仏教について考えようとすると、呆然としてしまう。仏教はあまりに多岐にわたっていて、何でもありで、何が核心となる教えなのかわからない(ように、ぼくには思える)。仏教全体を一つの体系と考えることは不可能だ。あまりにも矛盾とホラが多すぎる。
ここ一週間ばかり、どうまとめようか迷ったのだが、結局ぼくは整理できるほどには理解できていないようだ。だからとりあえず、それは断念、というか、パスしよう。
仏教という名で一括される膨大な量の思弁のほとんどは、あとの時代の宗教家が彼らなりに理解しようとして、もしくは大衆を教化しようとして、もしくは自分の立場を守るために、考え出したものだ。だからそれは遠ざけて、ぼくが生きていくうえで大切と思われることだけを取り上げることにしよう。
仏教は、シャカという人物が悟りを得て苦悩を克服し、輪廻転生の輪から脱出することに成功した、というところを出発点にしている。
ぼくは先日、「魂が未来のある時点で転生をやめて、別の在り方に、別のステージに入る可能性がある」、というのを、仏教的考え方、としたが、これは正しくない。言えるとすれば、「仏教的とぼくたち日本人が感じる考え方」ぐらいだろう。
シャカは、魂というものがある、とは言っていない。シャカが気付いたのは、この世界の全ては、無明、根源的な無知、迷妄、から生まれ出て現象という形をとったものだ、ということだ。魂というような永続的な実態は存在しない。
それでは、輪廻転生するのは何か? 私たちとは何か?
それは業(カルマ)だ(ぼくは、輪廻転生があるとは必ずしも思っていない。シャカの考えに同意しているわけはない。これは仮説だ。念のため)。シャカの当時のバラモン教の教義の信じられていた社会では、人間をはじめとする動物は、前世の業が今世で生きものの形をとったものだ。カーストも、その表れだ。
シャカは、その、業が次々に形をとる世界の総体を苦の世界と考え、それが実態のあるものではなく、業に過ぎないということに気付けば、それを消し去ることができる、と気付いたのだ。彼岸、という別世界があるわけではない。それは、弟子たちが、のちの時代の人達が、勘違いしたのだ。
なぜ勘違いが起きたのか? それは、シャカの悟りがどのような体験だったか、よくわからなかったからだ。
シャカは、「この世界の全ては、無明、根源的な無知、迷妄、から生まれ出て現象という形をとったものだ」、ということ、「そのことを悟りによって知れば、苦悩を克服でき、業から解放され、輪廻の回転を止めることができる」ということを弟子たちに教えたが、自分の悟りの体験がどのようなものだったかは、伝えきることはできなかったのだと、ぼくは思う。
人は、ある瞬間に自分に訪れた天啓がどれほど素晴らしいものだったか、他者に伝えきることはできない。それが、自分にとってまさに世界をひっくり返してしまうほどの根源的なものであったらなおさら。このことはぼくたちが、自分が体験した歓喜が、あるいは逆に苦しみが、どれほど大きなものであったかを人に伝えきれないのと似ている。
他者は、自分で体験するしかない。しかも、それは同じ体験ではありえない。
このことを、ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセは知っていた。「シッダールタ」という小説がある(この本をぼくは何度読んだことだろう! 何度読んでも、ため息が出る)。
主人公の青年シッダールタ(歴史上のシャカではなく、ヘッセが創造した人物)は、覚者ガウタマ(こっちが、シャカをモデルにした人物)の講話を聴いて感嘆したのちに、彼のもとを去る前に、彼に心を込めて挨拶をし、彼の教えが至高のものであることを讃え、しかしさらに言う。
「あなたが悟りを開かれたときにあなたの心に起こったことを、あなたは誰にも、言葉で、そして教えで伝えることはできないのではないでしょうか! 悟りを開かれた仏陀の御教えは多くのことを含んでおり、多くのこと、正しく生きること、悪を避けることを説いています。けれども、これほど明晰な、これほど尊い御教えもただ一つのことを含んでおりません。世尊ご自身が、幾十万人もの人びとの中で世尊ただ一人が体験されたことの秘密を含んでおりません」(岡田朝雄訳)
自分で体験しなければならない!
