座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆夕方も手を放してはいけない。

2016年09月20日 16時05分55秒 | 聖書
(伝道者一一・六)
 
夕方にも日中のように機会は多くある。人々はその日の労働から帰る。それで、熱心に伝道する者は、人々にイエスについて語る時を見いだす。私たちは夕方、主のために働いているだろうか。働いていないとすれば、なすべきことが山積しているのだから、もうむなしく立っていることはやめよう。罪人は福音について知らないために滅びつつある。なおためらっている者は、自分の服のすそに、滅びに落ちたたましいの血を見るかもしれない。イエスは両手が釘づけられるに任せられた。どうして私の手を主の尊い働きから引っ込めておられよう。昼も夜も主は私のために労し、私のために祈られた。どうして私が片時たりとも、肉の欲を満たし、安逸をむさぼることに費やせるだろう。
立て。怠惰な心よ。手を出して働き、手を挙げて祈れ。天国も地獄も真剣である。私もそのように真剣でありたい。そして、今夜私の神、主のためによい種を蒔きたい。
人生の夕暮れにおいても使命がある。人生は短い。活力のあふれた夜明けがあり、老衰の夕暮れが来て、人の一生は終わる。人生は短く、一日もむだにできない。古い話にあるように、もし偉い王様が黄金を山のように持って来て、一日に数えられる分だけやると言うなら、私たちはその日を長い一日とするだろう。すなわち、朝は早くから始め、夜遅くなっても手を休めないに違いない。しかし、これよりはるかに尊い仕事は、たましいを獲得することである。それなのに、私たちがすぐにその仕事から手を引くのはなぜか。
ある人たちは非常に長命である。私が彼らであれば、残る全能力を傾けて、最後の瞬間まで私の尊い忠実な主にお仕えしたい。主の恵みにより、私は馬具をつけたままで死にたい。私のからだを横たえる時、初めて私の責任を解かれたい。
老いたる者は若い者を教え、弱い者を力づけ、気落ちした者を励ますことができる。夕暮れには日中の炎暑はない。しかし静かな知恵がある。それゆえ、私は夕方にも手を放すことはしない。
 
 

「サライの女奴隷ハガル。

2016年09月20日 16時04分58秒 | 聖書

あなたはどこから来て、どこへ行くのか」(創世記16:8)

ハガルはアブラハムの子供を妊娠した途端、高慢になり、女主人サライを見下げるようになった。

奴隷から侮辱されたサライは、あなたのせいと、アブラハムに訴える。
好きなようにせよとの応答で、今度はサライがハガルをいじめた。

余りに辛くハガルは荒野へと逃亡した。
するとそこに主の使いが現われ、「サライの女奴隷ハガル」とはっきりと、サライの奴隷である立場、現実を認識させられた。

「どこから来て」高慢になった結果、サライのいじめに会い、その苦しみから逃げているという現実を、見せられ、認めさせられる。

ハガルも女主人サライから逃げていることを認める。
「女主人のもとへ帰る」よう、「身を低くするよう」告げられた。

私たちへの言葉でもある。
問題から、環境から、状況から、苦しみの余りとにかく逃げたい。
その状況から出たい。
それが救いだと思う。

しかし、主は逃げても何の解決も無いと言われる。
そこを逃げたとしても、自分自身は何も変わらないので、また次の環境で同じ事を繰り返す。

自らの傲慢ゆえに、苦しみを招いたので、身を低くし、へりくだって仕えよと。
私たちも時として、逃げ去りたいが、その所にとどまり、へりくだれと言われる。

どうしてこうなったのかよく考えと。その時、豊かな祝福と成長がある。
----------------------
どうしてこうなったのか、いつも同じなら、自分に問題があるのではないだろうか。
状況は変わらない。そこから学び変えられて行こう。


