座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

今日の聖人の記念日

2016年09月25日 07時21分50秒 | キリスト教

聖セルジオ(ラドネーシュ)

1314年-1392年

 セルジオは、ロシアのロストーフの裕福な家に生まれ、名前はバルトロメオといった。
 15歳のとき、ロシア内戦によって一家は全財産を失い、ラドネーシュに移り住んだ。両親が亡くなった後、兄のステファンと、近くの森で修道生活をすることを決め、聖三位一体にささげられた木造の小さな聖堂と丸太小屋を建てた。

 兄は途中で断念したが、バルトロメオはひとりで修行を続け、その地方の修道院長のもとで誓願を立て、セルジオという名をもらった。その後も、森に住み続け、彼の徳の高さと謙虚な人柄は人びとに知られるところとなり、従う者があとをたたなかった。

 彼と弟子が創設した修道院の数は約40にものぼった。また彼は、トルコ軍の侵入によって消滅していたロシアの修道院制を復興させた。セルジオは、ロシア諸侯の内紛を調停したり、大公ドミトリ・ドンスコイのトルコ軍との戦いを精神的に支え、勝利に導いたりした。

 1378年、モスクワの総大司教に推されたが辞退し、生涯を貧しさに甘んじて過ごした。彼は、ロシア最大の聖人といわれている。


◆酒  に  酔  う

2016年09月25日 07時20分51秒 | 聖書

わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。
争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。
ゆえなく傷を受ける者はだれか。
血走った目をしている者はだれか。
ぶどう酒を飲みふける者、
混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。(箴言二三29―30)
 
酒に、自分というものの支配権・コントロール権を売り渡してしまった酔っぱらいの姿が、絵のように描かれています。故人となった落語家の圓生あたりにこの聖書のことばをテキストとして演じさせたら、泣き上戸・けんか上戸・ぐち上戸の目の血走った姿を、さぞかしじょうずにやってのけるだろうと思います。
二三章の後のほうを見ますと、異様なものを見たり聞いたりする幻聴幻覚、ねじれごとをしゃべる放心状態、もうどうにもならないのにもっと飲みたいという飢餓状態も描かれています。「一杯人酒を飲み、二杯酒酒を飲み、三杯酒人を飲む」とは、うまいことを言ったものです。酒は口から飲むのに、全身にまわって、手も足も口も酒が支配し、手が舞い足が踊り口が歌い出します。ギリシャの賢人ダイオゼニスは、つがれた酒をすぐ地面にこぼして捨てるので「惜しいじゃないか。むだにして」ととがめられ、「それでも酒を飲んで、私と酒の両方をむだにするよりましだ」と言ったと聞きました。
新約聖書は、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」(エペソ五18)と言っています。神の御霊に満たされて酔え、酒に酔っぱらうなというのです。しかし、エゴが支配していてはできないことです。
 口は賛美の歌うたい
 手は喜びの舞いを舞い
 足は奉仕の道を行く
人は、陶酔を求めます。神の愛と喜びの中に、最も高貴な陶酔があるのではないでしょうか。
 
 

◆こうして神ご自身が義であり、

2016年09月25日 07時20分04秒 | 聖書
また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ三・二六)
 
