座間コミニティー

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◆私は眠っていましたが、

2016年09月24日 15時49分33秒 | 聖書
心はさめていました。(雅歌五・二)
 
クリスチャンの経験の中に逆説は無数にある。花嫁は眠っていたが、心は覚めていたとあるのは、その一つである。深い経験をもつ人にして、初めてこの信者のなぞを解くことができる。今夜の聖句の二つの要点は、悲しみに沈む眠りと、希望に満ちた目覚めである。
「私は眠っていました。」自分のうちに住む罪によって、聖なる義務を怠り、宗教上の働きを煩わしく思い、霊的喜びに鈍感となり、全く怠慢となり、不注意となる。いのちを与えてくださる聖霊の内住される者にとって、これは恥ずべき状態であり、きわめて危険な状態である。賢い娘たちも、時にはまどろむだろう。しかし、今はすべての者が怠惰を振り捨てるべき時である。サムソンが肉の安全のひざの上に眠っている間に髪の毛を失ったように、多くの信者が力を失っている。私たちの周囲の世界が滅びつつあるのに眠るとは! 永遠が間近に迫っているのに。それは愚かなことではないか。私たちのうち一人も、目覚めていなければならない時に目を覚ましていない。時には雷鳴が響くほうが私たちのためになる。そして私たちがただちに目覚めないならば、それをさまざまな形でもつことになろう。すなわち、戦争、疫病、愛する者との死別、損失などの形で。おお、肉の安楽の床を離れ、燃える明かりを掲げて、おいでになる花婿を歓迎したい。
「心はさめていました。」これは幸いなしるしである。いのちは衰え果てているが、全く死んではいない。新しくされた心が生来の重圧と戦う時、私たちはこの死のからだの中にも、いくらかの活力を残してくださる主権者の恵みに感謝すべきである。イエスは私たちの心に耳を傾け、私たちの心を助け、私たちの心を訪れてくださる。なぜなら、目覚めた心への「あけておくれ」という声は、愛する方の声だからである。聖なる熱情は必ず戸を開くであろう。
 お立ちになっておられる愛の御姿
 私のたましいはこの客をお迎えする
 すべてのまといつく罪を振り捨て
 開いた心と苦しむ手を伸ばして
 
 

「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。

2016年09月24日 15時48分46秒 | 聖書


私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」(Ⅱコリント2:10)

「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、キリストの御前で赦した」とパウロも言っている。
人を赦せない心は、サタンに足場を与えてしまう。

自らの心を「怒り」「プライド」「憎しみ」「敵対心」「嫉妬」「高慢」へと開く事になり、心にそれらを招き入れる。
サタンに足場を作らせてしまう。

心に足場があるから、サタンは自在にあおってくるし、増幅させて来る。
人を赦さない心は、サタンが動き回る場を提供し、サタンに機会を与える事になる。

又、赦さない心は、自分自身が牢獄に入る。自分を牢獄に閉じこめる事だ。
四六時中苦しみにがんじがらめで、解き放たれる事がない。
それだけでなく、憎しみや敵対心はそのままでなく、必ず強固になり増大して行く。

心はどんどん頑なになる。
その事で思いが一杯で、常にその事を考えているから、更に思いは強固になり、要塞になって行く。
自分が要塞を築いている。
自分が自分の心を屈折させ、歪んだ、ネガティブな性格を作り、否定的な人生にしてしまう。

赦さない心は、あなたの人格も人生も破壊させてしまう。そうしたいだろうか。
赦す事を拒むなら、自らと神の関係も拒む事になる。
神にまず、あるがままの心を率直に打ち明けよう。そこから始まる。
赦せない心を祈りに持って行こう。

「赦せませんが感謝します。神様が赦せるようにして下さるからです」と祈った人が赦せるようになった。
祈りは必ず答えられる。
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自我は決して赦そうとせず、赦したくない。
が、それならずっと平安の無い人生で、自分で牢獄に入る事になる。
自分の選択であり、赦しを選び取る時、牢獄から解き放たれ、平安を得る。
「赦したくない」とまずあるがまま主に近づこう。



