座間コミニティー

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◆私の心が衰え果てるとき……

2016年09月22日 15時43分01秒 | 聖書
どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。(詩篇六一・二)
 
私たちはたいてい、心が衰え果てた経験をもつ。それは、あらしのために転覆して沈んだ舟のようである。もし主が私たちの深い堕落の底をかきまわし、どろや汚物が立ち上がるのを許されるならば、私たちは内なる腐敗を見いだしてこのような姿となる。また失望落胆によって、このような状態となる。大波が次々と頭上を越えていく時、私たちは壊れた貝がらのように波にのまれる。しかしそのような時にも私たちのために十分な慰めが備えられている。私たちの神は、あらしに悩む舟の港であり、よるべない巡礼の宿である。
神は私たちよりも高くあられる。神のあわれみは私たちの罪よりも高く、主の愛は私たちの思いよりも高い。人々が、自分より低いものに信頼を置いているのは、実にあわれである。しかし、私たちの信頼はきわめて高く、栄光の主に堅く据えられている。主は岩であられる。それゆえ主は変わることがない。そして高い岩であられる。私たちを衰え果てさせるあらしは、主の足もとのはるか下で荒れ狂っている。主はあらしに悩まされることなく、ご自身の心のままにこれを支配される。この高い岩の下に隠れるならば、私たちは台風にも動じないで立つ。この高い岩陰には、完全な静けさがある。
私たちの悩める心は、しばしば混乱に陥る。そして、この神の安息所に導かれることを必要としている。そのゆえに冒頭に掲げた祈りがなければならない。
おお、主、私たちの神様。あなたの聖霊によって信仰の道を教え、あなたの安息に導いてください。風が私たちを海上に吹き出し、かよわい私の手ではもはやどうしようもないのです。主よ。あなたのみが、砂州や暗礁の間をぬって完全な港に導かれます。私たちはどんなにあなたに依存していることでしょう。この身をあなたのみもとに引き寄せていただくために、私たちはあなたが必要なのです。安全と平和の中に賢明に導かれるのは、ただあなたの賜物によるのです。今夜、どうかあなたのしもべを導いてください。
 
 

「サライの女奴隷ハガル。

2016年09月22日 15時42分16秒 | 聖書

あなたはどこから来て、どこへ行くのか」(創世記16:8)

ハガルはアブラハムの子供を妊娠した途端、高慢になり、女主人サライを見下げるようになった。

奴隷から侮辱されたサライは、あなたのせいと、アブラハムに訴える。
好きなようにせよとの応答で、今度はサライがハガルをいじめた。

余りに辛くハガルは荒野へと逃亡した。
するとそこに主の使いが現われ、「サライの女奴隷ハガル」とはっきりと、サライの奴隷である立場、現実を認識させられた。

「どこから来て」高慢になった結果、サライのいじめに会い、その苦しみから逃げているという現実を、見せられ、認めさせられる。

ハガルも女主人サライから逃げていることを認める。
「女主人のもとへ帰る」よう、「身を低くするよう」告げられた。

私たちへの言葉でもある。問題から、環境から、状況から、苦しみの余りとにかく逃げたい。
その状況から出たい。それが救いだと思う。

しかし、主は逃げても何の解決も無いと言われる。そこを逃げたとしても、自分自身は何も変わらないので、また次の環境で同じ事を繰り返す。

自らの傲慢ゆえに、苦しみを招いたので、身を低くし、へりくだって仕えよと。
私たちも時として、逃げ去りたいが、その所にとどまり、へりくだれと言われる。

どうしてこうなったのかよく考えと。その時、豊かな祝福と成長がある。
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どうしてこうなったのか、いつも同じなら、自分に問題があるのではないだろうか。
状況は変わらない。そこから学び変えられて行こう。


