すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

外国語

2020-08-29 19:16:40 | 心にうつりゆくよしなし事
 最近岩波文庫から「対訳ランボー詩集」というものが出た。原文と日本語訳が左右に並べられていて、ページ下に丁寧な註と後ろページに解説がついていて、わかりやすい。
 じつはランボーは若いころ読んで、部分的にはかなり惹かれた、とは言うものの、よくわからないところだらけだった。わかりやすいところだけ理解したつもりで夢中になった、でも肝心なところはちんぷんかんぷん、という感じ。
 今回、一語一句じっくり読んでみて、やっとわかり始めている。でもまだ肝心の「地獄の一季節」にかかったところだから、この先どうなるかわからない。
 ランボーについては別に書くことがあるかもしれないが、今回改めて、「外国の詩というものはやはり原文で読むのが良いなあ」とつくづく思った。日本語訳だけでは、詩人の言いたいことの一部ぐらいはわかっても、詩を味わったことにはならない。
 といっても、ぼくにどうにか読めるのはフランス語と、対訳でならイギリス詩の一部、でしかない。ドイツやイタリアの詩も読めるともう少し人生が豊かになるだろうが、そうはいかない。
 「今からもう一つ外国語をやろうかなあ?」と、ふと思った。
 それから、「いやいや、とんでもない」と首を振った。高齢になってから外国語を学ぶこと自体は、悪くない楽しみだ。でも、語学のセンスのないぼくには向かない。他のことに時間とエネルギーを割くほうが良い。
 ぼくに語学のセンスがないなんて、と思う方がいるかもしれないが、これは明白。語学のセンスというのは、ただ一つ、今、同時代を生きている人間に対する、関心と共感。
 ぼくにはそれが希薄なのだ。
 今現実に生きている人間、外国語を学ぶ過程で出会う一人一人の生身の外国人の喜怒哀楽、よりもぼくは、その国の文学、その国の文化のほうに関心と共感を持つ。
 だがここを出発点に外国語を学ぼうとしたら、結局は身につかない。
 「チェーホフを原文で読みたい」という動機でロシア語を学ぼうとしたぼくは見事に失敗した。
 フランス語がものになったのは、その頃は若くて何にでも関心があったからだ。

 昨日書いた友人Tは、語学の天才だ。トロイの遺跡を発掘したシュリーマン並みの天才だと思う。彼はフランス語、英語のほかにドイツ語、スペイン語、アラビア語、中国語、タイ語を話す。しかも、そのうちスペイン語、ドイツ語は、たった2か月で身に着けている! 
 アラビア語に至っては、本場イエメンでアラビア語の教科書を書いて出版までしているのだ。ネイティヴの録音のCD付きで。
 彼の方法は、現地に行き、語学講座に登録し、友人を作り、話しまくる、というものだ。ぼくのように机に向かってコツコツ勉強、という方法ではだめだ。
 だめだ、と書いても、ぼくはコンプレックスを感じているわけではない。人にはそれぞれ得手不得手があるものだから、それはそれで良い。
 
 蛇足だけど(語学センスのない、と認めているぼくが言うのも変な話だけど)、外国語学習の最良の方法は、直接教授法です。直接教授法とは、最初から、いわゆるアルファベットのアも知らないうちから、学習者の母国語(ぼくたちなら日本語)は一切使わず、その外国語のみを使う方法です。
 友人Tも、昨日書いたイラン人も、フランス語の場合のぼくも、この方法でした。これに限る、と言っても言い過ぎではありません。ただ、これには、そのための訓練を受けた、優秀な先生を必要とします。だからみんながこの方法を受ける機会があるとは限りません。でもこれに勝る方法はありません。日本語での説明なんぞ、教室で先生からされなくても、家で参考書を読めばできることです。
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