)若い人たちの間でも起きる。政治的リーダーと言われる人たちの間でも、組織の中で上位にいる人たちの間でも、そうでない市民の間でも起きる。
 このことは、今の社会の中で起きている様々の問題を考えるカギになるかもしれない。
 紅葉の手前に写っていた枯れ枝から、そんなことを考えた。心していよう、と思った。
 (歳をとって聴覚が衰えると、選択的に聞き分ける能力も衰えるから、聞きたいものが他の音に紛れて聞き取りにくくなる。たいへん不便なことなのだが、こんなことにもし利点があるとすれば、上記のようなことを意識する機会になる、という点だろう。)
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