今日の聖人の記念日

2016年09月20日 06時44分35秒 | キリスト教

聖アンデレ金と同志殉教者

1821年-1846年

 韓国にキリスト教が伝わったのは18世紀の終わりごろで、年に数回中国に派遣される使節が持ち帰った書物によるといわれている。アンデレは、カトリック信者の父、清俊(1839年殉教、聖人)のもとで、幼いころから信仰深く育てられた。1836年、フランスの宣教師モバンから洗礼を受け、彼の勧めで、崔良業(チェヤンオブ)ら2人の青年とともにマカオ神学校に入った。アンデレは、韓国で西洋の学問を修めた最初の人物であった。1845年に、上海で司祭となり、キリスト教迫害が厳しい韓国に戻り宣教活動をしたが、翌年捕えられて斬首刑となった。

 韓国では1870年までに約2,000人の信者が殉教した。1984年に教皇ヨハネ・パウロ2世が韓国を訪問した際、他の102人の殉教者とともにアンデレも聖人とされた。アンデレは、韓国の司祭の保護者とされている。


◆心をまっすぐに歩ませる

2016年09月20日 06時43分30秒 | 聖書

わが子よ。よく聞いて、知恵を得、
あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ。(箴言二三19)
 
「あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ」とは、面白い表現です。
私たちの人生には、ちょっとしたきっかけが、人生の方向や内容を大きく左右することも確かにあります。以前、岐阜県に行った時、ある人がこう言っていました。ある時道を歩いていたら、自動車が踏切の真ん中でエンストしていたそうです。さあ大変だと手助けに行って、自動車を踏切から押し出したところ、その車の横腹に「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」と書いてあって、その運転手は外国人宣教師だったのです。それがご縁で、クリスチャンになりました。その話に、なるほど、そういうこともあるだろうとほほえんでしまいました。
しかし、何といっても私たちの人生を方向づけるのは、私たちの心であり、思想です。私たちの生活・事業・行動は、私たち自身の心に左右されるのではないでしょうか。聖書は、「その心に思うごとく、その人となりもまたしかればなり」(箴言二三7文語訳)と言います。
あなたが暇で、ぼんやりしている時、まず何を考えるかで、あなたの心の姿が分かるでしょう。異性のことばかり考える人もいるでしょう。ゴルフのことばかりとか、金のことばかりという人もいましょう。しかし、パウロはこう言いました。「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ一二2)。
「キリストのあがないによって一新された心に、まっすぐ道を歩ませる。」――そこには、どんなにさわやかな人生が開けることでしょぅ。
 
 

◆「主の剣、

2016年09月20日 06時42分40秒 | 聖書
ギデオンの剣だ。」と叫び……。(士師七・二〇)
 
ギデオンは、部下の者に二つのことを命じた。すなわち、たいまつをつぼの中に隠し、合図とともにつぼを打ちこわして光を輝かすこと、そして角笛を吹き鳴らし「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫ぶことであった。
これはすべてのクリスチャンのなすべきことである。まず、あなたは輝かなければならない。あなたの光を隠しているつぼを打ちこわし、あなたの燭台をおおうますを取りのけて照り輝け。あなたの光を人々の前に輝かせよ。あなたの行いを見る人々に、あなたがイエスと共にいることを知らしめよ。
次に、音がなければならない。角笛を吹かなければならない。すなわち十字架につけられたキリストを宣べ伝えることによって、罪人を救う積極的な努力がなされなければならない。福音を携えて彼らのもとに行け。それを彼らの戸口まで運んで行け。彼らの歩む道にそれを置け。彼らが福音から逃げることのないように、彼らの耳もとで角笛を吹き鳴らせ。
教会の真のときの声は、「『主の剣』、ギデオンの剣だ」というギデオンの合言葉であることを心に留めよ。神ご自身が剣をふるってくださらなければならない。それはご自身の仕事である。しかし、私たちが怠惰であってよいというのではない。手段が用いられなければならない。「主の剣、『ギデオンの剣』だ。」――もし私たちが「主の剣」とのみ叫ぶとすれば、怠惰な空いばりの罪を犯すことになる。また「ギデオンの剣」とのみ叫ぶならば、肉の腕により頼み、偶像礼拝の罪を犯すことになる。この二つが調和するように混合しなければならない。「主の剣、ギデオンの剣。」
私たちは自分の力では何もなし得ないが、私たちの神の助けによってすべてのことをなすことができる。だから、主の御名によって進んで行き、聖潔の生活のたいまつをふりかざしつつ、熱心な宣教と証しの角笛を響かせて、主に仕える決心をしようではないか。神は私たちと共にいてくださって、ミデヤン人を散らし、万軍の主として永遠に統べ治められるであろう。
 
