座間コミニティー

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◆神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、

2016年09月08日 17時02分42秒 | 聖書
あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ……。(エペソ一・一九、二〇)
 
キリストの復活は、私たちの救いと同様に神の力の働きである。回心は人間の自由意志によるものであり、性質がよいからもたらされたと考える者に対して、私たちは何と答えよう。死者が自分の力で墓からよみがえって出てくるのを見ることがあるなら、不敬虔な罪人が自分の自由意志によって主に立ち返ることを期待することはできるかもしれない。しかし回心は、聞いたことば、読んだことばによってできるのではない。すべての、新しいいのちを与える力は聖霊から来る。
この力は抵抗できない力である。兵士や大祭司も、キリストの死体を墓の中にとどめておくことはできず、死もイエスを幽閉しておくことはできなかった。信者が新しいいのちによみがえる時に働く力も、このように抵抗できないものである。神の恵みの御手がある人を回心させようと働く時、どのような罪も汚れも、地上の罪人も、神のその御手をとどめることはできない。
キリストを死よりよみがえらせた力が、栄光の力であったことを覚えよ。それは神の誉れを反映し、邪悪な者たちをろうばいさせた。それゆえ、一人の罪人が回心する時、神に大いなる栄光がある。
それはまた、永遠の力であった。「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しない……。」そのように私たちも死からよみがえらされたのであるから、自分の死のわざや、以前の腐敗に立ち返ることなく、神のために生きるのである。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」
最後に、冒頭の聖句において、新しいいのちがイエスに結合されていることを心に留めよ。かしらをよみがえらせたその同じ力が肢体にも働く。キリストとともに生かされるとは、なんという祝福であろうか!
 
 

「あなたは、どこにいるのか』彼は、答えた。

2016年09月08日 17時01分46秒 | 聖書


『 私は園で、あなたの声を聞きました。
それで私は裸なので、恐れて、隠れました』」(創世記3:8)

「あなたは、どこにいるのか」と主はいつも私たちに語りかけられる。
私たちは罪を犯した時、間違った時、動機が悪い時、主の御顔を避けて隠れる。

信仰者も主の御顔を避けて生活してしまう。
人間は善悪の知識が入ったゆえに、罪を犯したままでは、主に顔向けできないことを知った。

その上、主が聖い方であるので、ますます神を避け、神から遠ざかる。
御顔を避けて、神の御前から逃げると、正しい判断、思考が出来なくなって来る。

「どこにいるか」は極めて大切だ。私たちは良いものに見られたいので、外側を懸命に取り繕う。
良さそうなものに見せる。しかし、それは全く意味をなさない。

外側を作り、何か立派なものに良いものに見せようとするが、居場所が最も大切だ。私たちは罪を犯すと、失敗すると、本能的に神を避ける。

善悪を知る知識により、まずいと判断するからだ。
しかし、御子の十字架の贖いがあるからには、恐れなく大胆に恵みの御坐に近づける。

罪のための十字架だ。
「どこにいるのか」は神が知らないから問うているのではなく、裁くため、責めるための問いではなく、赦すため、神に立ち返らせるためだ。

主のもとにいる事が、私たちの最大の幸せであり、喜びだ。
何をしているかでなく、どこにいるかが大切だ。
「あなたはどこにいるのか」もし今、主と距離があるなら、すぐに主のもとに帰ろう。
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罪を犯したままでは落ち着かない。
私達の居場所は「どこにいるのか」と呼びかけて下さる神様のもとだ。
そこで、悔いた心に赦しと回復を再び与えて下さる。


今日の聖人の記念日

2016年09月08日 07時34分52秒 | キリスト教

聖アドリアノと聖ナタリア殉教者

?-304年

 ローマ皇帝マキシミアヌス付きの役人であったアドリアノは、迫害を受けるキリスト信者たちの忍耐深さとその勇気に感動し、「洗礼は受けていないが、信者だから仲間に入れてくれ」と叫んだ。そのため、ただちに捕えられた。アドリアノは結婚したばかりであったが、これを聞いた妻ナタリアは夫の行為を誇りに思い、こっそりと処刑場に行き見守った。
 アドリアノは残酷にも体を切り刻まれ、ナタリアは彼の手を持ち帰ったという。

