座間コミニティー

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◆なまけの診断表

2016年07月28日 07時05分59秒 | 聖書

怠惰は人を深い眠りに陥らせ、
なまけ者は飢える。        (箴言一九15)
 
箴言には、なまけ者に対する警告が何回も出てきますが、中にはユーモラスなものがあります。「なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む」(六9―10)。子どものころ「少年クラブ」の投書欄で読んだ、「凸坊は、夜ねて朝ねて昼にねて、時々起きて居眠りをする」という狂歌をふっと思い出すような箇所です。
だれでも、「私もそんななまけ者ではないかしら」と反省する心がどこかにあるかもしれません。なまけ者とはいったい何なのかと考えてみました。
第一に、目標がないことです。重荷を感じ、チャレンジを感じ、生きがいを感じる目標がなければ、人はなまけ者になります。
第二に、自主性がないことです。「これは、自分が進んでやらなければ大変なことになる。自分が必要とされている。自分の責任だ」と進んで取り組む自主性がなければ、なまけ者になります。
第三に、生活にリズムがないことです。昔から、「よく学び、よく遊べ」といいます。働く時、休む時、遊ぶ時、――その一つ一つにけじめ、節目をつけなければ、生活がずるずるべったりになってしまいます。
第四に、低血圧の人が朝起きられないように、心に愛とか希望とかのエネルギーがないと、ずるずるべったりのなまけ者になってしまうのではないでしょうか。
なまけ者は、いつも心の底に、悔いと不満足とを合わせ持っています。キリストは、こんな私たちに、目もさめるような愛とよみがえりの力を与えてくださる方です。神を待ち望む者は鷲のように翼をかってのぼり、走っても歩いても疲れないと聖書は言うのです(イザヤ四〇31参照)。
 
 

◆私は、そんなに愚かで、

2016年07月28日 07時04分48秒 | 聖書
わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。(詩篇七三・二二英訳)
 
これは神のみこころを求めていた人の告白である。そして彼はその内面生活を語って、「私は、そんなに愚かで、わきまえもなく……」と記している。「愚か」ということばは、普通考える以上の深い意味をもつ。アサフはこの詩篇の前半に「私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見た」と書いている。これは、彼の愚かさの中に罪が含まれていたことを示している。彼は愚かであったと書いているだけでなく、「そんなに」と、それを強調している。それは罪深い愚かさであった。弱さのゆえであると大目に見るべきものではなく、そのかたくなさとわがままな無知のために責められねばならないものである。彼は不敬虔な者たちの繁栄を見、いかに恐るべき末路が彼らを待ち受けているかを忘れて、彼らをねたんだからである。
私たちは、アサフにまさって自分が賢いと言うことができるだろうか。完全の域に達したと明言できるだろうか。あるいはまた、神から懲らしめを受けた結果、そのむちがすべてのわがままを取り去ったと公言してもよいだろうか。ああ、これは実に高慢なことである。もしアサフが愚かであったとすれば、自らを顧みる時、私たちはさらに愚かではないか。
信者よ。過去を思い出せ。神があなたにこよなく忠実であられた時、あなたは神を疑った。神がさらに大いなる祝福を与えようとしてあなたに一時的な患難を与えられた時、あなたは愚かにも「父よ。そうしないでください」と叫んだ。またしばしば神の摂理を悟ることができず、神のみこころを誤解して、すべてのことを働かせて益としてくださるのに、「こんなことがみな、私にふりかかってくるのだ」とうめいた。いかにしばしば快楽のために罪を選び、その快楽があなたの苦痛の原因となったことか。
私たちが自らの心を知るならば、必ずその罪深い愚かさを認めるだろう。そして自分の愚かさを知ったならば、アサフの「私をさとして導き……」との堅い信念を自分のものとしなければならない。
 
 

ネヘミヤ記13章23-27節

2016年07月28日 07時03分11秒 | 聖書


13:25 そこで、私は彼らを詰問してのろい、そのうちの数人を打ち、その毛を引き抜き、彼らを神にかけて誓わせて言った。「あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない。」



