座間コミニティー

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◆わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。

2016年09月18日 15時59分04秒 | 聖書
(ヨハネ一〇・二七)
 
私たちは、羊が羊飼いに従うように、ためらうことなく主に従うべきである。なぜなら、主は欲される所に私たちを導く権利をもっておられるからである。私たちは代価を払って買い取られた。だから、贖いの血の権利を認めよう。買い取られた財産である私たちが、自分の贖い主に従わなくてもよいだろうか。もし私たちの指導者また指揮官である方の命令に対してとやかく言うならば、クリスチャンであるという信仰告白に対して真実ではない。服従は私たちの義務である。
主は、ペテロに対して言われたように、私たちに対してもしばしば「……あなたは、わたしに従いなさい」と言われる。どこへ導くにも、イエスは先立って行かれる。私たちは行く先を知らなくても、だれと共に行くかを知っている。旅は長いであろう。しかし主の永遠の腕は私たちを目的地まで運ぶ。イエスのおられることが、永遠の救いの確証である。主は生きておられる。それゆえ私たちも生きる。
私たちは、単純な信仰をもってキリストに従うべきである。主が導かれる道はすべて、栄光と不朽に至る道だからである。それは平たんな道ではなく、鋭いごつごつした試練におおわれているかもしれない。しかしその道は、神が「設計し、建設された」、「堅い基礎の上に建てられた都」へ続く。「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とさとしを守る者には。」
導き手である主に全き信頼を置こうではないか。なぜなら、前途に繁栄、逆境、病、健康、名声、軽蔑のどれがあろうと、主の目的は実現され、その目的はすべての恵みの相続人にとって、純粋な混じり気のない善であることを知っているからである。キリストと共に険しい道をよじ登ることはすばらしい。雨や雪が吹きつけても、主の愛に抱かれていることは、世俗の手で自らを暖めている者よりも、はるかにまさる祝福である。私たちは、愛する主に従って行こう。アマナの頂でも、獅子のほら穴、ひょうの山へでも行こう。
尊いイエス様。引き寄せてください。私たちは走ってあなたのみあとについてまいります。
 
 

「イエスは弟子たちに、

2016年09月18日 15時58分02秒 | 聖書

『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」(マルコ4:35)

ガリラヤ湖はすり鉢状で周囲は山に囲まれているため、突如の嵐が発生するそうだ。
この日、主は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。

その言葉に弟子達は舟を出した。主は舟に乗った途端、熟睡された。
それほどの疲労であった。主が眠られた後、突如の嵐が起こった。
凄まじい突風に舟は揺れ、まさに湖上で小さな舟は木の葉のごとくだ。
舟は波をかぶり、水で一杯になった。

今にも浸水転覆だ。プロ漁師ですら驚き慌て、身の危険を感じ、恐怖でパニックだ。
半端な嵐ではない。しかし、この大騒動の間中、主はともの方でぐっすり眠っておられた。
全き平安の中におられた。

荒れ狂う大嵐の中に、主がおられる。何と嬉しい事だろう。何と安堵で喜びだろう。
弟子たちのパニックの原因を、主は「信仰」だと言われた。「信仰がないのはどうしたことです」と。

主は「向こう岸へ渡る」という父の御旨が成ることに、信頼し委ねておられた。
舟に主がおられること、「向こう岸へ渡る」との御言葉があること、そこを見続けておれたらどんなに幸いだろう。

弟子たちはこうであったが、主に従い舟に乗り、主と共に漕ぎ出した事は良かった。
大嵐でパニックになり、取り乱しはしたが、しかし、主の偉大なみわざを見た。
自然界をも支配される、主の権威と御力を見た。

あなたにも、目の前に一歩、御心が示されているだろうか。「さあ、向こう岸へ渡ろう」と。
岸にとどまったままでは、嵐に会う事も、沈みそうになる事もないが、主の御力を知ることもない。
主の舟に乗り、一歩を踏み出そう。
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御心を示されているなら、漕ぎ出そう。
御心を行なう中で、突風があり、嵐に会うかも知れない。
しかし、自然界をも、支配しておられる主の権威と御力を知る時とされ、御言葉の力を味わい知る時とされる。