 その後、ナタリアは夫の刑を執行した役人から結婚を求められたが、きっぱりと断わり、コンスタンチノープルの近くのアルジロポリスでその生涯を送り、夫の傍らに葬られたといわれる。


◆かすめるな、押さえつけるな

2016年09月08日 07時33分45秒 | 聖書

貧しい者を、彼が貧しいからといって、
かすめ取るな。
悩む者を門のところで押えつけるな。
主が彼らの訴えを弁護し、
彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。(箴言二二22―23)
 
まさか私たちは、自分の家の前で物乞いをしている人から、割り前をよこせと、その空かんの中の小銭をかすめたり、門前で行き倒れになった病人を、こんなところでうろうろするなと押さえつけるようなことはしていないと思うでしょう。しかし、貧しい人や悩める人を見くだしたり見殺しにしたりすることは、結局、それと同じことだと聖書は言います。そのようなことは、貧しい人・悩む人の弁護者「神」に逆らっていると言うのです。
こんな話を聞きました。英国の有名な政治家ロバート・ピールの娘が、西ロンドンの一流の仕立て屋に着物の仕立てをたのみました。その下請けをしたのが、東ロンドンに住む貧しい婦人だったのです。彼女の娘が熱病を患っていました。その病原菌が仕立てた着物についていき、やがてロバート・ピールの娘も熱病にかかって死んでしまったのです。この話の後に、「金持ちも貧乏人も別々ではない、遠く離れているのではない。人間の社会は一続きである」という解説がついていたのを思い出します。
イエス・キリストが言われたことを聞きましょう。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示録三17―18)。神は、貧しい者・悩める者を思いやる方です。私たちはこの神の前にへりくだって、神の愛を受け、ゆるしを受け、貧しい悩める方々を思いやる人となりたいものです。
 
 

◆あなたはわたしから実を得るのだ。

2016年09月08日 07時32分47秒 | 聖書
(ホセア一四・八)
 
私たちは神と一つになった時に、神から実を得る。枝に結ぶ実は、直接根から来たものである。枝を切り離せば、枝は枯れ果てて実を結ばない。私たちはキリストと一体であるゆえに、実を結ぶのである。ぶどうの一房一房は、最初はその根にあった。幹を通り道管を流れて実となって現れる。しかし実は最初幹にあった。そのように、すべての良い行為は、初めキリストの中にあり、それから私たちのうちにもたらされる。おお、クリスチャンよ。このキリストとの尊い結合を重んじなさい。なぜなら、それがあなたの望むすべての実の源泉でなければならないからである。あなたがイエス・キリストに結合していないとするならば、実を結ばない枝となるであろう。
私たちの実は霊的な摂理として神から来る。露のしずくが下る時、雲が高い所から下界を見下ろし液体の宝を落とそうとする時、輝かしい太陽が房となる実をふくらませる時、これらの天来の恵みは木に向かい、「あなたは私から実を得る」とささやく。実は根に負うところ大である。根は実を結ぶために欠かすことができない。しかしまた、実は外からの影響にも大いに負うている。私たちはいかに神の恵み深い摂理に浴していることか。神は摂理によって私たちに絶えず活力を与え、私たちを教え、慰め、力づけ、私たちの必要とするものを与えられる。わずかでも私たちが役立ち、また徳があるとすれば、それは神の摂理による。
私たちの実は賢明な農夫である神から来る。園丁の鋭いナイフが房を間引き、余分の芽を切り取って実を結ぶことを助ける。クリスチャンもそのように主によって手入れされる。「わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
私たちの神は私たちの霊的な徳の創始者であられる。だから、私たちの救いの栄光はすべて、神に帰そうではないか。
 
