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富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

「働きかた改革」:歴史哲学のうえでの意義

2018年01月21日 | Weblog

おバカな人は、ワークとライフのバランスだという。これは、初級の英語の単語を並べて思考するから、使われた言葉の深み以上の答えが出てこない。まして、ワークは時間的に短い、しかも。断続的な時間の単位にたいし、ライフは生命、人生を意味する哲学の最重要な命題を背景にする時間である。個人には「絶対時間」であるが、集体では「相対時間」である。ライフとワークのバランスとは、パブリックな時間とプライベートな時間のスケジュール管理の問題に過ぎなくなる。けれども、和製英語で議論すると、実は重厚な欧米の哲学のレースからも脱線する。また、日本語から漢字文化を奪いと、考えた結果を漢字で周辺国に発信できないことになる。

まず、「働」という漢字は、日本人が創造した和製漢字である。中国語の「打工」などの形而下の身体運動ではなく、「周りに気配りしながら、作業をする」という意味である。そこには、「公的な連携」を意味する社会分業への参画という形而上の意味がある。この「公的な連携」を何世紀にもわたり継続的に持続させるには、世代間の分業が欠かせない。日本が突出して、平均75歳まで健康ですごせる人材力を達成したから、他の国にはまだ生まれていない非常に面白い、多様な社会分業の可能性が生まれたのである。多様な人がいるから、多様な働き方ができる。これは、過去の社会主義者が思いもつかない社会協業へと道筋へと、日本の社会は進んでいることになる。これを企業内の分業という閉鎖回路で考えると、解決の出口は見つからない。それは、歴史の哲学の問題なんだ。国民総生産という総量を大幅に低下させることなく、逆に、歴年の維持につながれば、働く「輪」により、心の「和」をめざした聖徳太子の「憲」(のり)を活かすことになる。「輪になって踊ろう」という歴史の哲学である。表意文字のもつ漢字を大事にすると、「働き方の愉快革」という言葉遊びもできる。和製英語では、議論が深まらない。

 

 


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孔子の宝は、孫の子思の「中庸」論にある

2018年01月21日 | Weblog

孔子は、マザコンで、嫁との折り合いが悪く、息子もいまいち。それを救ったのが、曾氏の一族、特に曾参が育成した、孔子の孫の子思は、かなり良くできた学者で、継承人として孟子がいると言われている。「中庸」の後半は、孔子の「誠」に関する語を集めたものである。これは、「大学」にある「意を誠にする」に「誠」の定義を深めたものである。「誠」という文字は、「言」ベンなので、コトバで外に向かって発信する、いわば「外向き」の行為である。だから、実は、孔子も多くのミスをしている。孫は、祖父の名声の陰にあるマイナス部分をよく見て育っている。「喜怒哀楽」の感情を発するまえの、平常心の核にあるものを孔子は、「思い邪なし」と邪心がないと否定の否定で外から定義した。なんと孫の子思は、肯定のロジックで、それは「中」と定義で、この「中」を「和する」ことが、「思い邪なし」になると読み込んだ。無意識の心理を内省し、「中の和する」心性を「大学」にある「正心誠意」の基本だと読み切った。この点に気が付いたのが、北宋時代の二人の程氏であり、南宋の朱熹であった。以後、儒学の要は、「中を和する」ことで、邪心を去り、利を観れば義を思うというロジックを活かしてきた。

自分自身の脳内という流動体のなかで、「自己」を治める「中和』点、これはインドにまでヨガ派の原典を学びに行った玄奘がもたらした唯識と比べると、子思の哲学の先行性は、1000年の先見知であった。祖父にとり、孫は宝である。優れた家庭教師に委ねた孔子は、智者である。同時に、孫から乗り越えられる存在でもあった。


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長寿は、智者か?

2018年01月21日 | Weblog

露の哀公が、孔子に問いかける。「長寿は智者か?」と。孔子は、こう答えた。「その通りです」と。なぜなら、飲酒、武闘、犯罪と遠ざかれば、天命を盡せます、と3つの場合にわけ、さらに詳しくケースを分類し、天から与えられた命を自らが短くする人為の愚かさを説明している。孔子は、74歳で亡くなった。長寿といえる。今の日本なら、94歳といえる。酒の害で、飲食への自己ケアーを第一にする。自己管理を第一にする。それが智者だという。さらに、富みや、名誉や、つまらない正義感でトラブルを起こせば、社会のルールで命を短くします。だから、長寿者は、それなりに知恵者です。これは、『韓詩外伝』という漢時代の韓嬰という「詩経」学者の本にある話だ。もし、貧乏で最低の生活をしていて、酒も飲まず、目上に逆らわず、どんな争いごとにも加わらなかったら、長寿になるのか?これは、「論語」に出てくる顔回の生き方である。だが、彼は早逝した。その時、孔子は顔回は「空だ」った、と述べた。これは、穀物の蓄えが無さすぎた、という意味である。僕は、孔子は裏の意味を隠している。知者として、アイデアが浮かばない、提案にかけては「空」であるがゆえに、食物の余裕のある官職に恵まれなかった、と理解している。