今日の聖人の記念日

2016年09月24日 09時45分18秒 | キリスト教

聖ノエル・シャバネル司祭殉教者

1613年-1649年

 ノエルは、フランスのメンデに生まれ、17歳のときにツールーズのイエズス会に入った。

 1641年に司祭となって、カナダへ派遣された。当時のカナダは、ヒューロン、アルゴンキン、イロクワなどの遊牧民が勢力争いをしていた。ノエルは、1644年にヒューロン地方の遊牧民のところに行き、先にそこで宣教活動をしていたガルニエ司祭とともに働いた。風土・習慣になじめず、言葉のハンデもあって宣教が難しかったが、決してあきらめず、生涯をヒューロン人のために尽くそうと決心した。

 このころから、イロクワ人による迫害が激しくなり、ガルニエ司祭をはじめ、仲間の宣教師たちが次々に虐殺された。ノエルは森に避難したが、キリスト教に反感をいだいてたヒューロン人から殺されて殉教した。彼は、失敗をした人の保護者といわれる。


◆心 を 与 え よ

2016年09月24日 09時44分26秒 | 聖書

わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。
あなたの目は、わたしの道を見守れ。(箴言二三26)
 
文語訳では、「わが子よ汝の心を我に与え」となっています。私が、若い時から暗唱し、祈るたびに心に浮かんでくるようになった聖書のことばの一つです。
ヨハネは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(Ⅰヨハネ三16)と言いました。私たちのためにすべてを与えられたお方が、「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」と言っておられるのです。
私は、その人となりや人生から、平和とか喜びとか思いやりとかの圧倒的な力がにじみ出てくる人におめにかかったことがあります。そういうものは、教養とか財力とか権力ではなく、人生のほんものの力です。そんな人は、心を神に与えている人だと、私は感じています。旧約聖書に「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(Ⅱ歴代一六9)ということばがあります。神に心を与えきった人には、力が与えられるのです。
その心を神に与え、その心が神と一つになっている人とは、どんな人なのでしょう。ヘブル語の原語から見て三つの意味があります。
第一に、神に対して全く平和になった心です。くだけきって、神に逆らう石の心の部分がありません。悔い改めて罪ゆるされたからです。
第二に、まるごと神に明け渡した心です。一部分でも私するところがありません。
第三に、ささげられた心です。神のみ声がかかったら、すぐに従って実行する心です。
神は全世界を見まわして、捜しておられます。そんな心を! そしてその人に、愛や喜びや平和の力を与えてくださいます。
 
 

◆私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。

2016年09月24日 09時43分42秒 | 聖書
私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。(エズラ八・二二)
 
護衛は、巡礼の群れにとっては望ましいものであったろう。しかし、聖なる恥を知るエズラはそれを求めることができなかった。彼は、異教の王が、エズラの神に対する信仰告白を単なる偽善とし、あるいは、イスラエルの神はその民を守ることができないと思いはしないかと恐れた。明らかに主の用であることに、肉の武器を借りることはできなかったのである。それゆえ一行は、目に見える何の保護もなく、彼らの剣であり盾である神に守られて出発した。
神に対してこのような聖なる思いをもつ信者がほとんどいないことは、懸念すべきことである。ある程度まで信仰によって歩む人も、時によると人の助けを切に求めて、そのいのちの輝きをだいなしにする。財産も支えもなく、主にのみ支えられ、千歳の岩の上に堅く立つことは非常に幸いである。もし信者が、カエサルの助けを求めることによって主の御名が汚されることを思い起こすならば、まるで主が必要を供給することができない方であるかのように、自分たちの教会のために国家の寄付を求めるようなことはできない。ひたすらに主の御腕にのみ頼ることが主をあがめる道であることを思い起こすなら、なおろうばいして親族友人の援助を求めることはできない。
私のたましいよ。ただ、神にのみ仕えよ。ある者は言うだろう。「しかし手段もまた必要ではないか」と。しかり。だが私たちが手段をなおざりにすることで失敗することはほとんどない。むしろ神を信ぜず、手段を過信することで失敗する。人の助けをなおざりにしすぎる人はほとんどいない。多くの人はそれに頼りすぎている。愛する信者よ。手段を用いることによって主の御名を汚す結果となるならば、むしろ手段を放棄して神の栄光を現すことを学べ。
 