 

ヨブ記3章1-10節

2016年09月08日 07時31分04秒 | 聖書


3:1 その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。
3:2 ヨブは声を出して言った。
3:3 「私の生まれた日は滅びうせよ。『男の子が胎に宿った』と言ったその夜も。
3:4 その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。
3:5 やみと暗黒がこれを取り戻し、雲がこの上にとどまれ。昼を暗くするものもそれをおびやかせ。」



 こうしたことがあって、ヨブの心が変わりました。

その口から、自分が生まれた日を呪う言葉が出てきました。

自分が生まれた日は滅び失せよ、というのです。

つまり、自分の命がこの地に宿り、自分がこの世界に存在するようになったその日は呪われよ、というのです。

本来、男の子の誕生は、両親にとって最もうれしい喜びの日です。

しかし、そのような喜びの言葉が口から出たその日は、呪われよというのです。

それは、自分の誕生、また自分の存在がこの地に生じていなかったら、今のこのような身体的な痛みも苦しみも、感じることがなかったからでした。


コリント人への手紙第二2章10~11,14節

2016年09月08日 07時28分25秒 | 聖書


★もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。
★しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

イザヤ書26章7~10節
★義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!9月6日の朝です。今日一日も、主の十字架の偉大さを賛美していきましょう。主の血潮を宣言し、神様の子供として、天のお父さんの御国とその義とを求めていきましょう。僕らは、サタンの策略を知ってるからです。

サタンの策略は、僕らが、「赦さない」選択をしていくことです。他人も自分も赦さないことです。天のお父さんは完全な義なるお方です。その義に到達しない者は、罪人です。罪の報酬は死です。だから、サタンは僕らをずっと死の中に閉じ込めておきたいのです。《お前が、その罪を赦されるハズがない》とささやき、自分が赦される者ではないことを選択させるのです。

しかし、天のお父さんは、完全に義なるお方でありながら、完全な愛のお方です。神様は愛です。結びあわないモノを結ぶことのできるお方です。その方法は、神様御自身であるイエス様が、僕らの身代わりとなり十字架に架かられ、血潮を流されたことによってです。その血潮によって、僕らは、サタンの支配から贖われました。僕らは、完全に赦されました。

そして、僕らは、神様の子供として、赦しを解き放つことができる者とされました。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイの福音書6章12節)

「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイの福音書18章18節)

僕らが、つなぐ『赦さない』ものは、天でもつながれている『赦されていない』。僕らが、解く『赦す』ものは、天でも解かれて『赦されて』いる。僕らに与えられている、神様の子供としての特権です。権威です。

主は、僕らの道をならしてくださいます。共に歩むために整えてくださいます。僕らは、喜んでさばきの道で主を待つことができます。悔い改めて、イエス様が自分に必要だということを認めることによって、僕らのたましいは、常に主を待ち望みます。主の完全な愛による赦しを受け取ることによって、その赦しを解き放つことができるのです。主のさばきが地に行われるとき、世界の住民はイエス様の十字架による義を学ぶことができるのです。

サタンに縛られている悪者は、イエス様のあわれみを示されても、義を学ぶことができません。サタンは、イエス様の十字架の赦しの力を、僕らの内側で疑わせようとしてきます。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようとさせないようにしてきます。

だから、僕らは、サタンの策略を知ってるのですから、赦しを宣言していきましょう。自分自身をまず、イエス様の血潮によって、赦されている者として宣言していきましょう。そして、周りの人々にも赦しを宣言していきましょう。神様に感謝の賛美をしていきましょう。神様はいつでも、僕らを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で僕らを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

主を賛美していきましょう。

■A:考えてみよう
イエス様の血潮によって、赦しを宣言していきましょう。
自分自身に、家族に、同僚に、クラスメイトに、上司に、先生に、主の祝福を宣言していきましょう。
どんな時でも、主を賛美していきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月7日(水)のつぶやき

2016年09月08日 01時35分15秒 | キリスト教