4:17 「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。
4:18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。
4:19 まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、
4:20 彼らは朝から夕方までに打ち砕かれ、永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。」
エリファズは、ヨブが自分の苦しみを述べてその身を呪った時に、それは同時に神をあなどっている行為だと思ったようです。
そこで彼はヨブに対して、いくら自分が正しいといっても、あの聖いお方の前に自分の正しさを誇ることができる人がいるであろうかと言いました。
聖なる天使さえも、神の前では誤りを認められるのであれば、ましてやこの地上にあって、しっかりした土台がない、まるで塵の中に礎をおいて家を建てて住むような人間に、神の前に自らの誇りを持って語ることができだろうかと、問うたのです。
だから神の聖さの前に、黙してひれ伏すべきだということが、ヨブへのすすめでした。
彼は口実を考えてまぎらわそうとした。しかし、それはむだであった。腫れ物がうむように、苦悩は増大し、彼が告白というメスを用いようとしなかったので、その霊は苦悩に満たされて安息を得られなかった。
ついに彼はへりくだり、罪を悔いて神のみもとに帰るか、それともその場で悶死するかのどちらかであることがわかった。それで彼は、急いで恵みの御座に行き、すべてをご存じであるお方の前で、自分の悪の巻き物を広げ、これまでのすべての邪悪を、詩篇五一篇、その他の詩篇にあることばをもって告白した。このことをなし終えると(これは非常に簡単なことだが、高慢な者にはこの上なく困難である)、彼はすぐに神の赦しのしるしを受けた。彼の砕かれた骨は喜び、彼は密室を出て、咎を赦された者の祝福を歌った。
恵みによってなす罪の告白の価値を見よ! それはすべての価値にまさって尊ぶべきものである。いやしくも、真実の、幸いな告白がなされるところ、あわれみは自由に与えられる。悔い改めと告白に、あわれみを受ける価値があるからではなく、ただキリストのゆえに与えられる。神はほむべきかな。砕かれた心のあるところ、必ずいやしがある。私たちの罪をきよめる泉は絶えず流れている。
おお、主よ。まことにあなたは「赦しの神」であられます。それゆえ、主よ。私たちは自分の罪を告白します。
七度を七十倍するまで言います」(マタイ18:22)
日常生活して行く中で、弱さ、足らなさのゆえに、どうしても人を傷つけたり、人に傷つけられたりしてしまう。
悪意でなくとも、誤解や行き違いが生じたりする。完璧な人などいない。
不愉快な思いをしたり、被害をこうむる事がある。
それゆえ、日毎に赦し合う必要がある。赦しは、神との関係に直につながっている。
人を赦さなければ、自らと神との関係にひびが入る。
そのように御言葉が言っている。「私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」。
ユダヤ人をかくまった罪により、ナチス強制収容所で姉を失ったコーリー・テンブームは、戦後、各国を回り証しし、御言葉を伝えていた。
ドイツで赦しの福音を伝えた。集会の最後に、握手を求めて人々が列をなした。
その時、一瞬心臓が停止し、世界が止まったのではないかと思った。
姉を虐待し死なせた人物がそこに並んでいた。時間が止まり、心身が硬直した。
赦しを説きながら、自分は絶対に赦せない。
一瞬、「主よ助けて下さいと」心で叫び祈った。「手を差し出しなさい」との主の御声を聞いた。
自分には出来ない、しかし意志で主に従うべく重い手を差し出した。
その時、天から愛と赦しが降り注ぎ、抱き合った。意志を向ける時、神が働かれる。赦しが臨む。
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赦せないという肉の声と同時に、私達は、赦しなさいの神様の御声も聞くことが出来る。
自分には絶対できなくても神様がさせて下さる事を信じ、委ねよう。
聖ノトブルガ
1265年-1313年
ノトブルガは、オーストリアのチロルの貧しい農家に生まれ、18歳のときにヘンリー・ラッテンブルグ伯の城に手伝いとして雇われた。彼女はよく働き、いつも明るく、皆から好かれた。
城に貧しい人たちが物乞いをしに来るのを見て、ノトブルガは、食べ物の残りをその人たちに与えた。しかし、そのことをよく思わなかった夫人から追い出され、近くの農家に住み込みの手伝いとして働くようになった。
ある日曜日に、ミサに出るために麦刈りの仕事を断わったことで主人の怒りにふれ、彼女は神に正しさを証明してもらおうとして、鎌を高く差し上げて手を離し、鎌を空中にとどめたといわれる。そのため彼女の像は、鎌を持って描かれている。
その後、ヘンリー伯の夫人が亡くなり、ヘンリー伯が再婚すると、家事をする女性が必要となり、ノトブルガが呼び戻された。彼女は亡くなるまでそこで働き、貧しい人たちに施しを与え、城のためにも貢献した。
彼女は、雇い人の保護者として親しまれている。
富を得ようと苦労してはならない。
自分の悟りによって、これをやめよ。(箴言二三4)
しかし、自分のために金をためることだけを人生の目標にしている人々も、世の中になくはありません。落語に、「黄金」というのがあります。金をためるためにのみ生きた男が、病気になり、死んでその金が人手に渡るのを惜しんで、あんころもちの中に金をくるんで飲みこみ、ついに窒息して死んでいく話です。
聖書の中でもヤコブは、金持ちになるために人生のあらゆるエネルギーを消費する、そのような金持ち志願者たちに、こう警告しています。少々長いのですが、読んでみましょう。富を得ようと苦労する者の後ろ姿が明らかです。「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました」(ヤコブ五1―5)。