 イスラエルの民が約束の地のカナンに入る時に、主は彼らに命じて、その地にいる人々と結婚をしてはならないと命じました。

それは、彼らが結婚によって現地の人々の偶像礼拝に親しみ、その結果、主を拝する信仰を失ってはならないからでした。

 ネヘミヤが民の内を見ましたら、このような異邦の民が多くいました。

そこで彼は、その人々を除く働きをしました。

民を主のものとして清めるためでした。

 聖書は人種差別をしているのではありません。

それらは、主の民が主の民として、その信仰をしっかり持って生きるようにするために、教えられた戒めであったのです。

ですから、異邦人でも信仰を持つ者となれば、主の民として受け入れられてきました。

その信仰が、問題であったのです。


第一テサロニケ2章13節

2016年07月28日 07時00分15秒 | 聖書


★こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

■O:今日のコラム
イエスキリストを信じている私たちの内側には神のことばが働いています。
私たちも救いの始めには誰かから福音を聞き、それを自分で吟味し、
心で信じて救いを受け取りました。

神のことばには力があります。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(第一コリント1章18節)

救われた当初の私たちの内側には神のことばは僅かしか働いていません。
日々御言葉を読み、私たちの魂の領域に御言葉を蓄えることによって、
神の力が私たちの内側に溢れて来ます。

ヨハネの1章1節には「ことばは神であった。」とあります。
神のことばを私たちの内側に豊かに住まわせることによって、
神のことばなるイエスキリストが私たちの内側に形造られることになります。

私たちの内なる人が成長して行くことは神に喜ばれることです。
そして、私たちクリスチャンがお互いに成長して行く様を見るときに、私たちは神に感謝を捧げることができます。
なぜならば、その人の内側からキリストの香りが放たれるようになるからです。
イエス様の性質が私たちに備わるときに、周りの人々に祝福を流し出すことができるようになります。

神の恵みによって私たちに与えられた救いを、生涯掛けて達成していきましょう。

■A:考えてみよう
今一度静まって自分の心を吟味してみましょう。

■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月27日(水)のつぶやき

2016年07月28日 01時36分27秒 | キリスト教

◆神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。

2016年07月27日 17時46分13秒 | 聖書
(ローマ八・三三)
 
これは最も尊い挑戦である。これに答えることはできない。選ばれた者のすべての罪は、彼らの救いの偉大な擁護者の上に置かれ、贖いのわざによって取り去られた。そしてもはや神の記録の書には、神の民の罪は一つも記されていない。神はヤコブに罪を見ず、イスラエルに悪を見られない。彼らは、キリストにあって永遠に義とされている。
罪が取り去られる時、罪の罰も除かれる。クリスチャンに対して、神の怒りの御手から打撃が加えられることはもはやない。信者は、父なる神によって懲らしめられるかもしれない。しかし審判者である神はクリスチャンに対して、「わたしはあなたを赦した。あなたは無罪放免だ」としか言われない。クリスチャンにとって、罪の罰としてのこの世における死も第二の死も存在しない。
彼は罪から解放されるとともに、罪の罰からも完全に自由にされる。そして、罪の力もまた取り除かれる。罪は私たちの前に立ちふさがり、絶えず戦いを挑んで私たちを動揺させるかもしれない。しかし罪は、イエスと結合されたすべてのたましいにとっては征服された敵である。クリスチャンがもし神により頼むならば、打ち勝つことのできない罪は一つもない。天において白い衣をまとっている人たちは、小羊の血によって打ち勝ったのであり、私たちも同様に勝つことができるのである。どのような肉欲も強すぎることはなく、どれほどつきまとう罪も振り落とせないものはない。私たちはキリストの御力によって打ち勝つことができる。
クリスチャンよ。これを信ぜよ。あなたの罪の判決は終わった。もがくことがあるかもしれないが、罪の死は定まっている。神はその額にすでに罪の宣告を書き記された。キリストは、それを十字架につけられた。「十字架につけてしまったのです」と記されている。行け。そして罪を克服せよ。主があなたを助け、主を賛美するために生きさせてくださるように。なぜなら、罪はそのすべての咎と恥と恐れとともに去ってしまったからである。
 
 

「主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、

2016年07月27日 17時45分20秒 | 聖書

その人は高慢になっており…そこから、ねたみ、争いが生じ」(Ⅰテモテ6:3)