 

ヨブ記6章14-20節

2016年09月20日 06時41分09秒 | 聖書


6:14 「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。
6:15 私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように。」



 最近は人とのつきあいが薄くなったためか、あるいは利己主義や自己中心的になったためか、本当の友達というあり方が言われなくなってきました。

これは今に始まったことではなく、ヨブの時にもそうでした。

彼は、真の友であれば、その人が落胆している時にこそ、助けの手を延べて同情を寄せるべきではないかというのです。

ところが、あなた方は川のようである。

寒い時には凍り付いて水を蓄えるが、ひとたび日が照るとその水は溶けてなくなってしまう。

また、ラクダの隊商が水を求めていっても、水がないために、荒れ地に迷って滅びる。

それと同じようだというのです。

真の友を見いだすこと、それは大きな慰めです。

イエス様は「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と言われました。

こうしたお方、また、このお方こそ、私たちの真の友であるのです。



★イザヤ38:17

2016年09月20日 06時39分04秒 | 聖書


「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」

■O:今日のコラム
今日のこの御言葉を読んで、もう一つの御言葉が思い浮かんだ人もいるのではないでしょうか。

★詩篇119:71
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

なぜ、私たちは生きる中で苦しくなるときがあるのでしょうか。
それは、絶えず『罪と重荷』を持って歩んでいるからです。罪を持っていては主と一つになることができません。なぜ、私たちは生きる中で苦しくなるときがあるのか、主のそばにいることが私たちの幸せだから、主を近くに感じることができない時に苦しいのです。

私たちが苦しみを味わう時、それは御言葉にもあるように、私たちにとって幸いなことなんです。
なぜなら、それを通してますますイエス様の十字架を見上げ、ますますイエス様に信頼し、イエス様を知り、イエス様に近づく時となるからです。

私は、あまりにも自己中心です。いつも自分の苦しみしか見えません。ですが、イエス様は私に同情できない方ではありません。ありのままの私を受け入れてくださる、本当に優しい愛なるお方です。
今日、『イエス様の苦しみ』を知りましょう。イエス様の十字架を見あげましょう。イエス様の苦しみ、イエス様の痛み、イエス様の悲しみを知りましょう。イエス様の苦しみが私の人生の中に何をもたらしたのかを知り、今日も神様の御前に進み行き、悔い改め、感謝を捧げ、イエス様の血潮を受け取っていきましょう。

★イザヤ53:5
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」


■A:考えてみよう
みなさんにお聞きしたいと思います。

“イエス様が共にいない最高な一日”
“イエス様が共におられる最悪な一日”

どちらが幸せでしょうか。

天の父なる神様は、愛する御子、イエス様の十字架の血潮ゆえに、私たちの罪を後ろに投げやり、永遠の命という約束を与えてくださいました。永遠に愛してくださる方がずっと共にいてくださるんです。

私たちのフォーカスは、問題、苦しみ、試練を越えて、その中においてもいつも離れずに共にいてくださるイエス様です。
この地上で、人に羨まれるようなどんなに楽しい日々を送ったとしてもそれはいつか終わりを迎えます。
人の目に見えてどんなに最悪な日に思えたとしても、命をかけて愛してくださる方が、イエス様が共にいてくださることを知っているのであれば、それは何にも代えることのできない、最高に幸いな日です。今日も、私が気づいても気づかなくても、愛するイエス様が私の手を離すことなく、ともに歩んでくださっているという幸いを心から感謝します。

★詩篇73:28
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。 」
★詩篇23:4
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 」


■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月19日(月)のつぶやき

2016年09月20日 01時34分35秒 | キリスト教