孔子が立てた長寿の原則に当てはまるが、孔子から杖で膝を叩かれた人物がいる。それは、原壌である。仁につながるような何の行動もしなかったではないか?この役立たずめが!孔子は、自らに禁じている怒りを爆発させた。孔子は、最晩年は、けっこう怒りまくっている。「規をこえず」との自制心が緩む。そこからは、彼は短命だった。でも、僕たちは原壌が彼自身が生きていくために、最低限の生業を務めていたなら、彼も己を知った智者として許してあげる度量がいる。しかし、孔子の幼ないなじみで、郷里の共同体に支えられた生活保護の対象者で、障害をもたない人物だとすると、孔子が杖で叩いた気持ちはわかる。でも、もし孔子ほどの名のある人物が、現代日本で同じことをしたら、メディアから全面的に避難される。「正義」論の抜けた大衆迎合の、恐ろしい時代に僕らは生きている。


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富山県の高校再編の慎重度に敬意

2018年01月20日 | Weblog

昨夜、TVで経済界に意見を踏まえた統合案が、提示された。少し、疑問は残るが、懸念は少ないプランである。長い歴史をもつ高校には、断腸の思いであろうが、重複した分散投資は、IT化するにも効率化の妨げとなる。アダム・スミスの「諸国民の富」の第一編結論に部で、製造業の経営者たちが、事業経験を発揮し、地域プランを立てるのが一番によい、とある。

山の場合、電力の供給と消費の状況は、地域コアの濃淡を図形認識として可視化できる有用なデータである。北陸電力の会長の久和さんの眼は確かである。変電所が隣接するよりも、統合した方がよい。変電の性能よい処へ、変電効率の良くない処を統合する。逆に、僻地は廃止すれば、システムの全体性が崩れる。電力供給の公益性と、高校教育の拠点配置とは、なるほど見事に重なるものだと感心した。山間部を勇気をもち残されたこと、農業高校を育てる意志を明示したこと、この2点も、県勢の弱点を強みに変える未来図があり楽しみである。農業高校は、せめて短期大学を併設すること、さらに、技術普及のための宿泊施設を兼営できる教育公園など重点的な知恵と資金の投入が期待される。


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リーダーを生み出せない地域の「落伍」係数

2018年01月20日 | Weblog

僻地の場合、住民人口減、空き家の増加が加わるので、中長期の滞在型の観光事業に活路を見出すことになる。そうした観光資源をどのように生み出すのか、そこには統計では測れないリーダーの知恵と力、コミュニケーション能力が必要である。そして、その面では、この数年の時間の間に、そうしたリーダーを生む出せない地域の「落伍」係数は、すでに定性となっている。最後は、廃村を自然に返すほかにない。ただ、間伐材を利用するバイオ発電は、県全体の力で後押しすることで、脱原発の方向を助けることになる。外国から原料を輸入し、バイオ発電を港でやるのも一理あるが、山間部の拠点となる地域では、最後の可能性を残している。


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住宅の耐用年数と景気循環

2018年01月20日 | Weblog

日本は、先進国のなかでも住宅の耐用年数は、制度として非常に短く設定されている。特に木造住宅の耐用年数は短いので、住宅の固定資産税が経年劣化にともない急速に劣化していく。この住宅の耐用年数は、建築基準法とも関係している。耐震化の問題も、ネグレクトされている。こうした国情なので、中古住宅市場の価格は、耐用年数のキレた土地の価格から解体撤去費用を差し引いた価格に向かって低下する。新規の住宅の着工が、既存住宅の劣化を上回らないと、住宅からの固定資産税の税収は低下する。明治以来、大震災というマイナスと、好景気というプラスの景気循環のおかげで、さらに住宅の耐用年数の短さから、右肩上がりに成長してきた新規住宅からの固定資産税の税収効果が、徐々の低下する地域と、そうでない地域との格差が広がっている。さらに、住宅の場合は、住民の個人の所得に応じた住民税の増減とは、緩やかな相関関係がある。

 


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なぜ、松竹梅なのか?