高慢とは、御言葉によると、神のことばに同意しないことだ。
御言葉を自分の思いで水増ししたり、差し引いたりする。
自分に都合が良い箇所は同意するが、都合が悪いと同意しない。

それらをすべて自分が決める。それは御言葉の上に、自分を置くことだ。
自分が御言葉を判断することになる。
神第一、神中心でなく、自分第一、自分中心の状態だ。

ある人が、神を知る以前は、自分の価値を、人に認めてもらうために、自分で高めなければならないと必死だったと証しした。

自分の価値を高める事により、何とか人に認めてもらおうと、いつも平安が無かった。
自分は価値が無いから、価値を何か出来る事でつけなければならなかった。

救われた後、神の愛を知り、このままで愛されている事を知り、自分には全く価値が無いけれど、今、幸せだと。

しかし、クリスチャンであっても、神第一でなく、自分第一なら、自分の価値を自分で高めなければならなくなる。
神に愛され価値を認められている、御言葉を信じないからだ。

だから、そこから妬みや争いが生じる。御言葉の通りだ。
へりくだりとは、御言葉の下に自分を置いて、御言葉に真剣に聞き、自分を御言葉に従わせる人の事だ。
御声を聞いて、自分を砕いて従うことがへりくだりだ。
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御言葉を聞きつつも、自分の価値観を選んでしまう時、やはり心に苦い思いが生じる。
心から御言葉に同意しない、自分のうちにある高慢を認め、悔い改めて行きたい。


今日の聖人の記念日

2016年07月27日 07時51分49秒 | キリスト教

聖パンタレオン

?-305年ごろ

 パンタレオンは、ニコメディアのローマ貴族の家に生まれた。父の意思によって医学を学び、またある司祭との出会いからキリスト教について学び、洗礼を受けた。医者となってからは、人々からも慕われ、評判が高まり、時の皇帝の宮廷づき医師となった。そして父の財産を継ぐと、それを貧しい人々や病人、孤児などに与えた。

 ニコメディアでキリスト教の迫害が始まると、彼の名声をねたんでいた医師たちは、彼がキリスト信者であると訴えた。そのため、彼は残酷な拷問を受け、処刑された。パンタレオンは、その名(憐れみに満ちるという意)が示すとおり、医学と愛の行いによって多くの人々を信仰に導いた。医師の守護の聖人とされている。


ネヘミヤ記13章19-22節

2016年07月27日 07時49分56秒 | 聖書


13:22 私はレビ人に命じて、身をきよめさせ、安息日をきよく保つために、門の守りにつかせた。私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。



 ネヘミヤは、人々が安息日を守るために、配慮をしました。

それは、異邦人たちが商売のために安息日に町に入ってくることを、防ぐためでした。

このために入ることができなかった異邦人たちは、安息日に城壁の前で夜を過ごすということもありました。

ネヘミヤはそうした行為をも責めて、なぜ安息日を無為にしようとするのかと問いただして、安息日を守ることを妨害するような在り方から、彼らを排除するようにしました。

 こうしてネヘミヤは、民が主を覚え、またその結果、安息日を心おきなく主を礼拝する日として守ることができるように、整えたのです。

ネヘミヤは、仕事や商売の大事さを無視したわけではありません。

しかし、そうした日常の歩みも、主を第一にすることから始まることを示したのです。


◆妻をめとらば

2016年07月27日 07時47分46秒 | 聖書

家と財産とは先祖から受け継ぐもの。
思慮深い妻は主からのもの。    (箴言一九14)
 