今日の聖人の記念日

2016年09月22日 06時56分07秒 | キリスト教

聖トマ(ヴィラノヴァ)大司教

1488年-1555年

 トマは、スペインのヴィラノヴァに生まれた。
 アルカラで勉強した後、サラマンカ大学で道徳神学を教え、1516年にアウグスチノ会に入り、司祭となった。管区長として、多くの宣教師を新大陸に送った。

 また、ドイツ皇帝カール5世の聴罪司祭として相談に乗り、1544年にヴァレンシアの大司教となってからは、教区内の教会改革をするとともに、貧しい人たちの救済に努め、学校・病院・施設を建てた。アウグスチノ会の学問研究の保護者といわれる。


◆父  を  敬  う

2016年09月22日 06時55分10秒 | 聖書

あなたを生んだ父の言うことを聞け。
あなたの年老いた母をさげすんではならない。(箴言二三22)
 
聖書は、徹底的に、「父を敬い、母を敬え」と言っています。しかしこの世には、父を敬えない人が実に多くいるのではないでしょうか。私の知っている女性は、母といっしょに、小さい時に父に捨てられました。やっと高校を出て、銀行に就職しましたが、職場で得た男友達からも、肉体をもてあそばれた上で捨てられたのです。彼女は、徹底的に男性不信に落ち入り、自分の生涯の目標を男に、父親に復讐することに決めてしまい、みじめな人生を送るようになりました。
私自身も、争いの絶えない家庭にあって、父を尊敬できなかった者です。父を憎み、父を抹殺したい思いすらありました。この父の子として生を受けたことをのろいました。
しかし、そんな父を徹底的に愛し、そんな私を徹底的に愛してくださる神を知りました。神の愛は、すばらしいから愛するとか、よくやっているから愛するというのではありません。罪深い弱い者も愛し、生かしてくださいます。私の父を通して、私をこの地上に生かしてくださった神とその愛を見いだした時、人間の尊敬とか愛とかの背後にある、運命的ともいうべき崇高なものが分かるような気がしてきました。そして、父のために祈っているうちに、父のよさが分かり、その偉大さが分かり、父の人間性がだんだんと分かってきて、私の心に、父を敬う心がわいてきたのです。人の親となって、自分もけっして尊敬される資格のある父親でないことが分かると、いよいよ父を慕い敬う気持ちが尊く分かるような気がするのです。
老人をさげすみ、自分の親をさげすむ生き方は、その終点が、自分もまたさげすまれ孤独となる確かな道ではないでしょうか。「父を敬う」道は、神を恐れ神を愛し従う道と、もとが一つであるような気がするのです。
 
 

◆イスラエルは、

2016年09月22日 06時54分28秒 | 聖書
おのれの造り主にあって喜べ。(詩篇一四九・二)
 
信者よ。心から喜べ。そしてその喜びは神からわき出ることを知れ。あなたは喜ぶべき多くの理由を神のうちにもち、詩篇の作者のように「私の最も喜びとする神」と歌うことができる。喜べ。主が支配者であられることを。また主が王であられることを。主が御座に座しておられること、すべてを支配されることを。
神の性質の一つ一つは、私たちの喜びの日光の新たな光線となるべきである。私たちは自分の弱さのために震えおののくので、神が力ある方であることは私たちの喜びとなる。神が永遠にいます方であることは、私たちが草のようなはかない存在であることを知る時、私たちの喜びとなる。神が変わらない方であることは、常に私たちに歌をもたらす。私たちは時々刻々変わるものであるから。神が恵みに満ち、しかもあふれるばかりに満ちておられること、そして契約においてその恵みが私たちに与えられていること、私たちがきよめられ、守られ、聖別され、完全な者とされ、栄光に導かれていること――これらのすべてによって、私たちは神を喜ぶべきである。
この神にある喜びは深い川のようだ。私たちはただその水際に触れたにすぎない。その清らかな甘美な天国の流れを少しは知っている。しかし水際から進むにつれ、川は深くなり、流れはさらに喜びにあふれる。
クリスチャンは神がどのような方であるかを喜ぶだけでなく、神が自分のためにこれまでになしてくださったことを喜ぶ。詩篇は、神の民がその昔、神のみわざを深く考える習慣があったこと、そしてその一つを詩に作ったことを示す。そのゆえに、主の民に、今主のみわざを追憶させよ。彼らの主の力強いみわざを語らせよ。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められた」と彼らが歌うことをやめさせてはならない。新しい恵みは、日ごとに彼らの上に注がれて尽きないため、主の摂理と恵みの愛のみわざを喜んで、不断に感謝をささげなければならないからである。
シオンの子らよ。喜べ。そしてあなたの神、主を楽しめ。
 