2018年01月19日 | Weblog

松竹梅は、日本酒のブランドの一つである。松竹梅は、中国の宋時代の文化人の生き方を象徴する樹木だった。松は、常緑樹である。長江の流域のお寺は、松の林に囲まれている。竹は成長が早く、雪に折れない。梅は、極寒に耐えながら、春一番に花を咲かせる。この松竹梅の好みは、唐様といって、伝統中国のファッションである。富山の旧家でも、金沢の兼六園でも、松竹梅のあしらいが眼につくだろう。その基本は、松竹梅を見て、常、柔、忍の三項目の自省をしなさいという教訓話にある。なぜ、樹木が重視されたのか。それは、中国の太古にちなむ。人々は、集落のシンボルとして、その土地にあう樹木を選んで植えた。これを「社」という。この文化は、日本の伝承され、中国では廃れてしまった。日本では、村の鎮守も森が太古の自然林の姿を残している。中国では、松竹梅を愛した知識人の文化が、下層民の上昇により消滅させられた。日本では、松竹梅は江戸時代には、中国に由来す教訓話を含めて珍重された。棄てられた中国文化の博物館である。

今、日本では、庭木の話ではない。山岳の樹林の管理が話題となっている。国家の「社」は、山岳部の樹林にある。国家の安泰のために、山の樹木に目を配ろう。


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和するも、謀略するのも半島のうち

2018年01月19日 | Weblog

朝鮮半島の南北分裂は、独立運動の主体が、四分五裂していたからだ。それで、亡命し身を寄せる大国が、ソ連だった極東組、アメリカだったキリスト教系、儒教系の民族主義は中華民国の臨時政府を設ける、さらに、コミンテルンの属した南部の日本共産党系のグループ・・・。それぞれに、朝鮮半島をめぐる歴史観が異なる。この半島では、数千年来、内紛を周辺の外国を頼りにして地域間紛争が繰り返されてきた。実は、その点では中国も同じである。では、中国の歴史と、朝鮮の歴史とではどこが違うのか?中国は、早期に都市国家が成立し、秦の始皇帝の時代に「統一中国」の基盤が整い、漢時代の400年で「漢民族」の骨格が整えられらからである。この時代に、日本でも統一国家ができる。朝鮮半島では、漢王朝の殖民都市が経営され、それを排斥する力を統合する道徳文化の支柱が、「和を以て謀略する」次元を超えられなかったためである。日本の場合は、奇跡ともいえる聖徳太子の「和貴」思想が、覇者を王道に従わせる正義論が基礎にある。隣人、友人、教え子、朝鮮半島に祖先をもつ方は多い。気の毒なことに、悪人が善意を利用する「和を以て謀略する」武人に破れている。だから、善人は、外国に安住の地を求め、半島を先祖の記録として、個人の記憶には留めない生き方という拡散の論理も生まれる。外への拡散と、出来もしない統一という陰謀にこだわる内向きの力が内外に均衡し、流浪と漂流という地球人の根底の多数派につながり、「人」を見つめる精神の発達が促される。国家を棄て、他の民族にはない漂流感に達すれば、「人」としての大道に立てる。ハングルを祖語とするひとから、ノーベル文学賞の候補になるような英語で作品をかける人材を多く生み出すことである。優しい人が多いのに、理不尽な歴史を背負いすぎる。慰安婦で喚くまえに、どこまで深く自己文化の自省ができるのか、そろそろ答えを出して欲しい。気品は、民族の壁を超える。


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「文摘」という情報媒体

2018年01月19日 | Weblog

中国に滞在し、在外研究を進めているころ、「〇〇文摘」という週刊の新聞・雑誌に重宝したことがある。いろいろな媒体に発表された情報を週遅れ、月遅れで転載する新聞である。関心ある専門テーマに関する全ての情報を独力で目を通すのは困難であるから、専門テーマに応じた「文摘」スタイルの新聞は重宝である。現在、日本では著作権の関係で無理である。ネット検索しても、あまり良い情報にはヒットしない。グーグルに「スカラー」という特化した検索エンジンがあるが、著作権の関係でダウンロードできない。中国では、有料化が進み、資金さえあれば漢語で書かれた有用な情報は、比較に容易の集まられる。もう紙媒体の「文摘」は、不要かもしれない。このように、日本が必ずしも一番に便利であるとは限らない。案外に、中国の社会全体のIT化は進んでいる。日本の場合、ネット検索では、真にオリジナルな良い情報は手に入らない。欧米では、莫大な料金を払わないと、そこにはアクセスの壁がある。自由があると言っても、著作権という壁により資金力の差に左右される。


