すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

花筏

2019-04-23 22:07:04 | 無いアタマを絞る
 少し前に見た目黒川の花筏を思い出している。花見客(もしくは通行人)が、「まあ、きれい」とか「素敵ねえ」とか、ウットリした声をあげていた。そういえばTVでも、レポーターが、「美しい言葉ですねえ」とか言っていた。
 この人たちは、言葉と目の前の現実の姿をすり替えて、あるいは、ごちゃ混ぜにして気が付かないでいる。
 「これのどこがきれいなものか」と思った。
 どぶ川のような黒く濁った水に浮かんだ、流れてさえ行かない、汚れた花びらの吹き溜まりに過ぎない。
 言葉は美しくても、その言葉の指すものが現実には美しいとは限らない。、もしくは、現実は美しいとは限らない。
 この言葉がいつ生まれたのか、だれが言い出したのか知らないが、室町時代後期の小唄集「閑吟集」には既にこの語が出て来るそうだから、古くからある言葉だ。
 昔の人達は、美しい水面に浮かんだ美しい花筏を見ていたのだろう。
 どこかに、ぼくの知らないところに、目黒川を見に来る人達の想像できないような、底の小石のくっきりと見えるように澄んだ流れを広がったり集まったりしながら下ってゆく、美しい花筏があるのに違いない。
 今でも、たとえば吉野川の上流に行けば、それが見られるのだろうか? それとも、花を尋ねて山中に分け入っていかなければ見られないだろうか?

 現代は、黒く淀んだ、時には悪臭のする川のようなものだ。
 ぼくたちは、その表面に浮かんだ塵芥のようなものかもしれない。

 …とまで思うのはやめておこう。
 ぼくたちは、塵芥とは違って、生きている。苦しみもし、もがきもするが、感じることはでき、考えることはできる。
 感覚麻痺に陥っていなければ。判断停止に陥っていなければ。
 淀んでいるだけではなく、流れていこうと模索することはできる。
 言葉の上っ面だけの美しさで満足して停まってしまうのは避けよう。現代が、黒く淀んだ川のようなものだということは、忘れないでおこう。
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