罪赦された人でも、「もし最後の時に私の罪が記憶されていて、私の名が救われた者の名簿から落とされたらどうしよう」と言う。彼は、現在実を結んでいない状態を思い、前途をながめて、自分の弱さと前に横たわる多くの誘惑のために、倒れて敵の食にされてしまうのではないかと恐れる。罪と現在の悪を自覚し、自己の腐敗を覚えて恐れおののきながら、彼は「どうか私のたましいを罪人とともに……取り集めないでください」と祈らないわけにはいかなかった。
友よ。あなたがこの祈りをささげたことがあるならば、あなたの品性がこの詩篇に記されているようなものであるならば、罪人とともに取り集められることを恐れる必要はない。あなたはダビデのもっていた二つの徳――外で誠実な歩みをし、内において主に信頼する徳――をもっているか。またキリストの犠牲に頼り、へりくだった望みをもって神の祭壇を囲むことができるか。もしそうなら、心を安んじてよい。あなたは決して罪人とともに取り集められることはない。なぜなら、そのようなわざわいは起こり得ないからである。
さばきの時の収穫は種類別である。もしあなたが神の民のようであれば、神の民とともになるのであり、罪人とともに取り集められることはあり得ない。あなたは高価な価をもって買われたからである。キリストの血によって贖われたあなたは、永遠の主のものである。そして主のおられる所に、その民もいなければならない。あなたはこの上なく主に愛されており、堕落した者とともに捨てられることはない。キリストが愛された者が滅びるのか。否、それは不可能である。天国があなたを必要としている。それなら、あなたの保証人である主に信頼して恐れるな!