座間コミニティー

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◆私は海でしょうか、海の巨獣でしょうか、

2016年09月16日 16時11分17秒 | 聖書
あなたが私の上に見張りを置かれるとは。(ヨブ七・一二)
 
これは、ヨブが主に対してした奇妙な質問であった。彼は自分が全く無価値な者で、そのように厳重に見張られ、懲らしめられるに値しないと思った。そのように拘束されることが必要であるほど、手に負えない者ではないことを彼は望んだのである。この質問は、無理のないものである。しかし彼が願うような答えは得られそうもなかった。
人は海ではない。しかし海よりもさらにやっかいな存在である。海は従順にその境界線を守り、境界線が砂の帯にすぎなくても、その制限を越えることはない。海は力強いが、神の指図に従い、荒れ狂うあらしもみことばを守っている。月に対して従順であり、規則正しく満ち潮引き潮をくり返す。このように、能動的にも受動的にも海は従順である。しかし、人はいらだって境界を越え、義務を果たすべき時に眠り、活動的にならなければならない時は怠惰である。神の命令があっても、行くことも来ることもせず、してはいけないことをなし、しなければならないことを放任することを好む。
大洋の中の一滴一滴、水泡の一つ一つ、泡立つ波の起伏、一つ一つの貝がらや小石、これらはすべて自然界の法則の力を感じ、ただちにそれに従い、かつ動いている。ああ、私たちの性質が、この千分の一でも神のみこころに従うことができたなら! 私たちは言う! 海は気まぐれで、偽りが多いと。しかし海は不変である。私たちの父祖の時代から、否、それ以前の時代から海はその位置を変えず、同じ調子で同じ絶壁を洗っている。私たちは、海がどこにあるかを知っている。海はその床を離れず、その波の青も変わらない。だが人はどこにいるのか――愚かな気まぐれな人は。賢者であっても推測できようか。人が次の瞬間、どんな愚行によって不従順に誘惑されるかを。私たちは波立つ海よりも反抗的であり、見張りを必要とする。
主よ。あなたのご栄光のために、私たちを統べ治めてください。アーメン。
 
 

「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、

2016年09月16日 16時10分18秒 | 聖書

あなたがは肉に属しているのではありませんか」(Ⅰコリント3:3)

新生した私たちには、御霊の内住と共に新しい性質が生まれた。
それは神を喜び、罪を悲しみ、神に従おうとする性質だ。同時に、生まれつきの古い性質もそのままある。

これはアダムがエデンの園で神を捨て、罪を選んだ結果、自分を神とし、自己中心に、自分の力で歩もうとする性質だ。

この二つの性質がすべてのクリスチャンの内にあり、御霊は新しい性質を、サタンは古い性質を引っ張る。
私たちは常にどちらかを選択して生きている。

神に従い、自分を明け渡して行く時、御霊の支配を受ける。兄弟姉妹の交わりにおいて、自分の霊と相手の霊で交わる時、双方で主を崇め、主を喜び、双方が建て上げられ、心が満ちる。

一方が霊で、一方が肉で交わる時、御霊に満たされた者が肉にある者を引き上げる事ができる。
主を見上げる方向に、信仰的な向きに導く事ができる。

肉と肉の交わりは、果てしなく批判、悪口、裁きの泥沼となり、双方で足の引っ張り合いとなる。
喜びと平安がない。御霊に満たされた人は、いかなる場合も神を指し示し、人を引き上げて行く。

どんな時にも霊的判断、前向きな信仰的態度を持ち、人に霊的影響を与えて行く。
内なる御霊がそうされるからだ。
私達の交わりは霊だろうか、肉だろうか。まず自らが御霊に従って行こう。
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御霊に満たされ、それがあふれ周囲に主の香りを漂わすような者になりたい。
肉を明け渡し、意志を向けて、御霊の導きに従って行こう。


今日の聖人の記念日

2016年09月16日 12時42分16秒 | キリスト教

聖ニニアノ司教

360年ごろ-432年ごろ

 ニニアノは、イギリスのカンブリアの族長の家に生まれた。

 洗礼を受けた後ローマに行って学問を修め、アングロ・サクソン人たちへの宣教をしようと決心した。394年に教皇によって司教に叙階された。イギリスへの帰路、トゥールの聖マルティノと出会い、彼の影響を受けた。

 帰国後、ホイットホーンに自分の司教区を作り、石造りの教会を建てた。後にその教会は「白い家」と呼ばれて有名になり、マルティノが亡くなったとき彼にささげられた。ニニアノは近くに修道院を建て、グランビアンに住むピクト人たちが偶像崇拝をやめ、真の信仰を受け入れるように説いて各地を回った。この修道院は、6世紀にアイルランド人修道士たちのための霊性教育センターとなった。

 彼は、ホイットホーンの使徒、またピクト人の使徒と呼ばれている。

聖コルネリオ教皇

?-253年(在位251-253年)

