座間コミニティー

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◆神よ。御恵みによって、私に情けをかけ……。

2011年08月29日 05時58分46秒 | 聖書
(詩篇五一・一)

ケアリ博士が重病の床にあった時、「もしこの病が致命的なものならば、あなたの葬式の時の説教にはどの箇所を読みましょう」という質問がなされた。博士は、「私のような罪深い者は、話してもらう値打ちもありませんが、どうしても葬式の説教をしなければならないのでしたら、『神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください』の所をお願いします」と答えた。さらに博士は、これと同じ謙遜な心をもって、自分の墓石に次のように書くように遺言し、これ以外のことは記してはならないと言った。
 ウィリアム・ケアリ
 一七六一年八月十七日 生
 ………………………… 没
「みじめにして貧しく、力のない虫のような私
は、あなたの優しい御手によって眠る。」
最も経験の深い、最も尊敬に値する聖徒は、ただ無代価の恵みという足場によってのみ神に近づく。人間の中で最高の部類に属する人たちは、自分たちが単なる人間にすぎないことを知っている。積荷のない船は、水上に高く浮き上がるが、多くの荷を積んだ船は、水中に船体を沈めている。口先のみの信者は大言壮語するが、真の神の子は自分がふつつかなしもべであることを認め、神の恵みを求めて叫ぶ。
私たち自身の良き働き、祈り、説教、施し、そして最も神聖な物事の上にも主のあわれみを求めなければならない。血はイスラエル人の家の入口の柱だけではなく、聖所にも、恵みの御座にも、祭壇にも注がれていた。罪は私たちの最も神聖視するものの中にも侵入するからである。そこにも汚れをきよめるためにイエスの血潮を必要とするのである。もし私たちの義務にも恵みを求めなければならないとしたら、まして罪に対してはどれほどであろう。
尽きることのないあわれみが、私たちを祝福し、信仰の後退を回復させ、私たちの砕かれた骨を喜ばせようとして待機しているとは、なんと快いことだろう。


◆子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。

2011年08月28日 19時49分16秒 | 福祉
(イザヤ五四・一)

私たちは、キリストに向かって進みながら、わずかながら実を結んできた。また、自分が主の「右の手が植えた苗」であるという喜ばしい希望を抱いている。しかし、時には自分が全く実を結ばないように感じる。祈りにいのちがなく、愛は冷ややかであり、信仰は弱く、自分の心の園にある一つ一つの徳は衰え、またうなだれている。私たちは炎天下の花のように、すがすがしい夕立を必要としている。
このような時どうすればよいのか。冒頭の聖句は、このような私たちに向かって語りかける。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。」しかし、私たちは何について歌うことができよう。現在にも過去にも、少しの実も結んでいない。私はイエス・キリストについて歌うことができる。以前に、贖い主が私を訪れてくださったことを語ることができる。そうでなければ、主がその民を愛し、民の贖いのために、天の高い所から下られた大いなる愛をあがめることができる。
私は再び十字架のもとに行こう。たましいよ。おまえはかつて重荷を負っていた。そして十字架のもとで重荷を除かれた。おまえにいのちを与えたその同じ十字架が、おまえに実を結ぶことを得させるであろう。
私の不妊は何か。それは神の結実の御力が働く舞台である。私の荒地は何か。それは主の永遠の愛のサファイアをはめ込む黒い台である。私は乏しいままで行こう。無力なまま、恥と不信仰のままで。主にまだ子どもであることを告げ、主の忠実なみこころに信頼し、実を結ばない私ではあるが、声高らかに歌い叫ぼう。
信者よ。喜び歌え。それによってあなたの心も、実を結ばない他の人の心も励まされるからである。歌い続けよ。あなたはまもなく実を結ぶようになる。今、あなたに実を結ばないことを嘆かせておられる神は、すぐに果実の房をもってあなたをおおわれる。私たちの実のない経験は苦しいが、主の訪れは喜ばしい。私たちの無力さの自覚が私たちをキリストへと駆り立てる。そここそ、私たちの行くべき所である。主のうちにこそ、私たちの実が見いだされるからである。