今日の聖人の記念日

2016年09月18日 09時52分01秒 | キリスト教

聖ヨセフ(クペルティノ)司祭

1603年-1663年

 ヨセフは、イタリアのナポリ近郊のクペルティノの貧しい家に生まれた。
 病弱で、普通の子どもよりも知恵が遅れており、口をぽかんとあけていたので、人びとからもあざけられることが多かった。

 仕事に就くとすぐに解雇され、修道士になることを望んで修道会に入るが、すぐに出されるなどして、ようやくラ・グロッテラのフランシスコ修道院から、馬丁として受け入れられた。ここで、ヨセフは祈りと断食の修行をよく行い、1628年に司祭となった。

 そのころから、彼は神秘体験をし、身体が宙に浮かぶことが度々おこり、「空飛ぶ修道士」と呼ばれて、人びとの訪問を受けるようになった。そのため教会の権威者たちは、ヨセフをピエタロッサの修道院に移して、人びとの目にふれないようにした。彼は死ぬまで監禁されていたが、決して不平を言わずすべてを耐え、神にのみ信頼を置いていた。ヨセフはこの徳ゆえに、1753年に聖人とされた。飛行機の操縦士と乗客の保護の聖人といわれている。


◆心とくちびる

2016年09月18日 09時50分44秒 | 聖書

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、
私の心も喜び、
あなたのくちびるが正しいことを語るなら、
私の心はおどる。                      (箴言二三15―16)
 
「心とくちびる」のことが言われています。人の心とくちびるは、時々、いいえ多くの場合、裏切り合うものではないでしょうか。「遊女は客にほれたと言い、客は来もせでまた来ると言う。」こんな浪花節の文句ではありませんが、心の中に、愛も真実も信頼もないのに、口先では、さも愛と真実があるように語る。――ここに、人の偽りがあります。天の父である神は、このような人とその偽善に対して、最も悲しい思いをされるのです。
しかし、一方では、心の中で神を求め、愛を求め、罪のゆるしを求め、永遠のいのちを求め、真実の生きる目的を求めていながら、口ではどうでもいいようなことを言う人が、世の中にたくさんいるのです。変なところで変なみえを張っている、偽悪者・照れ屋です。
昔路傍で説教していた時、新円切り替え時代の虎の子の十円札を取り出して、欲しい人にあげますと大勢の前で言ったことがあります、ところが、だれも、「下さい」と言って手を出す人はいませんでした。しばらくして、小学校五年生ぐらいの男の子が、人垣を分けて前に出てきました。「おじさん。おくれ」とさし出されたかわいい手に、私はその十円札をにぎらせました。惜しい気はしました。しかし私は、神の前に心と口を一つにして、愛・いのち・ゆるしを神からいただく姿を語りたかったのです。
パウロは言いました。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ一〇10)。
神の愛を心で深く求めるなら、それを口で告白して、手をさし出しなさい。心で深く神の愛を信じたなら、照れないで、口で告白してごらんなさい。――人生はすっきりしてきます。そのことを神が喜び、力を与えてくださいます。
 
 

◆もし私たちが御霊によって生きるのなら、

2016年09月18日 09時49分49秒 | 聖書
御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ五・二五)
 
キリスト教に最も重要な二つのことは、信仰のいのちと信仰の歩みである。これを正しく理解している人は、実践神学の奥義を極めていると言っても言いすぎではない。この二つは、クリスチャンにとって欠くことのできないものだからである。あなたが真に敬虔でないならば、決して真の信仰を見いだすことはできないであろう。また反対に、キリストの義に基づく生きた信仰を根底としない聖い生活は存在しない。
この二つのうち一方のみを追求する人はわざわいである。ある人々は信仰を養って、聖潔を忘れている。彼らの信仰はきわめて正統的であるかもしれないが、それは強く非難されるべきである。彼らは不義の中に真理を握っているからである。他方、聖い生活を追求して努力するが、パリサイ人のように信仰を否定する人がいる。主は彼らを「白く塗った墓」と言われた。
私たちは信仰をもたなければならない。それは土台である。そして、私たちは聖い生活をしなければならない。それは上層建築である。あらしの日には土台のみで何の役に立つだろう。まさかその中に隠れるわけにもゆくまい。土台もむろん必要であるが、雨露をしのぐためには家がなければならない。そのように、もし私たちが疑いの日に慰めを得たいと思うならば、霊的生活の上層建築が必要である。しかし、信仰なくして聖い生活のみを求めてはならない。なぜなら、それは岩の上に土台を置いていない家を建てることであって、永続するはずがないからである。
信仰と生活とを組み立てて、アーチの二本の柱のようにしよう。そうすれば、私たちの敬虔は永続するであろう。光と熱が同じ太陽から出ているように、この二つも祝福に満ちている。神殿の二本の柱のように、それらは栄光と義とをかたどる。恵みの泉から流れ出る二つの川、聖なる火をともされた二つのランプ、天上の水に育てられた二本のオリーブの木である。
主よ。私たちに内なるいのちを与えてください。それが外に現れて、あなたの栄光を現すのです。
 