私たちは信仰によって義と認められたため、神との平和をもっている。良心はもはや私たちを責めず、さばきも今や罪人に不利とはならない。記憶は過去の罪を顧みて深くそれを悲しむが、来るべき罰を恐れない。キリストが神の民の負債を支払って、神の領収書を受け取ってくださったからだ。だから神が一つの負債に対して二重の支払いを求めるほど不条理な方でない限り、キリストが身代わりになって死なれたたましいが、一人でも地獄に落ちることはあり得ない。
神を義なる方であると信じることは、御霊によって啓発された性質の根本原則の一つである。私たちは神が義でなければならないと感じる。これは初めは恐怖をもたらす。しかし、神は義であるというこの同じ信仰が、後に私たちの確信と平安の柱になるとは驚くべきことである。神が義であられるなら、罪人であり、身代わりのない私は滅びるよりほかはない。しかし主は私の代わりに立ち、私のために罰を受けられた。それゆえに、神が義であるならば、キリストにあって立つ罪人の私は、今や罰せられることはない。主が身代わりとなられたたましいに律法を適用する余地はなく、神はそのたましいの前に態度を変えられるのである。
罪の結果当然受けねばならない神の怒りのすべてを、主が身代わりになって受けられたために、信者は「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」との勝利の叫びをあげることができる。訴えるのは神ではない。神は私たちを義とされた。訴えるのはキリストでもない。主は私たちのために死に、よみがえられた。
私は自分が罪人でないから希望をもつのではない。私は罪人であり、主が私のために死んでくださったので、希望をもつのである。私の信頼は自分の聖さにではなく、主が汚れている私の義となられたことにある。私の信仰も私自身にはなく、キリストがどんな方であって、どんなことをなさり、また現在私のために何をなさっておられるかにある。義の獅子の背に、希望という美しい少女が女王のように座している。
 
 

ヨブ記8章8-10節

2016年09月25日 07時18分53秒 | 聖書


8:8 「さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探求したことを確かめよ。

8:9 私たちは、きのう生まれた者で、何も知らず、私たちの地上にある日は影だからである。

8:10 彼らはあなたに教え、あなたに語りかけ、その心からことばを出さないだろうか。」


 

 ビルダデは、はっきりした言葉ではヨブに語ってはおりませんが、ヨブが通常ではあり得ない苦しみにあっているのは、ヨブの内に神の前に置かれた大きな罪があるからだと思っているようです。

従って、そのような思いのもとでヨブのことを見ますと、彼が神に対して自らの不満を述べていることが、ヨブの側の不正であると思えたようです。

ですから彼は、神の側に不義があるような思いで訴えるヨブの言葉には、納得がいかなかったことでした。

彼は、神は公義を曲げる方であるのか、全能者である方が義を曲げるだろうかと語って、そんなことはあり得ない。

従って、間違っているのはヨブの方であって、ヨブ自身の内に、神から苦しみをもたらされた理由があるのだと告げたのです。

人にはわかり得ない苦しみの原因を、彼は自らの判断で、その理由を断定しているのです。



ガラテヤ書6章:8~9節

2016年09月25日 07時16分48秒 | 聖書


★ 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

■O:今日のコラム
ガラテヤ書においてパウロは肉に属する生き方と、御霊に従う生き方を対比して書いています。そして、この二つの性質は決して一つになる事がありません。

「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ5:17)

そして、私達が自分の人生(時間、思い、心、経済、言葉・・・)を蒔く方の性質が私達の人生に多大な影響を与え、私達の結ぶ実となるのです。

肉の生き方とは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19~21)

また御霊の為に蒔くとは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22~23)

私達の人生をどちらの為に費やしているのかよくよく点検する必要があります。なぜならそれが、永遠の報いに繋がるからです。しかし、一つ私達が覚える必要があるのは、良い実を結ぶ為には時間がかかる。と言う事です。

体をトレーニングしたり、ダイエットする時にもすぐに変化は出ないものです。継続した取り組みを通して確かな良き実を結ぶ様になります。

私達の内なる人がキリストの似姿に変えられて御霊の実を結ぶ事も一夜にしては出来ません。時々、「祈っているのに何も変わりません。」、「御言葉を朗読してもまた否定的な思いに戻ってしまいます。」、「血潮を宣言しても相変わらず以前の私のままです。」と言う様な意見を聞く事があります。

それに対する良き答えは「あきらめないで続けること。」です。失望せずにいれば、時期が来て必ず豊かな御霊に属する実を刈り取る事となります。御霊に従う歩みを共にあきらめないで続けましょう。


■A:考えてみよう
今日も明日も御言葉の朗読、祈りの生活を飽くこと無く続けましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月24日(土)のつぶやき

2016年09月25日 01時33分04秒 | キリスト教