すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ノートル・ダム

2019-04-17 21:51:23 | 無いアタマを絞る
 パリのノートル・ダム大聖堂の火災のニュースは大変ショックだった。フランス人たちが受けた衝撃も悲しみも、パリに住んだぼくにはかなり理解できる。あれがいかにかけがえのない文化遺産か、ということももちろん理解できる。
 パリに二年間、そのほかにも何度も行っていて、あの界隈もずいぶん歩いた。パリを訪れる友人を案内したことも多い。塔の上からのセーヌ川と市街の眺めも素晴らしいし、バラ窓も大変美しい、特に光にあふれる晴れた日は美しい。中で聴く音楽も美しい。しかし残念ながら、ぼくにはあれに対して非常に大きな、鷲掴みされるような感激、というのは感じなかった。
 なぜだろう? あの二年間が、ぼくにとって人生でいちばん苦しい時期だったからかもしれない。ぼくは、心のどこかでは救済を求めてあの界隈を歩き回りながら、あのバラ窓から差し込む光のような、宗教による救済を求めることには躊躇っていたからかもしれない。
 あの時ノートル・ダムに縋っていたら、いまのぼくはもっと心の安らぎを得ていたろうか?
 それは今となってはわからない。
 建築や造形芸術などに対する感度が悪い、ということもあるかもしれない(ほかで感度が良いわけではないのだが)。あの頃ぼくはパリ市内を歩き回るよりは、ムードンの森やフォンテーヌブローの森やランブイエの森を歩き回るほうがずっと気が晴れて心が和んだ。
 しかし、パリの南西、列車で一時間ほどのところにあるシャルトルのノートル・ダム大聖堂には感動したではないか?
 列車が町に近づくにつれて、ゆるやかに起伏するボース平野の広大な麦畑の中に、まず尖塔のてっぺんが見え始め、それがだんだん大きくなってゆく。あれがまず感動なのだ。麦が黄色に熟れる、良く晴れたけっこう暑い日だった。坂を上っていくと、平日だからか、ファサードはひっそりしていて、観光客はほとんどいなかった。あれも良かった。ロマネスク様式とゴチック様式と、形が全く違う二つの塔が立っている。ひとつはとがっていて、ひとつは四角い。その片方に登った(どっちだったかは、覚えていない)。列車の中から塔を見たのとは逆に、今度は地平線まであたりいちめんの麦畑を望むことができた。
 驚いたのは、塔のてっぺんの回廊には転落防止の柵がないことだった。「確実に死ねるな」、と一瞬思った。フランスにだって自殺する人は大勢いるのだが、カトリックでは大聖堂から下の石畳に身を投げるようなことは想定していない、ということだろうか(ヒチコックが「めまい」という映画にして有名になったフランスのミステリー「死者の中から」は、これを重要なプロットにしているのだが)。
 内陣の、パリのノートル・ダムと並び称されるステンドグラスも、非常に美しかった。(シャルトル・ブルー、と言われる)青を基調にした窓に光が当たって、「青は聖母マリアの慈愛の色だな」、と改めて思った。
 シャルトルも中世に火災に遭って、上記のように現在は左右が不均衡だ。それでもぼくが感動したのは(そして均整の取れたパリの大聖堂でさほど感動しなかったのは)、あそこではひとり静かに聖堂と向き合うことができたからだろう。広大な平野の中、というのも大きい。
 パリのノートル・ダムにひとり(静かに、というのとは違うけれども)向き合った、そしてあれをこよなく愛した日本人が、高村光太郎だ。「雨にうたるるカテドラル」という詩を、長い作品なのでここでは引用しないが、ぜひ読んでいただきたい。聖堂は、異国からのの旅人にとってさえ、神と、あるいは自己と、ひとり向き合う場所だ。
 マクロンは、「5年で再建する」そうだ。20年かかっても良いのではないか。再建された姿をぼくが見ることはないだろうが、在りし日の姿を映した写真集が近いうちに出たら買おう。それの方が、かつての記憶を合わせて、ぼくは聖堂とより深く向かい合えるかもしれない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「のだめカンタービレ」 | トップ | トレラン・シューズ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

無いアタマを絞る」カテゴリの最新記事