 聖コルネリオはカルタゴ(現在のチュニジア共和国)に生まれた。キリスト教徒ではなかったが、成人してから洗礼を受け、司祭への道を志した。後に叙階され、249年ごろ、カルタゴの司教になった。謙遜で善良なコルネリオは、デキウス帝の迫害によって苦しむ信徒たちを心にかけ、司教として励ました。250年1月20日に教皇ファビアノが殉教し、14ヶ月後、コルネリオが教皇に選ばれた。

 コルネリオの在位中、「大罪のゆるし」と「迫害のときに棄教した信徒の教会復帰」が問題となった。コルネリオは「司教によれば、大罪をゆるすことができる」と主張し、カルタゴの司教チプリアノがこれを支持した。しかし、ノヴァティアヌスはコリネリオの主張に反対し、自らが教皇であると宣言した(対立教皇)。

 251年、コルネリオはカルタゴに司教たちを集め、棄教者がゆるしの秘跡を受け、償いのわざを行えば教会に戻ることができることを確認した。これによって、ノヴァティアヌス派は排斥された。

 同じ9月16日に記念するチプリアノ司教は、教皇コリネリオをあらゆる面でよく助けた。チプリアノは、教会が一つであるために、使徒ペトロの後継者である教皇のもとに、司教、信徒たちが一致することの大切さを強調した。

 デキウス帝の死後、ペストが流行し、民衆の不満は、キリスト教徒に向けられた。そのため、トレボニアヌス帝もキリスト教を弾圧し、コリネリオは捕らえられた。彼は、追放されたチェントゥリチェッレ(現在のチヴィタヴェッキア)で253年に亡くなった。

聖チプリアノ司教殉教者

?-258年

 聖チプリアノは、カルタゴ(現在のチュニジア共和国)に生まれた。彼は高い教育を受け、修辞学の教師、弁護士をしていた。貧しい人に持っているものを施し、洗礼を受ける前から、貞潔の誓いを立てていた。254年、彼は洗礼を受け、2年後司祭に叙階され、その後カルタゴの司教になった。

 当時、デキウス帝の迫害で棄教したキリスト教徒が、教会に戻ることが問題となった。教皇コルネリオは「司教によれば、大罪をゆるすことができる」と主張し、チプリアノがこれを支持して、ノヴァティアヌス派に対抗した。また、ノヴァティアヌスによって分裂した教会で受けた洗礼について、チプリアノはその有効性を認めなかった。

 チプリアノ司教は、同じ9月16日に記念する教皇コリネリオをあらゆる面でよく助けた。チプリアノは、教会が一つであるために、使徒ペトロの後継者である教皇のもとに、司教、信徒たちが一致することの大切さを強調した。

 ウァレリアヌス帝(在位253年-260年)の迫害のとき、チプリアノはチュニジアのコルバに追放され、投獄された。258年、「神に感謝」ということばとともに、斬首によって殉教した。彼は優れた著作家でもあり、『主の祈りについて』『善行と施しについて』などがある。


◆いのちの種と土地

2016年09月16日 12時41分10秒 | 聖書

愚かな者に話しかけるな。
彼はあなたの思慮深いことばをさげすむからだ。(箴言二三9)
 
「猫に小判」「馬の耳に念仏」「豚に真珠」などと、動物たちには気の毒ですが、洋の東西を問わず、同じようなことばがあるものです。どんなにすばらしい知恵のことばや、いのちのことばの種がまかれても、受け入れる心の土壌が整えられていなければ、むだだというのです。
イエス・キリストは、有名な種まきのたとえの中で、こう話されました。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた……。」昔、イスラエルでは畑に畝を立てず、パアッパアッと種をばらまきました。ある種は、踏み固められた道端に落ち、たちまち鳥についばまれてしまいました。もちろん、芽は出ません。ある種は、土の少ない岩地に落ちて、すぐ芽が出ました。しかし根がないために、日に照らされてその芽は枯れてしまいました。ある種は、いばらの土地に落ちて生え、いばらにさえぎられて、ひょろひょろになり、実を結びませんでした。最後に、よく耕された土地に落ちた種は、生え育って、三十倍六十倍百倍の実を結んだという話です(マルコ四2―9参照)。
世の力や悪魔が土足で出入りしている心は、無関心な心というか、道端のようです。次に、すぐ熱しますが困難や迫害に会うと冷めてしまう心は、岩地のようです。また、いばらの地は、この世の心遣いと富のまどわしに邪魔されている心です。そして、深く耕された心は、掘り起こされ、くだかれた心です。柔らかにされて、神の種と雨と日の光を待ち望んでいます。神のいのちのことばが、こんな心に深くまかれるなら、やがて実を結ぶのです。
 
 

◆あなたがたが……

2016年09月16日 12時40分28秒 | 聖書
神のご性質にあずかる者となるためです。(Ⅱペテロ一・四)
 