出エジプト記8章16-19節

2011年08月28日 09時25分26秒 | 聖書
8:18 呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。 先に蛙を登らせた不思議な業がされた時に、パロはそれを取り除いてくれと、モーセに願ったことでした。自分の国の魔術師達には、蛙を登らせることは出来ても、それを消滅させることが出来なかったからです。蛙は、パロにとっては自分の近くにたむろするもので、気持ちが悪いものでした。そして、それを取り除いてくれたら民をエジプトから出そうと言いました。しかし、モ-セがそのことを聞いて、主の前に願い、その蛙を消滅させると、息をつくことが出来たパロは、心をかたくなにして、先に言ったことが嘘のように、彼等がエジプトから出ることを赦しませんでした。そこで主は、次に、ブヨをこの国にもたらすことを語られました。今までは、周りに事が起こることのみでしたが、今度は自分の身体にまで、直接苦しみの影響を及ぼす生き物をも支配して、その苦しみをもたらすことをされるというのです。このような不思議な業は、魔術師には出来ませんでした。神のみがなされる、力ある業であったのです。

◆親  と  教  育

2011年08月28日 09時05分23秒 | 聖書
若者をその行く道にふさわしく教育せよ。
そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言二二6)

子どもが問題を起こして悩んでいる親が、世の中にどんなに多いことでしょう。全部が全部、親の責任ではありません。子ども自身の責任も、環境や友達からの影響もあるでしょう。あきらめたり、がっかりしたり、自分を責めすぎたり、子どもに責任の全部をなすりつけたりしてはいけないと思います。神の恵みにたより、祈り続け、模範となって教えていくべきでしょう。
しかし、ドイツのことわざに「子どもの時していたとおりを、大人になってもする」、イギリスのことわざに「芽生えの時に曲がった木は、大木になっても曲がっている」とあるとおり、子どもの時の教育の大切さは、何回言っても言いすぎではありません。その子どもの教育で一番大切なことは何でしょうか。
第一に、「教育せよ」を考えましょう。これは原語で「ハノーク」ささげよという意味です。子どもを自分の私有物とする考えを捨て、神から預けられたその子の真の幸福のために、神の任命を受けた親として、子を神にささげる、これが、正しい教育の第一のポイントです。
第二に、「その行く道にふさわしく」です。人間は神に造られ、神に愛され、神によってその行く道を定められています。ですから、まず神を恐れるように教育することです。救世軍の母ブース夫人は、「私は悪魔の先を越して、子どもを神に従うよう信仰に導きました」と言っています。信仰があればどこへ放り出したとしても、大丈夫ではないでしょうか。次に、一人一人にはふさわしい行く道があるということです。一流大学を出たお父さんの子は一流大学へ行かなければ困るとは、考えてはならないことでしょう。
しかし、教育に大切な、教訓・模範・規律・祈りの四つがすべて、やはり親に、神を恐れ、神を知ることを要求しているとお思いになりませんか。


◆燈油……。

2011年08月28日 08時58分29秒 | 聖書
(出エジプト二五・六)