キリスト・イエスは、私たちを富ますために貧しくなってくださった方です。
あらしが暗いガリラヤ湖上に吹いたとき、人々は顔色を失い、今にも舟が難破するのではないかと恐れた。こうして一切の人間的な頼みの綱が切れたとき、眠っておられた救い主が起き上がって、一言で大あらしを静められた。そのために主が乗っておられる舟も、その他の舟も共に安きを得た。
イエスは海の星であられる。私たちの心がイエスをいかりとし、舵とし、灯台とし、救助艇とし、港とすることができますように。
主の教会は、提督の乗られる旗艦である。私たちはこの教会の集いに出席し、この旗艦の将校である教職者を励まそうではないか。常に私たちはイエスの航跡に従い、信号に注意し、主の海図に従って舵をとり、呼べば答えられる所におられる主を覚えて、決して恐れないようにしたい。護送船団のうち一そうたりとも、難破するものはない。大提督がすべての舟の一つ一つの舵をとり、目指す港へ安全に伴われるのである。
信仰によって、私たちはいかりづなを解いて航海に出る。そしてイエスと共に苦難の海に乗り出す。風波は容赦しないだろう。しかし、それらはすべてイエスに従う。だから、外にどんな突風が吹いても、信仰により、内には幸いな平和がある。ゆえに、私たちは主にあって喜ぼうではないか。主の舟はすでに港に入った。こうして私たちもまもなく港に入るであろう。
4:7 「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。
4:8 私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。
4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」
ヨブを慰めに来た友人達は、あまりにひどいヨブの身体の悲惨な状況を見て、彼に近づくことも、彼に語りかけることも、しばしできませんでした。
ヨブが自分の苦しみや痛みに耐えがたいことを覚えて、その現実の苦しみを訴え始めた時、彼らは意を決したようにして、ヨブに語りかけ始めました。
ヨブの友人であるテマン人エリファズが、まずヨブに語りかけました。
あなたは神を恐れることを日ごとに人に語ってきた、そして自分の行いを誇っていた人ではないのですか。
その人が、つぶやくとはなぜなのか、というのです。
神は、善を行っている人に悪いことを行って、報いることがあろうかというのです。
だから神の前に悪をなしたから、ヨブに苦しみが来たのだというのです。
★『のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。
わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。』
■O:今日のコラム
今、栄えているものは衰え、代わりに上からのものが栄えるようになります。バプテスマのヨハネの宣言のようにです。『私は衰え、主が栄えなければならない。』今、世の物で満たされていても、それは必ず失われていきます。それも突然にです。しかし、上からのものは、ますます満ちあふれるようになるのです。私たちがキリストにあってよみがえらされたのなら、上にあるものを求めましょう!
のんきな女とありますが、この「のんき」は「安逸」とも訳されます。「うぬぼれ」も英語の聖書(KJV)では、ケアレスで無頓着というような意味で似ている表現です。これは世の物に酔いしれている状態をさしています。眠った状態とも言えます。ラオデキア教会の状態とも言え、大バビロンのスピリットの影響を受けているとも言えます。
だから、11~12節にあるように、熱心に悔い改めて、目に見えない、まだ得ていない本当のいのちを強く求める生き方が重要です。ラオデキア教会も、世のもので酔いしれていないで、本物を得るために、熱心に悔い改めなさい、と命じられたのです。着物を脱ぐことはプライドを脱ぎ捨てる事です。裸になる事は隠し事を神の前にしない事です。荒布をまとう事、胸を打ち叩く事は悔い改めを指します。
どれだけ、世のもので満たされようと、天にあるもの、上からのもので満たされなければ貧しい状態なのです。霊的な目が開かれる事を求めて、本物を求めて、毎日、熱心な悔い改めを主と共にしていきましょう!熱心に悔い改めて、イエス様を求めるのです!
『もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。』(ローマ8:25)
■A:考えてみよう
まだ得ていない、まだ見ていないものを求めて熱心に悔い改める。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
イザヤ書31章6節(第二コリント7章) goo.gl/LY1J3X
— 大西利幸 (@tosi_o) 2016年9月13日 - 07:28
ヨブ記9章32-35節 goo.gl/hKqMHY
— 大西利幸 (@tosi_o) 2016年9月13日 - 07:31
◆彼らは涙の谷を過ぎるときも、 goo.gl/hjcGI6
— 大西利幸 (@tosi_o) 2016年9月13日 - 07:33
◆まやかしの食物 goo.gl/cMa7G5
— 大西利幸 (@tosi_o) 2016年9月13日 - 07:34
今日の聖人の記念日 goo.gl/JxYlv7
— 大西利幸 (@tosi_o) 2016年9月13日 - 07:35
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」 goo.gl/WiQDFL
— 大西利幸 (@tosi_o) 2016年9月13日 - 15:53
◆この人は、罪人たちを受け入れて、 goo.gl/o0WUlv
— 大西利幸 (@tosi_o) 2016年9月13日 - 15:54