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高等教育教員は、最低限、博士号が必須

2018年01月18日 | Weblog

現代の日本の博士号は、高等教育を担当する最低資格である修士号よりも3年の研鑽を加算した水準に設定されている。だから、高校教員に採用される段階では、すでに修士号がある。経営学の世界では、MBA。マスター・オブ・◆◆というのが世界標準となっている。4年制大学では、卒業論文を厳格に課していないので、修士号は、それなりに均一である。さらに、博士号となると学位管理の機関があり、相互にチェックするから、日本国ではほぼ横並びになる。それは、論文の審査制度のある学会の機関誌に1本から3本の掲載の実績がある研究論文なら「学術博士」という形である。

一般職からみると、四年制大学の卒業で十分な時代があった。これを教育職に当てはめると、20世紀を経過したことで、膨大な知識量がどの学科目でも要求されるので、修士の水準でないと公立高校のレベルでは、日本の高校生を国際的にそん色のない知識水準を維持するのは難しい。新人で修士号をもって教員となった場合には、生涯かけて博士号を取得できるベースがある。最終、75歳くらいで博士号を取得するように探求者としての緊張感を保たないと、この世にうまれ、ある学科を選んで学び、教育しながら自己を教育するという学問仁の循環サイクルに乗れない。それが、この世に生まれた命を親に感謝する最高の儀式であるのではないか。


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手元におきたい文庫本の古典

2018年01月16日 | Weblog

何といっても、第一は、アダム・スミス著の「道徳感情論」(高哲男訳、講談社学術文庫)を挙げたい。そのうえで、「諸国民の富」であるが、日本語訳はまだ誤訳と誤った解説を除けていない。第二は、内山俊彦「荀子」(講談社学術文庫)である。孔子に始まる儒教が、儒学となり、中国2000年の統治思想として揺るがない地位を占めたのは、荀子の思索が起点となる。第三は、河合隼雄「母性の社会:日本の病理」(講談社プラスアルファ―文庫)である。僕たち日本人が、母性を抜け出せないために縛られる情感を病理として自覚しないと、世界が見えないことを教えてくれる。第四は、欧米を知るには、ルソー「社会契約論」(中山元訳、光文社古典新釈文庫)は、翻訳の意味が通るだけでなく、解説も無理がない。第五は、世界中にあれだけ影響力のあったマルクス関係では、日本人の理論家である廣松渉を以て最高峰とされる。『新編輯版ドイツ・イデオロギー」(岩波文庫)だけは、参照に値する。無理が少ない分、初期マルクスは、理解しやすい。その後、マルクスは間違いを重ねることになる。ただ、原典は素朴で、正しい。しかも、孔子や荀子には及ばない。第六は、チョムスキー「統辞構造論」(福井直樹・辻子美保子訳、岩波文庫)は、ばらばらな単語が、統語され文章として定型になる原理は、自然言語を対象とする情報科学だけでなく、過去の学問を再検討する思考の仕方にヒントとなる。第七は、G.バシュラール『新しい科学的精神』(関根克彦訳、ちくま学芸文庫)は、量子力学、元素周期律表に親しんだ人なら、科学に内在する美意識が覗ける。そこからバシュラールは、ポエム(詩)域に到達する。孔子が編纂した「詩経」に触発された荀子、そして、天の理としての量子力学に見せられたバシュラールが、ポエムにいきつくことで、人文、社会、自然の3分野の科学は、最低限、この7冊を読めば見えてくる。「総合科学」とか、「総合化の理論」は、読者の脳のなかに合成され、各人、各様の専門バカからの脱出を助けてくれると思う。自分で、自分の言葉を統合し、他者と共有できる言語に高めないと、共感の構造には達しない。

1961年から63年、神戸大学教養部で、最初に総合科学を教えてくださった湯浅光朝先生にたいし、50年後に捧げるレポートである。


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中国の近代化された伝統絵画に訪れた転機

2018年01月16日 | Weblog

「光明日報」が転載した文化記事によると、中国美術界に転機が生じているという。近代化された伝統の絵画は、若い世代により西洋からの美術に刺激をうけいれ、次第に変化してきたが、ここにきて、さらに若い世代は、図式、画像構成、画面の視覚効果を重視し、筆墨の技巧、筆墨にこめられた言語メッセージをおろそかにする傾向がでてきたという。これは、中国の伝統絵画が、伝統の枠から完全に抜けだし、グローバルな世界へと羽ばたこうとする新世代と、絵師としての筆に込めた「気韻」を残そうとする旧世代の違いである。ただ、両者は、大衆迎合を正しいとは考えないで、知的世界での気品を保つという点では、基底は共通している。日本画の近代化に触発され、近代中国の絵画が伝統の制約を抜け出してきたが、このデジタル化された時代に順応しようとする若い世代の勢いは、このままに続くと思われる。もちろん、「気韻」という画像の底に流れる見えない精神文化を失うようでは、中国絵画とは言えなくなる。それは、旧世代の杞憂であろう。