私のたましいよ。どんなにかおまえはこの燈油を必要としていることであろう。なぜなら、これがなくては、おまえのともしびが長く燃え続けることは不可能だからである。もし光が失われたり、油が切れたりすれば、おまえのともしびの芯はくすぶり、わざわいとなるであろう。おまえは自分の中にはわき上がる油の源泉をもっていない。だから、行って油を求めなければならない。そうでなければ、おまえは愚かな娘たちのように「私たちのともしびは消えそうです」と叫ばなければならないであろう。どれほどきよめられたともしびであろうと、油がなければ輝くことはできない。幕屋の中のともしびにも油が必要であり、たとえ風が吹かなくても芯を切っておく必要がある。たましいよ。おまえの場合も同様である。どれほど幸福であろうとも、新しい恵みの油の供給を受けていなければ、長く燃え続けることはできない。
すべての油が主の用に立つわけではない。地中から豊富にわき出る石油、魚から取った魚油、くるみ類から取った油などは適さない。ただ一種類の油だけが主の用に立つことができる。それは最上のオリーブ油である。生来の徳性から来る偽りの恵み、宗教家の手より授けられた想像上の恵み、外見上の儀式から来る仮想の恵み、これらは決して真の神の聖徒の力とはならない。彼は主がこのような油を喜ばれないことを知っている。ゲツセマネのオリーブ油をしぼる場所に行き、そこで押しつぶされた主からの油の供給を受ける。
福音の恵みの油は純粋であり、にごりがない。したがってその光は鮮明である。私たちの教会は救い主の金の燭台である。それらがこの暗黒の世を照らす光になろうとすれば、多量の聖い油を受けなければならない。私たち自身のために、私たちの牧師のために、そして教会のために、光の油が不足しないように祈ろうではないか。真理、聖潔、知識、愛、これらはすべて聖なるともしびから生ずる光である。しかし、私たちが個人的に神から油を受けていないならば、それらの光を輝かすことはできない。


生活保護の重要性指摘

2011年08月27日 19時44分00秒 | セーフティーネット
京都 「大震災と生存権」研修会

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 災害法制と生活保護を学ぼうと「大震災と生存権」と題した研修会が26日、京都市内で開かれました。主催は、生活保護問題対策全国会議(尾藤廣喜代表幹事)と全国公的扶助研究会(吉永純会長)です。27日までの予定。

 吉永会長が主催者あいさつで「貧困率が16%と史上最悪の状況の中で、財政負担の観点から生活保護を抑制しようとする動きがある」と批判。「東日本大震災の未曽有の危機を乗り越えるには、今こそ、生活保護制度が重要となっている」と強調しました。

 大分大学教育福祉科学部の山崎栄一准教授は、災害法制の全体像を明らかにしつつ被災者の個別支援の具体化について講演。被災者支援をすすめるにあたって、支援法制の改正に向けて運動を広く展開していくべきだと呼びかけました。

 神戸市の元ケースワーカーで現在、神戸公務員ボランティアの觜本郁(はしもと・かおる)さんは、大震災で生活基盤を失った被災者のために生活保護制度が活用されるべきなのにもかかわらず、生活保護申請、開始した件数が少なすぎると指摘。▽避難所でも生活保護が受けられる▽義援金等受け取りで生活保護は廃止すべきでない―など制度の適切な運用を紹介しました。



◆主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。

2011年08月27日 17時57分43秒 | 福祉
(詩篇三一・五)

この聖句は、聖い人々が臨終の際にしばしば用いたものである。信仰深い人の生死を通じての目的は、その肉体財産などにはなく、その霊にある。これが彼の最も大切な宝であり、これが完全であれば、すべてはよいのである。たましいに比べれば、この朽ちてしまう肉体は何であろう。信者は、自分のたましいを神の御手にゆだねる。それは神より出たものであり、主ご自身のものである。主はそれを支えてこられ、それを守ることがおできになる。主が信者のたましいを受け入れられるのは、実に当然なことなのである。
主の御手の中にあれば、すべては安全である。私たちが主にゆだねるものは、現在も、また私たちが急いでいるかの日にも安全である。天の守りの中に憩うならば、生きている日には平和があり、死んだ後には栄光がある。私たちは常に、私たちのすべてをイエスの忠実な御手にゆだねなければならない。その時、いのちは風前の灯火のようであり、患難は砂のように多くても、たましいは安らかであり、静かな安息所に憩う。
贖いは信頼の確実な基礎である。ダビデは、私たちが知るようにはカルバリを知らなかった。しかし、限定された贖いが彼を力づけた。それなら、永遠の贖いは、さらに快く私たちを慰めないであろうか。現在の助けのためには、過去における救いが強い訴えをなすのである。主はこれまでになされたことを、再びなされる。なぜなら主は変わらないからである。主は約束に対して忠実であり、聖徒に対してあわれみ深くあられる。主はその民を見捨てられることはない。
 あなたは私を殺されますが、私は信頼し
 ちりの中からであっても、あなたをほめたたえ
 語り尽くせないあなたの愛を
 人々に示し、語ります
 あなたは懲らしめ、正されますが
 無視することはなさいません
 身代金は支払われ、
 あなたの愛で私の希望は満たされます


東京新聞(2011.8.25)に生活保護制度改革に関する記事が掲載!

