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◆私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。

2016年09月24日 09時43分42秒 | 聖書
私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。(エズラ八・二二)
 
護衛は、巡礼の群れにとっては望ましいものであったろう。しかし、聖なる恥を知るエズラはそれを求めることができなかった。彼は、異教の王が、エズラの神に対する信仰告白を単なる偽善とし、あるいは、イスラエルの神はその民を守ることができないと思いはしないかと恐れた。明らかに主の用であることに、肉の武器を借りることはできなかったのである。それゆえ一行は、目に見える何の保護もなく、彼らの剣であり盾である神に守られて出発した。
神に対してこのような聖なる思いをもつ信者がほとんどいないことは、懸念すべきことである。ある程度まで信仰によって歩む人も、時によると人の助けを切に求めて、そのいのちの輝きをだいなしにする。財産も支えもなく、主にのみ支えられ、千歳の岩の上に堅く立つことは非常に幸いである。もし信者が、カエサルの助けを求めることによって主の御名が汚されることを思い起こすならば、まるで主が必要を供給することができない方であるかのように、自分たちの教会のために国家の寄付を求めるようなことはできない。ひたすらに主の御腕にのみ頼ることが主をあがめる道であることを思い起こすなら、なおろうばいして親族友人の援助を求めることはできない。
私のたましいよ。ただ、神にのみ仕えよ。ある者は言うだろう。「しかし手段もまた必要ではないか」と。しかり。だが私たちが手段をなおざりにすることで失敗することはほとんどない。むしろ神を信ぜず、手段を過信することで失敗する。人の助けをなおざりにしすぎる人はほとんどいない。多くの人はそれに頼りすぎている。愛する信者よ。手段を用いることによって主の御名を汚す結果となるならば、むしろ手段を放棄して神の栄光を現すことを学べ。
 
 

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