 

ヨブ記7章1-6節

2016年09月22日 06時53分11秒 | 聖書


7:1 「地上の人には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。
7:2 日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち望む日雇い人のように、
7:3 私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている。」



 ヨブは今、人が過ごす人生というのは皆、これと同じものではないかというのです。

世で生きるために働く人々にとっての働きは、苦役の連続である。

唯一の楽しみは、労苦を離れて日陰に憩うことができる時くらいである。

また、日雇いの人が、その賃金を与えられる時だけだ。

その時だけは楽しい。

しかし、他の時はむなしさと、苦しみの夜が定められている。

ゆっくり眠ることができず、寝がえりを打つばかりだ、というのです。

 それと同じように、精神的また肉体的に苦しみに置かれている人々の思いは、一時的な楽しみがあったとしても、真の思いは、ただ死の内に解放の時を与えられる時だけだというのです。

ヨブが今受けている苦しみとつらさが、ここに告白されているのです。


イザヤ書40章6~8節

2016年09月22日 06時51分14秒 | 聖書


★「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に行く吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だか、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

ガラテヤ人への手紙3章2,14,22節
★ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
★このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
★しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。


■O:今日のコラム
しゃろーむ!9月20日の朝です。今日一日も、主の御言葉を受け取り、イエス様の十字架と復活に対する信仰によって、約束の聖霊様を歓迎していきましょう。僕らの内側が、主の力を得ていくためです。そして、主の御国を解き放っていくためです。

僕らは、草のような者です。主の前には、僕らのこの世界での一生は、ほんの一瞬のものでしょう。しかし、主は、この草を生かし、花で着飾り、種を生じさせ、種を後の時代へとつなげてくださいます。

草は、主のいぶきによって枯れます。聖霊様によって、僕らの罪の部分が死んでいくのです。主が生き、肉が枯れていくのです。また、主のいぶきによって花はしぼみます。聖霊様によって、僕らが栄光を受けるのではなく、主の栄光だけが満ち溢れるようになっていきます。主の御言葉は、永遠に立つのです。花がしぼむと、種ができます。種は、僕らが後につなげていく命です。御言葉が生きていきます。

この御霊を僕らは、どの様に受け取ることができるのでしょうか。律法によってではありません。信仰によってです。イエス様の十字架によって、僕らは、のろいから贖われました。イエス様によって、アブラハムへの祝福が僕らに与えられました。その結果が、僕らの信仰によって受け取ることができた約束の御霊でした。

僕らは、聖書の義には及ばない者です。義人ではありません。僕らは、聖書の律法によって、罪に閉じ込められました。それは、約束の御霊を受けることが、人間としてこの世に来られたイエス様、救い主なるキリスト様、「イエス・キリスト」に対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

僕らは、御霊のいぶきによって、自分の義を枯らし、天のお父さんの神の義とその御国とを求めることができる者とされました。

「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ人への手紙3章26節)

だから、今日一日も、主と共に歩んでいきましょう。自分を枯らす者となり、主に栄えていただきましょう。主は、僕らに新しい力を与えてくださいます。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は、新しい力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章28~31)

主を待ち望みましょう。


■A:考えてみよう
「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」あなたはどちらですか?
主の御言葉に聞き従っていきましょう。
主のいぶきによって、自分の肉を枯らしていただきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月21日(水)のつぶやき

2016年09月22日 01時34分29秒 | キリスト教