2011年08月27日 16時10分16秒 | セーフティーネット

生活保護制度改革 密室協議に募る不安 


生活保護制度の改革を目的に進められている国と地方の協議に対し、受給者らが不満を募らせている。医療費の自己負担導入など、制度の縮小が議論されているのに、協議が非公開で、受給者が意見を述べる機会が一切設けられていないからだ。暮らしの実態を訴える受給者の声に耳を傾けた。
(稲田雅文)

 「仕事がないのに生活保護を打ち切るとしたら、死ねっていうことですよね」と東京都内在住の四十代男性。二年半前から生活保護を受け、求職活動を続けている。今も、家族を養える仕事は見つからず、週一回、ハローワークで求人情報端末を操作する。
 七年前、長女の誕生を機に岩手県から単身東京へ出て仕事を探した。派遣社員として職を転々とした後、車の整備工場に勤めていた二〇〇八年末、派遣切りに遭い、失業。日比谷公園の年越し派遣村に身を寄せ、生活保護を申請した。

 厚生労働省によると、六月の有効求人倍率(季節調整値)は〇・六三倍で、雇用情勢は依然厳しい。協議では、失業した現役世代の受給者への対策が焦点の一つ。こうした世帯は〇八年のリーマン・ショック後から倍増。四月現在で二十四万三千五百世帯に上る。
 受給者が最も懸念するのが、自立を促す狙いで生活保護に期限を設ける有期保護の導入だ。提案した地方側は「機械的に保護を打ち切る制度にしてほしいという趣旨ではない」と協議で火消しに努めたものの、受給者の不安は尽きない。

 都内の三十代男性は統合失調症で就労が困難な境遇。十年以上前から生活保護を受け、検討されている医療費の一部自己負担導入に不安を感じている。
 同じ病気の妻と二人暮らし。お互い一人で病院に行くのは難しく、通院の際は互いに付き添う。生活保護制度から「通院移送費」として出る一人分の交通費を除き、付き添い分は生活を切り詰めて捻出する。自己負担が導入されると、夫婦合わせて月十回以上ある通院によって生活費がさらに削られる。男性は「私たちにとっては大きな問題。なぜ弱い人を苦しめようとするのか」と訴える。

 「わたしたちの声を聞いてください!」。八月十日、生活保護の受給者や支援者ら七十人が厚労省前の日比谷公園を起点に、声を上げながら東京駅近くまでデモ行進をした。
 参加者は「有期保護では生存権は守れない」「自己負担の導入はいのちの値引き」などと書かれた看板を掲げてアピールした。

 責任者を務めた東京都内の四十代男性も生活保護を受給する。昨年六月、職場での嫌がらせが原因でコンビニを退職。職を探しているときに体調を崩し、生活保護を申請した。今回の協議を知り、仲間とともにデモを準備した。「受給者の意見が反映されるべきだ」と話す。



愚痴屋

2011年08月27日 15時38分25秒 | 日記
昨日TV を見ていたら愚痴を聞くことで稼ぐ副業があると言うことでネットで検索しましたがスタッフになるには20万円の講習費がかかると書いてありました。
TVでの情報は都合がいいものでしか流れないのが解りました。