 

ヨブ記6章1-7節

2016年09月18日 09時48分10秒 | 聖書


6:1 ヨブは答えて言った。
6:2 「ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。
6:3 それは、きっと海の砂よりも重かろう。だから、私のことばが激しかったのだ。
6:4 全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅かしが私に備えられている。」



 エリファズはヨブに対して、あなたが今のような苦しみと悲惨さに陥ったのは、あなたが犯した罪とそれに対する悔い改めのない心が、その苦しみをあなたにもたらしたのだと語りました。

 こうした彼が判断したことに対して、ヨブはいよいよ自分の思いを語り初めます。

しかし彼の語る言葉は、この点でエリファズと論議をすることではありませんでした。

ただ述べることは、今自分が置かれている状況を告げることでした。

それを知ってほしいというのです。

 その苦しみはもし測ることができれば、海の砂よりも重いというのです。

またこの苦しみは、神様からの脅しによってもたらされたというのです。



第二コリント12章 9節

2016年09月18日 09時45分45秒 | 聖書


★しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

■O:今日のコラム
パウロは主イエスに従って生き、多くの知識と啓示を受け、信仰生活が深くなればなる程、神の国における昇格を経験する様になって行きました。この世の昇格は、成功し、上へとあげられ、有名になり、多くのものを得る事にありますが、神の国の昇格は、失い、孤独になり、砕かれ、低くされる所にあります。

アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデ、その他にも多くの信仰者達の歩みを通して、「荒野」という場所が神の最も優れた信仰訓練学校だと知ります。信仰者達は荒野の中でさまよい、孤独になり、失い、自分の様々な願いを放棄し、主だけに信頼する事を学び、世においては愚か者の様に見えても、その砕かれた者達を通して神はご自身の大いなる計画をこの世に現されました。

人生の多くの時を荒野で過ごしたバプテスマのヨハネは人生の最期にさしかかり、「あの方(イエス様)は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネの福音書3:30)と言っています。

そして、最も偉大な栄光に輝くイエス様ご自身も、神のあり方を捨て、ご自分を無にし、仕える者の姿をとられたのです(ピリピ2:6~7)。御子を砕き、地の最も低いところを歩ませるのは御父の御心だったのです。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(イザヤ書53:10)。

パウロは晩年に差し掛かり、自分の使徒としての働きぶりや賜物、宣教の成功や知識を誇るのではなく、弱さを誇る事を学びました。なぜなら、弱さの中にキリストの完全な恵みが現れるからです。私達の信仰の昇格とは、ただイエス様だけを誇りとし、ただイエス様だけに望みを置く事です。

私達は自分が強く、自分の力で上手く行き、自分で正しく歩める時には、自分自身を誇る者となってしまいます。しかし、自分が砕かれ、自分の力ではどうする事も出来ない弱さを覚え、自分の内にある罪と咎を悟る時、ただ依り頼み、ただ誇る事が出来るのは主イエスだけだと知るのです。パウロの告白を日々の私達の告白としましょう。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)


■A:考えてみよう
日々新たに主イエスの十字架を見上げ、今日も新しく注がれ続ける主イエスの血潮の聖めを受け、その豊かな恵みに感謝し、主イエスだけを誇り、主イエスに感謝する歩みをしましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月17日(土)のつぶやき

2016年09月18日 01時34分03秒 | キリスト教