一昨日の記事に、石井みどりさんからコメントをいただきました。ここに紹介させていただきます。
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(石井さん)中学2年の 7月 大乗仏教になるまでは、女は穢れているから成仏できないとされていた
こんなことを聞かされて「釈迦だって 所詮男なのよ」って
(樋口)もう少し詳しく書いてくれませんか。仏教に女性蔑視があるのは承知していますが、大乗はいいのか?釈迦は、だめなのか?石井さんの趣旨がよくわかりません。
(石井さん)南アジアでは、未だに小乗仏教が主流と聞いています。自分を救うだけで精一杯みたいな。女性は5つの障りが有って成仏できないそうです。大乗仏教になって、尼僧も生まれたのに・・・
母は、マリア信仰でした。1950年に横浜に転居しても、観音像に似せられて作られたマリア像は仏壇に納められ、聖書は 浄土真宗の「正信偈」に隠されていました。母は、それは、マリアを信仰することを、プロテスタントもカトリックも認めていないからと説明していました。母は、仕方なく 桜木町の指路教会で洗礼を受け直しました。母はもっと信仰を深めたいと牧師に懇願したのに 「女性は聖職者にはなれません」と言われたそうです。
兄は、牧師になりました。私も 幼い時から日曜学校に通い、聖歌隊で歌い(中学2年生までは)熱心に聖書を読みました。
神道も 女性が神職に就けるようになったのも戦後。天照大神が女性だったのにです。
2016年 ローマ法王が「私の後任に 女性がなることはあり得ない」の発言の後、世界的に 女性が神父や牧師、神職になる運動が起きていますね
男社会を変えるのは まだまだ時間がかかりそうです
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石井さん、ありがとうございます。まとまったことは言えないので、雑談風の記事を書きます。
(神道を含めて)大宗教は、歴史的に、女性に対する蔑視・偏見・差別にみちています。それは何時から、なぜ、始まったのでしょうか?
キリスト教でいえば、イエス自身はそのような偏見は持っていないものと思われます。女性を分け隔てなく癒している(マタイ9-18以降、15-21以降など)し、何よりも、復活したイエスは最初に使徒たちにではなく、マグダラのマリアともう一人のマリアの前に現れ、「弟子たちにガリラヤで私と会うことになると告げなさい」と言っているのだから、女性はむしろ特権的立場にいます。
ところが「コリントの信徒への手紙 1」ではすでに、「男の頭(かしら)はキリスト、女の頭は男…女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭(あたま)にものをかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。…頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい」(11-3以降)などと書いたり、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」(14-34以降)とまで書いています。つまり、女性蔑視は、イエスがいなくなって間もない頃にすでに始まっていた、と思われます。
これは教団(というものはまだできていなかったから、その萌芽と言うべきか)の権力を男が独占するため、また、マグダラのマリアをはじめとする女性たちへの嫉妬、から生まれたものでしょう。一般に、宗教教団の力が増すにつれて、女性蔑視は増幅し、固定化します。
シャカが女性に対する偏見を持っていなかったかどうか、はよくわかりません。シャカは、村の娘スジャータの差し出した一椀の乳粥を飲んで休息をとったことが、悟りを得るきっかけになります。また、彼は悟りを得てから45年ぐらい生きるのですが、身分や性別の分け隔てなく教えを語ったそうです。また、最古の(したがって、小乗の)経典スッタニパータは、シャカの言葉を集めたものだそうですが、そこには「一切の生きとし生けるものは幸福であれ」(145)と書かれています。
これは大変美しいので、ちょっと長いですが、引用しておきます。
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生き物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉く、(中略)
すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何人も、他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの思いを抱いて、互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が己の独り子を命をかけても護るように、そのように一切の生きとし生ける者どもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。
また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。(145~150)」(中村元訳)
(長くなりすぎるので、続きは明日)
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(石井さん)中学2年の 7月 大乗仏教になるまでは、女は穢れているから成仏できないとされていた
こんなことを聞かされて「釈迦だって 所詮男なのよ」って
(樋口)もう少し詳しく書いてくれませんか。仏教に女性蔑視があるのは承知していますが、大乗はいいのか?釈迦は、だめなのか?石井さんの趣旨がよくわかりません。
(石井さん)南アジアでは、未だに小乗仏教が主流と聞いています。自分を救うだけで精一杯みたいな。女性は5つの障りが有って成仏できないそうです。大乗仏教になって、尼僧も生まれたのに・・・
母は、マリア信仰でした。1950年に横浜に転居しても、観音像に似せられて作られたマリア像は仏壇に納められ、聖書は 浄土真宗の「正信偈」に隠されていました。母は、それは、マリアを信仰することを、プロテスタントもカトリックも認めていないからと説明していました。母は、仕方なく 桜木町の指路教会で洗礼を受け直しました。母はもっと信仰を深めたいと牧師に懇願したのに 「女性は聖職者にはなれません」と言われたそうです。
兄は、牧師になりました。私も 幼い時から日曜学校に通い、聖歌隊で歌い(中学2年生までは)熱心に聖書を読みました。
神道も 女性が神職に就けるようになったのも戦後。天照大神が女性だったのにです。
2016年 ローマ法王が「私の後任に 女性がなることはあり得ない」の発言の後、世界的に 女性が神父や牧師、神職になる運動が起きていますね
男社会を変えるのは まだまだ時間がかかりそうです
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石井さん、ありがとうございます。まとまったことは言えないので、雑談風の記事を書きます。
(神道を含めて)大宗教は、歴史的に、女性に対する蔑視・偏見・差別にみちています。それは何時から、なぜ、始まったのでしょうか?
キリスト教でいえば、イエス自身はそのような偏見は持っていないものと思われます。女性を分け隔てなく癒している(マタイ9-18以降、15-21以降など)し、何よりも、復活したイエスは最初に使徒たちにではなく、マグダラのマリアともう一人のマリアの前に現れ、「弟子たちにガリラヤで私と会うことになると告げなさい」と言っているのだから、女性はむしろ特権的立場にいます。
ところが「コリントの信徒への手紙 1」ではすでに、「男の頭(かしら)はキリスト、女の頭は男…女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭(あたま)にものをかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。…頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい」(11-3以降)などと書いたり、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」(14-34以降)とまで書いています。つまり、女性蔑視は、イエスがいなくなって間もない頃にすでに始まっていた、と思われます。
これは教団(というものはまだできていなかったから、その萌芽と言うべきか)の権力を男が独占するため、また、マグダラのマリアをはじめとする女性たちへの嫉妬、から生まれたものでしょう。一般に、宗教教団の力が増すにつれて、女性蔑視は増幅し、固定化します。
シャカが女性に対する偏見を持っていなかったかどうか、はよくわかりません。シャカは、村の娘スジャータの差し出した一椀の乳粥を飲んで休息をとったことが、悟りを得るきっかけになります。また、彼は悟りを得てから45年ぐらい生きるのですが、身分や性別の分け隔てなく教えを語ったそうです。また、最古の(したがって、小乗の)経典スッタニパータは、シャカの言葉を集めたものだそうですが、そこには「一切の生きとし生けるものは幸福であれ」(145)と書かれています。
これは大変美しいので、ちょっと長いですが、引用しておきます。
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生き物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉く、(中略)
すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何人も、他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの思いを抱いて、互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が己の独り子を命をかけても護るように、そのように一切の生きとし生ける者どもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。
また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。(145~150)」(中村元訳)
(長くなりすぎるので、続きは明日)
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