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見つかるようでは、見水艦というべし

2018年01月15日 | Weblog

中国の「潜水艦」と称する軍艦、日本の領海に近づき発見される。これは、「潜水艦」とはいえない。情報が丸裸にされ、「見水艦」に成り下がった。海に潜るのは、無重力の宇宙よりも難しい。水圧による外枠にかかる圧力の耐える構造物は、科学技術の限界への挑戦である。深海に多くの資源があるとしても、簡単に事業として採取できないのは、深海水圧の壁があるからだ。さて、潜水艦は、艦の名前が同定できるデータを採取された時点で、以後は隠密行動できない軍艦となる。将棋でいえば、「角」のつもりが、ワナにかけられた「桂」のように捨て駒の扱いとなる。こうして、海戦は平時でも行われ、特に潜水艦は鬼ごっこに負けたら、敵国の領海に極秘で侵入できない。だから、深く自国領内で隠れていて、有事の時だけ突然の出てくると、敵には始末がわるい。ただ、これでこの「見水艦」は、SOSの時には、日本の自衛隊は知りませんとはいえない。今後、勝負のついた事前戦争において、おとりに使うときに活躍できる可能性はある。中国の大事な軍艦が、「見水艦」化したという屈辱は、中国国民には知られないので、国内向けの芝居の大道具にはなる。お気の毒な、中国国民。


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変化の時代に入った論語の研究

2018年01月15日 | Weblog

孔子が神のような聖人ではない、と絶対の真理の基準とする信仰による「論語」解釈は、しだいに崩壊した。孔子は、いかがわしい宗教家だとする極論まで生まれている。これは、日本の学者の一部が、司馬遷の「史記」における孔子像を破壊するために組み立てた極論である。その誤りは、別に指摘することにしたい。変化の時代に入ったにのは、中国共産党が、孔子の思想の継承者は孟子であるという朱子学、陽明学の立論を否定し、王先謙という湖南省長沙で岳麓書院を主宰した清代の学者が、荀卿の「荀子」を評価する精緻な学問を提起した。孟子は性善説、荀子は性悪説と対極に分裂・対立した。この二人はほぼ同時代人である。

孔子は、性善説も、性悪説も、どちらにも加担していない。孟子が、性善説を唱え、孔子の全面的な継承者であると自負して活動をしたから、荀卿がそれに反論し、違いを明らかにするために、体系的な学問をした。問題は、「論語」を両者がいかに読み切り、孔子の学問体系を再現したかにある。深くしらべると、「孟子」には、「詩経」の研究など、経書の学識が薄いことが分かる。それと、多くの考古学的な発見により、竹簡が多数、出土したことだ。孔子の「語」は、少なくとも現行の「論語」500編あまりには、収まらない広がりもある。孔子は、性悪とも性善とも、決める議論をしていない。人間は、喜怒哀楽を顔に出すような「色」の奥底にある心の構造を論じ、中庸を真義としている。孔子の孫の子思が、孔子の思想の奥底の中庸論を継承しているとみるならば、古代思想の見取り図は、それなりにかなり変化してくる。


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58万2000人の進路を考える

2018年01月13日 | Weblog

58万2000人、これは今日と明日に実施されるセンター試験の受験生の総数である。これには、防衛大学校も、海上保安大学校も含まれない。文部科学省の管轄するセンター試験は、国防、領土保全という国家の使命とは、制度が離れている。この58万人の人材は、どのように4年後には分散するのか?日本国の国力からすると、上位10%が最先端の人材群として、期待される。そのうちの最上位のクラスが、日本の中核企業に採用される。ほぼ3万くらい。あとは、医学を含め大学院の修士へ進学する。ここには、上位の20%ラインで通過した人材が加わり、6年間、大学・大学院の生活を送る。上位は、高度人材の退職者を補充する制度雇用である。エンジニアの多くは、この範囲である。残りの80%の進路は、国家の存亡に関係するが、経済社会の活力に大きく関係してくる。下にいくほど、企業の雇用の吸収力に左右される。

いまほぼ完全雇用であるから、ゼンター試験による振り分けは、恐ろしいほどに格付けの実効性をもつことになる。逆に、他の国のように、大学卒の完全雇用がない国では、こうした一斉の大学入試の関門は、実に空しい試験となる。合格しても、職が得られない。振り分けは、就職試験となる。日本の場合、受験者の自己選択の余地が、極めて大きい。ここは、自己責任が原則だ。


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