小名木川
地理案内
徳川家康が小名木川四郎兵衛に命令し、開削させた運河である。
千葉県行徳で作られた塩や、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の米などを
江戸にに運ぶために掘られたものであった。
小名木川と旧中川、新川の合流地点には、中川船番所が置かれて
江戸時代の東京は"水の都"だったという。
市中には川と運河が縦横に張りめぐらされ、
江戸市民の暮らしや産業を支えていた。
現代でいうなら、道路や鉄道に匹敵する重要な社会インフラだった。
幕府が作った運河である小名木川をはじめとして、
今も"水の都"の面影を色濃く残している
名所江戸百景小名木川の5本松
小名木川の両側は団地群がニョキニョキ
小名木川サイドは整備され
水辺の散策路となっています。
散策路に植えられた花
中川船番所資料館と案内板
小名木川は江戸が大都市になるにつれ、
消費物資搬送集散の重要河川となりました。
そのため、寛永6年(1629)に川幅を拡げ、また、船番所を隅田川との
合流点付近に設け航行する船舶を監視しました。
旧小松川閘門、二つあるゲートの片側だけが保存されたのだが 、
その方法がほとんど思いつきレベルで、常人には到底理解不能 です。
閘門早わかり.
この建物は、その昔小松川閘門と呼ばれていました。
閘門(こうもん)とは水位の異なる2つの水面を調節して船を通行させる
特殊な水門のことです。
川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、
大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる
船の通り道として頻繁に利用されました。
ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流点でしたが、
たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、
その結果、水位差が生じて船の通行に大きな障害となりました。
この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、
その後、車などの交通機関が発達して、船の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、
重要な役割を果たしました。
本来、この閘門は、2つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、
この建物はそのうちの1つで、もう1つの扉は現在ありません。
また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて
昔の面影が少ないのです。
今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに
役立てるとのことです。
図解で見ると一目瞭然
国交省・荒川下流建設事務所資料から
参考・こんな閘門も