すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

日光 補足 +いつかの二人のこと

2021-11-05 13:59:45 | 心にうつりゆくよしなし事

 11/03の「日光」について、人生の先達として尊敬している二人の方からFB上でコメントをいただいた。おふたりとも、さまざまな社会活動をしている、前向きで行動的で優しい方だ。いただいたコメントは共に、ぼくの心の状態を心配してくださってのものと思う(このごろ書くものが暗いからね)。感謝です。返信はしたのだが、そのことをもう少し考えてみたい。
 ついでに、東武日光駅で会った二人のことについても、少し詳しく考えてみたい。
 お二人(仮にAさん、Bさんとする)のコメントは以下の通り。

 Aさん:なんだかね。光の素足を思い出しました。悟氏お元気でよかったですね♪
 Bさん:「いいね」とか
     出来ませんでした・・・

 Bさんは思ったことを率直に言ってくださる方で、彼女の言葉はシンプルだが重い意味を持つ。単にあのFBの記事に「いいね」できないということでなく、死やあるいは自殺などのことを想起しがちなぼくのこのごろの心の状態について、「賛成できません」ということだろう。そう思うのはある意味当然で、自分自身でも気になってはいる。しかもセンチメンタルに安易にそちらに惹かれがちな傾向は感心できない(と、人ごとのような言い方をするが)。そういうことを考えるのなら、情緒的にではなくもっと、なんと言ったらよいか、哲学的に、というか、生と死について深く真剣に考えるべきだろう(それはぼくの能力を超えるが)。そこのところを自戒しよう。
 じつは、ブログに書いていることは、かなり薄めて上澄み的なことを書いている。考えることをそのまま書いたら、誰も読もうとしない暗いブログになるだろう。それは残念だし、書くことによって自分の感情を自分で増幅するスパイラルに陥りかねない。それだけは避けなければならない。若い頃、詩の合評会に参加していたことがあって、ぼくはそういう傾向の人たちに「それだけは止めようよ」と言って反発を買っていた。自分がそうなってはいけない、ということは自覚しているので、ブログではそうならないようには心掛けている。感情の薄い行分け文で表現する、という今の形は、そういう意味ではぼくの心のブレーキとして役には立っている、と思ってもらえるとありがたい。もちろん、だからと言って賛成できないものは賛成できないと言っていただくのはさらにありがたい。

 さて、Aさんの言う「光の素足」というのは、宮沢賢治の童話だ。二人の子供が嵐の雪山で遭難し、地獄のようなところに連れて行かれるが、それは自分の迷いが生み出した幻で、実はそこは極楽であって、二人の子供のうち弟はそこに留まり(つまり死に)、兄はこの世に帰ってくる、という話だ。ぼくはじつはこの話が好きではない。賢治の童話の中には彼の仏教信仰が生(なま)なまま表出されているものと、それが芸術的昇華に達しているものとあって、「光の素足」は前者だ。同じく子供が吹雪の山で遭難する童話に「水仙月の四日」がある。これはもう、雪や氷の結晶のような透明な美しい作品だ。
 ただし、「水仙月の四日」には、ぼくの書いた「日光」と繋がるようなものは何一つない。Aさんが「光の素足」を連想した、というのは、心優しい彼女には悲惨な話と思えた「日光」の二人を、救済の方に転轍してくださろうとしたのだろう。そのことに感謝したい。

 ぼく自身が連想していたのは、それに以前からこの季節になると何かにつけ連想するのは、万葉集巻第二、挽歌、の柿本人麻呂のあの有名な一首だ。   

秋山の 黄葉を茂み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも
   (黄葉:もみち、妹:いも=妻、山道:やまぢ)

「萬葉集釋注」という大著のある伊藤博の現代語訳を揚げさせていただくと、

 秋山いっぱいに色づいた草木が茂っているので中に迷い込んでしまったいとおしい子、あの子を探し求めようにもその道さえわからない。

 この歌は、「離れて暮らしていた愛しい妻が死んでしまったとの使いが届いたので、信じられなくて、探し求めて市に出てみて名を呼んでみたが、姿は見えす声も聞こえない」、という内容の長歌のあとに歌われている。
 古代人は、「死んだ人はこの自分の生きている世界からはいなくなってしまったが、本当は山の中で今も暮らしている」、という信仰を持っていたそうだ。同じような感覚の歌でやはり大好きな歌が同じ巻にある。

山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく

 また、この感覚は近代にも続いていて、竹久夢二に「かへらぬひと」という詩がある。

  花をたづねてゆきしまま
  かへらぬひとのこひしさに
  岡にのぼりて名をよべど
  幾山河は白雲の
  かなしや山彦かへりきぬ。
(山河:やまかは、白雲:しらくも→知らぬげに、との掛け言葉)
(山彦:こだま→亡くなった恋人の名前は彦乃(ひこの)だった。それで山彦の字を充てていると思われる)

 このような歌や詩に親しんでいると、死というものがぼくの今の生との断絶ではないように思えてくる。ぼくの見方はあまりにロマンチックでかつセンチメンタルで、なんとしても生きつづけていくことの大切さを第一に考える人たちには受け入れられないかもしれないが、ぼくはこうした見方のおかげで、少なくとも死の恐怖というものは感じずにいる。

(いつかの二人について考えようと思ったが、長くなりすぎたのでまた別途。)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« わたらせ渓谷 | トップ | 秋山の・・・ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

心にうつりゆくよしなし事」カテゴリの最新記事