出エジプト記8章8-15節

2011年08月27日 11時22分51秒 | 聖書
8:8 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる。」蛙をこの地にもたらすということは、エジプトの魔術師にもなすことが出来たことでした。しかし、この蛙が登ってきたということ事態は、パロに取ってはつらいことでした。自分たちの国の魔術師が同じようなことが出来たとしても、それによって、この蛙を消すことが出来たわけではありません。彼にとっては、苦しみであったのです。それは何故かと言うと、蛙はあちらこちらにいるということだけではなくて、自分の部屋にも入り、自分の周りにもたむろするものとなったからです。彼にとっては、王でありますので、そんなものがそばにいることはありませんでした。従って、嫌なつらいことであったのです。自分の魔術師に追い出してもらえば良いと思うのですが、彼等にはそれは出来なかったのです。ですから彼は、自分の持つ辛さから、モーセに対して、蛙を除いてくれと願ったことでした。

◆まことの謙遜

2011年08月27日 10時58分41秒 | 聖書
謙遜と、主を恐れることの報いは、
富と誉れといのちである。      (箴言二二4)

ここに、人生の三つの祝福がずばり指摘されています。
* 富。物質的な祝福です。やはり、そういう物的、肉体的祝福が私たちには必要です。
* 誉れ。神と人とに受け入れられ、愛され、時にはほめていただけること。
* いのち。心の中に、永遠につながるいのちのエネルギーを持つこと。愛や喜びや平和ないのちを感じることは、生けるしるしともいえます。これは根本的な祝福です。
こんな人生の祝福を神から受け、人からも受けていく根本的な人生の姿勢は、謙遜であり、主(神)を恐れることだと、聖書ははっきり語っています。
謙遜ほど、にせものとほんものがまぎらわしいものはないと思います。私なども時々、「謙遜だ」などといわれることがあります。しかし、心の底で、いつも、「そうでない」「私の謙遜なんて、まだまだまやかしものだ」と感じるのです。偽りの謙遜とは何でしょうか。自分の持たないものを、持っているように思い、そのように見せかけるなら、これはもちろん不遜です。しかし、自分が持つものさえ持っていないように見せかけるなら、それはごうまんです。
ほんとうの謙遜とは何でしょうか。
・ 自分の持っているものと持っていないものを正直に認めること。
・ 自分の持っているものが一つ残らず神からの恵みの授かりものであり、何一つ自分のものだといえないことを確認すること。
・ すべての与え主、すべての支配主である神の前にひれ伏し、神に従い、神に仕えていくこと。富や権勢や人の知恵ではなく、「主を恐れる」ことこそ、真の謙遜ではないでしょうか。


◆この民は……いつまでわたしを信じないのか。

2011年08月27日 10時54分02秒 | 聖書
(民数一四・一一)

努めて不信仰の怪物を追い払え。それはキリストをこの上なく辱しめるものである。したがって、もし私たちが不信仰にふけることによりキリストを侮辱し続けるならば、主は私たちの前から姿を隠されるであろう。不信仰は雑草のようである。私たちは、その種子を土の中から完全に取り去ることはできないが、熱心に、かつ根気よくその根を枯らすように努めなければならない。憎むべきものは多くあるが、不信仰こそ最も憎むべきものである。
信者よ。あなたの場合にも不信仰は最も恐るべきものである。過去においてあなたが主の恵みに浴したという事実が、今、主を疑うというあなたの罪の重大さを倍加させるからである。主イエスを信頼しない時、主が「見よ。束を満載した車が押えつけるように、わたしはあなたがたを押えつける」と叫ばれるのはもっともなことである。これは最も鋭いいばらの冠を主の頭に押しつけることである。夫に愛されている妻が、真実な夫を信頼しないのはきわめて残酷なことである。その罪は愚かであり、赦しがたいものである。イエスは私たちに、いささかも疑う根拠となるものを与えられなかった。常に愛を注ぎ、誠実を尽くして交わってきた者から疑われるのは、つらいことである。
イエスはいと高き方の御子であられ、無限の富をもたれる。この全能者を疑い、満ち満ちた方を信頼しないのは恥ずべきことである。もしキリストが単なる水槽であるなら、あるいはその恵みはすぐに尽きてしまうかもしれない。しかし、だれが泉を飲み尽くすことができよう。無数のたましいがキリストから供給を受けたが、一人でも不足を訴えた者はいない。だから、このうそつきの不信仰を追い出せ。なぜなら不信仰の唯一の使命は、私たちと神との交わりを断ち、救い主のおられないことを嘆かせることにあるからである。バニヤンは「不信仰は、化け猫のように何度でも生まれ変わる」と言っている。それならまず手始めにその一匹の化け猫を殺し、続けて後のものも殺そうではないか。