ぼくたちは一人ひとりが、苦悩から解放されるためには、ありがたい教えを受けてそれを鵜呑みにすることではなく、自分自身の探求によって、目標に到達しなければならないのだ。
(だが、ぼくはシャカの体験について、ぼくたち自身の体験の手がかりにできないものか、、もう少し考えるべきことがある。ここまでは、いわば助走だ。)
余談:ぼくは「悟」だが、これは「さとり」ではなくて、動詞。つまり目標。
(この稿続く)
ここ一週間ばかり、どうまとめようか迷ったのだが、結局ぼくは整理できるほどには理解できていないようだ。だからとりあえず、それは断念、というか、パスしよう。
仏教という名で一括される膨大な量の思弁のほとんどは、あとの時代の宗教家が彼らなりに理解しようとして、もしくは大衆を教化しようとして、もしくは自分の立場を守るために、考え出したものだ。だからそれは遠ざけて、ぼくが生きていくうえで大切と思われることだけを取り上げることにしよう。
仏教は、シャカという人物が悟りを得て苦悩を克服し、輪廻転生の輪から脱出することに成功した、というところを出発点にしている。
ぼくは先日、「魂が未来のある時点で転生をやめて、別の在り方に、別のステージに入る可能性がある」、というのを、仏教的考え方、としたが、これは正しくない。言えるとすれば、「仏教的とぼくたち日本人が感じる考え方」ぐらいだろう。
シャカは、魂というものがある、とは言っていない。シャカが気付いたのは、この世界の全ては、無明、根源的な無知、迷妄、から生まれ出て現象という形をとったものだ、ということだ。魂というような永続的な実態は存在しない。
それでは、輪廻転生するのは何か? 私たちとは何か?
それは業(カルマ)だ(ぼくは、輪廻転生があるとは必ずしも思っていない。シャカの考えに同意しているわけはない。これは仮説だ。念のため)。シャカの当時のバラモン教の教義の信じられていた社会では、人間をはじめとする動物は、前世の業が今世で生きものの形をとったものだ。カーストも、その表れだ。
シャカは、その、業が次々に形をとる世界の総体を苦の世界と考え、それが実態のあるものではなく、業に過ぎないということに気付けば、それを消し去ることができる、と気付いたのだ。彼岸、という別世界があるわけではない。それは、弟子たちが、のちの時代の人達が、勘違いしたのだ。
なぜ勘違いが起きたのか? それは、シャカの悟りがどのような体験だったか、よくわからなかったからだ。
シャカは、「この世界の全ては、無明、根源的な無知、迷妄、から生まれ出て現象という形をとったものだ」、ということ、「そのことを悟りによって知れば、苦悩を克服でき、業から解放され、輪廻の回転を止めることができる」ということを弟子たちに教えたが、自分の悟りの体験がどのようなものだったかは、伝えきることはできなかったのだと、ぼくは思う。
人は、ある瞬間に自分に訪れた天啓がどれほど素晴らしいものだったか、他者に伝えきることはできない。それが、自分にとってまさに世界をひっくり返してしまうほどの根源的なものであったらなおさら。このことはぼくたちが、自分が体験した歓喜が、あるいは逆に苦しみが、どれほど大きなものであったかを人に伝えきれないのと似ている。
他者は、自分で体験するしかない。しかも、それは同じ体験ではありえない。
このことを、ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセは知っていた。「シッダールタ」という小説がある(この本をぼくは何度読んだことだろう! 何度読んでも、ため息が出る)。
主人公の青年シッダールタ(歴史上のシャカではなく、ヘッセが創造した人物)は、覚者ガウタマ(こっちが、シャカをモデルにした人物)の講話を聴いて感嘆したのちに、彼のもとを去る前に、彼に心を込めて挨拶をし、彼の教えが至高のものであることを讃え、しかしさらに言う。
「あなたが悟りを開かれたときにあなたの心に起こったことを、あなたは誰にも、言葉で、そして教えで伝えることはできないのではないでしょうか! 悟りを開かれた仏陀の御教えは多くのことを含んでおり、多くのこと、正しく生きること、悪を避けることを説いています。けれども、これほど明晰な、これほど尊い御教えもただ一つのことを含んでおりません。世尊ご自身が、幾十万人もの人びとの中で世尊ただ一人が体験されたことの秘密を含んでおりません」(岡田朝雄訳)
自分で体験しなければならない!
ぼくたちは一人ひとりが、苦悩から解放されるためには、ありがたい教えを受けてそれを鵜呑みにすることではなく、自分自身の探求によって、目標に到達しなければならないのだ。
(だが、ぼくはシャカの体験について、ぼくたち自身の体験の手がかりにできないものか、、もう少し考えるべきことがある。ここまでは、いわば助走だ。)
余談:ぼくは「悟」だが、これは「さとり」ではなくて、動詞。つまり目標。
(この稿続く)
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