日本人に生まれるのも、男や女に生まれるのも、貧乏人や財産家に生まれるのも、頭がよく生まれるのも、ハンサムに生まれるのも、人間にはすべて選択がききません。神のおぼしめしのままです。ところが結婚は、人間にできる大きな選択のチャンスです。ですから、大いに心して結婚相手を選び、結婚がなされなければなりません。
箴言にも、けんかと争いの絶えない妻といっしょに暮らすのは、雨もりの家に住むようだと言っています(一九13)。立っていても座っていても、仕事をしていても眠っていても、その不運から逃れられないのです。また聖書は、そんな妻といっしょに住むより、屋根の片すみに住み、荒野にひとり住むほうがましだとも言っています(箴言二一9、19)。逆にいえば、思慮深い妻を得た者の人生は祝福です。
ところで聖書は、この自由選択できると考えられる妻についても、「思慮深い妻は主からのもの」と語ります。この「主からのもの」ということばは、もとの文では非常に強調されています。人間は、容貌とか、財産・門地・学歴などで配偶者を選んでいるかもしれません。しかし、やはり神が、最もよい適当な配偶者を与えてくださるのです。アブラハムは息子の妻を捜した時、ひたすら神に祈り、財産や門地や容貌ではなく、神の導く人を求めました。そして息子のイサクも、この問題を自分の判断や欲求に任せたのでなく、ひたすら神から待ち望んだのです。配偶者について、そのように神に伺い、神の目にかなった人を神に従ってめとるという態度をとるべきことを知りましょう。
もうおそすぎると言わないでください。ご自分の息子娘たちのために、ほんとうに虚心坦懐に神の前に出て、よりたのむべきではないでしょうか。
 
 

◆尊い、

2016年07月27日 07時47分00秒 | 聖書
すばらしい約束が私たちに与えられました。(Ⅱペテロ一・四)
 
もしあなたが実際に神の御約束の尊さを知り、心にそれを楽しみたいと願うならば、神の御約束を熟考せよ。御約束は酒ぶねの中のぶどうのようだ。それを踏めば果汁が流れ出る。聖なるみことばをくり返し熟考することは、しばしばその成就への序曲となる。御約束を思い巡らすうちに、あなたの求める恵みが、知らぬうちにあなたを訪れる。多くのクリスチャンが御約束を探して聖書を熟読しているうちに、御約束を保証する恵みがいつしかたましいの内部に浸透してくるのを経験した。そして彼らは御約束を心の近くに置くように導かれたのを喜んだ。
しかし、御約束を静思するだけでなく、それを神のみことばとしてたましいに受け入れなければならない。そしてたましいにこのように言え。「もし私が人と約束するならば、相手の能力、品性を注意深く考える。神の御約束についても同様である。私は恵みの偉大さに目を見張ってはならない――その結果よろめくかもしれない。むしろ約束した方の偉大さに目を留めなければならない。そうすれば勇気が与えられるであろう。私のたましいよ。おまえに語りかけておられるのは神であり、おまえ自身の神、偽りを言うことのできない神なのだ。おまえが今考えている神のみことばは、神の存在が真実であるように真実なのだ。神は変わることのない方である。一度言われたことを取り消されたことはなく、慰めのみことばのただ一つでも撤回されたことはない。また力において欠けているところはない。おまえにこのように語っておられるのは、天地を造られた神である。神はまた知恵において欠けておられない。恵みを与える時期を誤ることもなさらない。神は恵みを与えるべき時と、保留すべき時とを知っておられる。したがって、御約束が真実不変な全知全能の神のみことばであるのを見る時、私は御約束を信じるのであり、また信じなければならないのだ」と。
私たちがこのように御約束を黙想し、御約束の与え主に思いをいたすならば、その御約束の美しさを経験し、その成就を得るであろう。
 
 

1テサロニケ1章5~6節

2016年07月27日 07時45分01秒 | 聖書


★なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。


■O:今日のコラム
この箇所には私達が心に覚えるべき重要な霊的歩みが記されています。まず第一に福音宣教は聖霊の力によりなされるという事です。もちろんまだ主を知らない人々がわかり易い様に福音を伝え、説明するのは大切です。しかし、どれだけ頭で理解し、納得したからといって人が救われるわけではありません。聖書に

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(1コリント12:3b)

と記されているように、人が救われるのは聖霊の業によるのです。パウロがテサロニケに福音が宣べ伝えられたのは「ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」と言っているように、私達も日々聖霊の力を新たに受けて、置かれた場所で福音の証人となろうではありませんか。

現在、聖霊の力の顕れによる福音宣教は全世界で行なわれ、病人が癒され、死人が蘇り、あらゆる奇跡としるしと不思議によって人々が主イエスのもとに導かれています。しかし、それと同時に、ある意味この様な力の働きは華やかで目立つ働きとなる場合があり、時には大きな働きをしている器達の内に、数々の不正や問題、罪の行いが浮き彫りになり、人々の内に混乱をもたらし、力ある働きに対しても不信感を与え、さらに人々が主イエスのもとに来るつまずきの石となってしまう場合もあります。