◆群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。

2011年08月26日 18時52分11秒 | 聖書
(マルコ九・一五)

モーセとイエスとの間には、なんと大きな相違があるだろう。ホレブの預言者は、四十日間山の上にいた時、一種の変貌をなし、その顔が非常な光を放ったので、民はその顔を見ることができなかった。そのために、彼は顔におおいをした。しかし私たちの救い主はそうではなかった。モーセよりもさらに大いなる栄光をもって変貌されたが、人々は御顔の輝きのために目がくらんだとは記されていない。むしろ彼らは驚き、みもとに走り寄って来てあいさつをしたのであった。
律法の栄光は人を退けるが、イエスのさらに大いなる栄光は人を引きつける。イエスは聖にして義なる方であるが、恵みとまことに満ちておられる。そのため罪人たちは主の徳に驚き、その愛に心を捕えられて、みもとに走り寄ったのである。彼らはあいさつをし、その弟子となり、彼を主また師として受け入れた。
友よ。今あなたは、神の律法のまばゆい輝きで、ものを見ることができないかもしれない。あなたは律法の要求を良心に感じるが、それを自分の生活で実践することはできない。律法に欠点があるのではなく、それをこの上なく重んじているが、それによっては少しも神のみもとに引かれることはない。かえって心はかたくなになり、絶望の淵にさまようのである。
おお、あわれな心よ! おまえの目を、人を退ける輝きを発するモーセからそらせよ。そして、隠やかな栄光に輝かれるイエスを見つめよ。主の血潮したたる傷口と、いばらの冠をいただく頭を見よ! 主は神の御子であられるゆえに、モーセよりも偉大である。しかし主は愛の主であられ、立法者よりも優しい。彼は神の怒りを担い、その死によって、シナイの輝きにはるかにまさる神の義を現された。しかし、その義は今や目的を遂げ、イエスを信じる者の守護者となっている。
罪人よ。血に染まられた救い主を見よ。そして主の愛に引きつけられたならば、その御腕の中に飛び込め。そうすればあなたは救われるであろう。
私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、


●三六協定とは●

2011年08月26日 09時26分56秒 | 労働法
労基法第32条では、労働時間が1日8時間週40時間以内であることを規定していますが、労基法第36条に規定する「労使協定」を労基署に届け出ればその時間を超えて労働させても、労基法違反にはならないことになっています。この労使協定は、労基法第36条に基づく労使協定であることから「三六(サブロク)協定」と呼ばれます。この三六協定は、まずほとんどの会社で届出がなされているといっても良いでしょう。これが提出されていなければ、時間外労働が労基法違反となってしまうからです。

出エジプト記8章5-7節

2011年08月26日 07時00分05秒 | 聖書
8:7 呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。 全地に蛙をもたらすという不思議な業を、主はアロンにさせました。アロンが、杖をもって手を川の上、流れの上にのべますと、エジプト全土に蛙が登ってきたことを語っています。 蛙というのは、小さいものが少しいればかわいいことですが、たくさんいますと気持ちが悪くなるものです。エジプトの魔術師達も、この業をすることが出来ました。時には、このような驚くべき業を、神を知らない人々もなすことが出来ることを語っているのです。従って、何か私たちにとって不思議な業がなされたとしても、それによって驚いてはならないことを見るのです。時々、不思議な業をすることによって、人の心をその人達の方に引きつける人がいます。私たちには、その中身がわからないことがありますが、それによって、その方に惹かれてはならないのです。まことの神こそが、真の力をもたれる方でありまして、そのことを覚えて、一時的なこのような力の表れに惑わされてはならないのです。