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「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。

2016年07月26日 16時41分00秒 | 聖書


シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」(I サムエル4:3)

イスラエルの民は、主の契約の箱さえあれば、主はご自身の契約を果たされるのだから、自分たちは敵から守られると考えた。

自分たちが契約に対して、全く真実でなかったとしても、契約の箱がある限り、大丈夫だと思った。
しかし、そうではなかった。

神は民が偶像礼拝し、神から離れて行く時、彼らが敵に打ち負かされるに任せられた。
彼らは、御名のために、ご自身の栄光のために、神は自分たちを救って下さるはずだと思った。

自分たちが負けるなら、神の御名が立たない、だから助かるはずだと高をくくっていた。
しかし、神は罪をあいまいにされたり、ごまかしたりされる事は決してない。

何よりも聖なる方だ。民は敵に打ち負かされ、天幕に逃げ帰り、疫病で歩兵三万人が倒れ、契約の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。
見事な敗北だ。

都合が悪い事はふたをし、敵に知られないように、おおい隠されるのではない。
人間は勘違いをする。不祥事は証しに悪いと、とにかく隠し、ひたすら隠す。

しかし敵の前で、民が敗北する事によって、神の聖さを現される。神は聖い方だ。
キリストとベリアルはいっさい関係無く、光と闇も何の関係も無い。
おおい隠す事によってでなく、敗北によってそれを明らかにされる。聖なる方だ。
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真実のない形ばかり、自分の都合ばかりでは、神様の栄光を拝することは出来ない。
示される事は感謝だ。真実な信仰を献げて歩んでいこう。


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