それなので、聖霊の力ある働きには、もう一つの側面が重要となります。それは「御霊の実による振る舞い」別の言葉で言うなら「御霊の実に基づく生き方」を持つ事です。パウロはテサロニケで聖霊の力ある働きがなされたと同時に、その後に「また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」と述べています。

御霊の賜物と、御霊の実が共に働く時、私達は力強く真実なキリストの証人として生きる事が出来ます。全ての目標とすべき模範はイエス様ご自身です。イエス様がどの様な力ある業を行い、またどの様に大きな愛を持って人々と関わっていたか、その歩みを知り、私達もその足跡を従って行く事が出来る様に、日々、福音書を朗読し、イエス様に目を留め続けましょう。


■A:考えてみよう
4つの福音書を継続的に朗読するプランを立てて、日々それを続けて行きましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月26日(火)のつぶやき

2016年07月27日 01時35分40秒 | キリスト教

◆彼らを、君主たちとともに……

2016年07月26日 16時42分06秒 | 聖書
王座に着かせられる。(詩篇一一三・八)
 
私たちの霊的な特権は最高のものである。「君主たちとともに」とは、選ばれた社会の地位を言う。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」選ばれた社会といっても、これほどすばらしいものはほかにない。私たちは「選ばれた種族、王である祭司」である。私たちが近づいているのは、「天に登録されている長子たちの教会」である。
聖徒たちは宮廷の聴衆である。一般人が遠く離れて立っていなければならない時、「君主たち」は王国の中に入ることを許可される。そのように神の子たちは天の宮廷に自由に出入りすることができる。「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」使徒は言った、「ですから、私たちは……大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と。
「君主たち」の間には豊かな富がある。しかし、信者の富に比べれば何であろう。「すべてのものはあなたのもの、あなたはキリストのもの、キリストは神のもの」だからである。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
「君主たち」は特別な権力をもつ。天国の君主は大いなる力をもつ。彼は自分の領土に支配権をふるう。彼はイエスの御座に座る。なぜなら、小羊は「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされ」、私たちはとこしえに支配をするからである。
君主たちはまた、特別な名誉をもつ。私たちは、恵みによって置かれた高い所から、すべてのこの世の権威を見下ろす。神は「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。これに比べれば、人間の権威は何であろう。私たちはイエスの誉れに共にあずかる。これに比べれば地上の光輝などは考える価値もない。イエスとの交わりは、王冠に輝く高貴な宝石にまさり、主と結合されることは、麗しく輝く宝冠である。
 
 

「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。

2016年07月26日 16時41分00秒 | 聖書


シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」(I サムエル4:3)

イスラエルの民は、主の契約の箱さえあれば、主はご自身の契約を果たされるのだから、自分たちは敵から守られると考えた。

自分たちが契約に対して、全く真実でなかったとしても、契約の箱がある限り、大丈夫だと思った。
しかし、そうではなかった。

神は民が偶像礼拝し、神から離れて行く時、彼らが敵に打ち負かされるに任せられた。
彼らは、御名のために、ご自身の栄光のために、神は自分たちを救って下さるはずだと思った。

自分たちが負けるなら、神の御名が立たない、だから助かるはずだと高をくくっていた。
しかし、神は罪をあいまいにされたり、ごまかしたりされる事は決してない。

何よりも聖なる方だ。民は敵に打ち負かされ、天幕に逃げ帰り、疫病で歩兵三万人が倒れ、契約の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。
見事な敗北だ。

都合が悪い事はふたをし、敵に知られないように、おおい隠されるのではない。
人間は勘違いをする。不祥事は証しに悪いと、とにかく隠し、ひたすら隠す。

しかし敵の前で、民が敗北する事によって、神の聖さを現される。神は聖い方だ。
キリストとベリアルはいっさい関係無く、光と闇も何の関係も無い。
おおい隠す事によってでなく、敗北によってそれを明らかにされる。聖なる方だ。
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真実のない形ばかり、自分の都合ばかりでは、神様の栄光を拝することは出来ない。
示される事は感謝だ。真実な信仰を献げて歩んでいこう。