 

ヨブ記8章1-7節

2016年09月24日 09時42分21秒 | 聖書


8:1 シュアハ人ビルダデが答えて言った。
8:2 「いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ。
8:3 神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。」



 ヨブが神に語るつぶやきと不平の声を聞いて、ビルダデが怒りました。

神に対してこのようなつぶやきを言うとは、あなたは何者であるのかというのです。

彼は語ります。

ヨブは、神に対してつぶやきの言葉を語り、自分に対する神の取り扱いに不平を述べていると。

ビルダデは、ヨブのそうした神に対する不満を表す姿勢に、疑問を持ったのです。

神の側には何も不正はない、神は義であられるということが、絶対的な真実なのだ。

従って、神が彼に対しての扱い方には、どこにも不正などはあり得ないというのです。

事の問題は神にあるのではなくて、あなた自身の内にあるのだ、と告げたのです。

ビルダデは、神様が人を訓練するために、時によって苦しみにあわせられる、そうした人格を持たれる生きたお方であるという事実を忘れていたのです。




イザヤ42章22節

2016年09月24日 09時39分59秒 | 聖書


★これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。

ガラテヤ5章16節
★私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

■O:今日のコラム
私たちの内では、常に罪なる肉の性質と、御霊に従いたいという願いが戦っています。
肉と霊の戦い。その戦い方の1つは「悔い改め」です。

肉は私たちの内で、いつも自分の陣地を広げようしてきます。
肉はどのように自分の陣地を広げるのか。それは、19節から21節に出てくる「肉の行い」を拠点としてです。
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」
これらの罪を拠点として、肉は私たちの内側の支配地を拡大していきます。

ある人は、こう思うでしょう。「私たちは何故、日々悔い改める必要があるのでしょうか。」と。
悔い改めることによって、肉がこれらの罪を拠点として、体のうちの支配地を拡大するのを阻止することが出来るのです。
ひざまずき、ひれ伏し、罪を告白し、主の御前で悔い改める。そして、「私の主はイエス様です!私を治められるのはイエス様だけです。」と宣言することで、断固として罪の支配を拒絶することが出来ます。

もう1つの戦い方、それは「御霊を喜ばせることを考えること」です。

ローマ8章5節にはこう書かれています。
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」
この「御霊に属すること」は、NIV訳では「御霊を喜ばせること」とあります。私たちが、御霊を喜ばせること、御霊の実を実らせることを願い、追い求めるのなら、私たちは肉を喜ばせること以上に、御霊を喜ばせることが出来るのです。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22,23a)
毎日、みことばに自分を照らし合わせ、みことばの基準、主の基準から外れている、自分の内の肉の性質を悔い改めていきましょう。罪の拠点をつぶしていきましょう。
そして、御霊を喜ばせること、御霊の実を実らせることを願い求めていきましょう。

本来の私たちは神の姿に似せて作られました。はじめ、人は神の御性質によく似た良い性質を豊かに内に持っていました。
けれども罪を通して、サタンは私たちの内にあった神の御性質を奪っていきました。イザヤ書の時代には、かすめ奪われたものを「返せ」と叫ぶ者がいませんでした。ですが、主は、サタンに奪われたもの、神の御性質を「返せ!」と日々叫ぶ者を探しておられます。
私たちは無知で無抵抗のままでは、やられっぱなしです。
今日、「返せ!」と抵抗し、悔い改めを通して、私たちの内にある本来の神の御性質を取り返す者となりましょう。


■A:考えてみよう
自分の内の「肉の拠点」は何だろうか?自分はやられっぱなしになっていないだろうか?
今日、今、この瞬間、自分はどのようにして御霊を喜ばせることが出来るだろうか?


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月23日(金)のつぶやき

2016年09月24日 01時33分07秒 | キリスト教