神のご性質にあずかるとは、もちろん神になることではない。そのようなことはあり得ない。神の本質は、被造物の関与できないものである。被造物と創造者の間には、絶えず本質的な深淵が横たわっている。しかし最初のアダムが神のかたちにかたどって造られたように、私たちも聖霊によって生まれ変わることにより、いっそう尊い意味において、いと高き方のかたちに似、神のご性質にあずかる者となる。私たちは恵みにより、神に似たものとされる。
「神は愛です。」私たちもまた愛とされる。「愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」神は真理である。私たちもまた真実な者となり、真理を愛するに至る。神は善である。そして神は恵みによって私たちを善なる者とし、私たちを清い者とせられ、神を見ることを得させられる。
しかしこれよりさらに高い意味において、私たちは神の性質にあずかる者となる。それは、絶対に神のようになり得ない私たちにとって、考え得る最高の意味においてである。私たちはキリストの神たるご人格の肢体となるではないか。かしらを流れるのと同じ血が手にも流れ、キリストを生かすのと同じいのちがその民をも生かす。「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」のである。否、これだけではまだ十分でないかのように、私たちは主と結婚する。主は義と真実をもって私たちと婚約された。そして主につく者は主と一つの霊になる。
なんという驚くべき恵み! いったいだれがそれを会得できよう。イエスと一体になる――枝がぶどうの幹につながって一体となる以上に、私たちは主の一部分となる。これを私たちは喜び、さらにこう心に銘記しようではないか。神の性質にあずかる者は、人との交際の中に、いと高き聖なる方との関係を表し、日々の歩みと会話の中に、肉の世の腐敗から逃れ出た者であることを明らかにすべきである、と。
ああ、さらに聖い生活を望みたい。
 
 

ヨブ記5章8-16節

2016年09月16日 12時39分08秒 | 聖書


5:8 「私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。
5:9 神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。 5:10 神は地の上に雨を降らし、野の面に水を送る。
5:11 神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う。」



 エリファズは、ここでヨブに対して、私があなたのような状況に陥っていたら、私はすぐに神の前にへりくだって、自分の罪を悔い、許しをいただいて、立ち直ると告げました。

なぜなら、そうした者に対して、主は恵み深い方であられ、また弱さの中にある者を救い出してくださる、そういうお心を持っておられるお方だからだというのです。

 ところが、そのような悔い改めと謙虚な思いを持たないで、ヨブのようにつっぱねているならば、神様は恵みをそのような心の人には与えず、苦しみはますます心の中に増殖するばかりだというのです。

エリファズにとっては、人の苦しみとか痛みというのは皆、その人が神の前に悪を行ったからだという思いが強くあったのです。

ですから、そのことを認めて神の前に出よと勧めたのです。


2コリ10章4-5

2016年09月16日 12時36分21秒 | 聖書


★私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。


■O:今日のコラム
この地上に歩んでいるならば、様々な戦いが私たちの前にはやってきます。
大きな問題が私たちの前に立ちはだかるときがあります。

そのようなときに、私たちはどのようにして戦っていけばいいのでしょうか?

先日、祈りの力という力強い映画を見ました。
まだご覧になっていない方もいると思うので詳しい内容は控えますが、
主人公がある問題に直面します。今まではその問題に対して自分の力に頼り、自分の方法で解決しようとしてきました。
しかし、問題は解決されるどころか事態がどんどん悪化して行きます。

そのような中、主人公は自分の戦い方が間違っていることに気づきます。
問題や現状にだけに目を留めていましたが、その問題の裏側で働いている霊的な戦いには目を留めていなかったのです。
今まで自分の力に頼ってきた主人公ですが、戦い方を変え「祈りとみことば」 による方法で戦いを始めていくのでした。

そのような内容の映画です。

私たちも戦い方は同じです。
「祈りとみことば」によって敵に勝利していかなければなりません。
武器は御霊の与える剣「神のことば」です。(エペソ6:17)
その剣には力があります。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

この剣をもって私たちは祈ります。
エペソ6:18には「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」とあります。

祈りと御言葉が一つとなったときに私たちは大いなる勝利を経験することになります。私たちの方法によらず、神様が戦ってくださるからです。

今一度私たちの戦い方を見直していきましょう。
私たちの問題は主が戦ってくださらなければ勝利することができません。
主に戦って頂きましょう。私たちのやり方を手放し、霊の戦いに目を向けていきましょう。

「祈りの力」の映画のように私たちが戦い方を知るならば、主の大きな御業を私たちの日々の生活の中で味わうようになります。


■A:考えてみよう
私たちは様々な問題に対してどのような戦い方をしてきたでしょうか?
今一度私たちの戦い方を見直していきましょう。


■P:祈り
イエス様、私に祈りとみことばを実践する力をお与えください。
私には主が共におられます!絶えずあなたに信頼を置くことができますように助けてください。イエスキリストのお名前によってお祈りします。


9月15日(木)のつぶやき

2016年09月16日 01時34分07秒 | キリスト教