座間コミニティー

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◆正しいてんびん、

2016年09月04日 17時59分03秒 | 聖書
正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。(レビ一九・三六)
 
度量衡は、すべて正しい基準によらなければならない。たしかにクリスチャンは、このことを彼の仕事の上で考える必要はないだろう。仮に世界中から正義が消え失せても、それは自明のことだからである。しかし、道徳および霊的なことを測る他のはかりがあり、これはしばしば検査する必要がある。
私たちが自分自身を測り、また他人の品性を測るはかりは全く正確であろうか。一〇グラムほどの自分の美点を一キログラムにも計算し、他の人の一キログラムほどもある美点を一〇グラムほどにしか計算していないのではないか。
クリスチャンよ。度量衛を見よ。私たちが自分の試練や患難を測るはかりは、基準どおりであろうか。私たちよりもはるかに苦しまなければならなかった使徒パウロは、自分の苦難を軽いと言った。しかし私たちは、しばしば自分の苦難を重すぎると考えている。たしかに、重さに狂いがあるに違いない。私たちは、不正な取り引きをしたと天の法廷に報告されることがないように注意しなければならない。
また、自分の教義上の信念を測るはかりは全く正確だろうか。恵みの教理は、みことばと同じ重さをもつべきである。重すぎても軽すぎてもならない。しかし、多くの人々には、どちらかの皿が不当に重いのではないかと思えるのである。
真理に正しいます目を与えることは大切である。主にある友よ。この点において注意深くあれ。私たちが自分の義務や責任を測るますは小さすぎる。富む者が神の事業のためにわずかしかささげないのは、正しいエパであり、正しいヒンであろうか。教職者が栄養不良になっている。それが正当な扱いと言えるだろうか。貧しい者がさげすまれ、不敬虔な富む者が賞賛を博している。それが正しいてんびんであろうか。
友よ。このリストをさらに長くすることも可能であるが、それをあなたの今夜の仕事とし、不正なすべての度量衡を発見して、それを打ちこわせ。
 
 

「しかしふたりの目はさえぎられて、

2016年09月04日 17時58分09秒 | 聖書

イエスだとはわからなかった」(ルカ24:16)

二人の弟子が、主の死後、なすすべなく故郷に、引き揚げる途上だ。
イエスご自身が歩み寄り、かたわらを歩かれたが、二人にはそれが主だとわからない。
なぜ、わからなかったのか。目がさえぎられていたからだ。
主は現に実際かたわらにおられるが、こちらの目がさえぎられると見えなくなる。

目をさえぎるものが数々ある。
失望落胆、悲しみ、絶望、この世の価値観、思い煩い、不安、多忙、ネガティブな思考、悩み問題・・これらは主を見えなくしてしまう。
あなたも今、この状態に陥っているか。

そんな意気消沈し、絶望している弟子たちに、主は御言葉を語られる。
彼らはどうしてイエスだとわかったのか。

主により目が開かれたからだ。どのように目は開かれたのか。
道々話して下さっていた間、後で認識するのだが、御言葉を聞いていると、心が暖かくなった。
赤々と心が燃えて来た。

心に何かを感じた弟子たちは、もっと聞きたい、知りたいとの求めを持った。エ
マオの分かれ道に来た時、主に一緒に泊まるよう無理やり頼んだ。
主はそのまま行かれる予定を「求め」に応じてとどまられた。

いっしょに泊まった時、主を親しく知った。さえぎられていた目が開かれて、
同行者が主だとわかった。

今も主はかたわらにおられる。御声に耳を傾けて、心を向けて行くことだ。
目を開いて下さる。
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思い煩った途端、主が見えなくなる。
思い煩いと平安が決して共存しないのは、日々の経験だ。
しかし、落ち込んで、意気消沈している、かたわらに主がおられる。
この事をしっかり覚えよう。落胆の中からも御声に耳を傾けてみよう。


今日の聖人の記念日

2016年09月04日 09時57分52秒 | キリスト教

ヴィテルボの聖ローザおとめ

1235年-1252年

 ローザは、イタリアのヴィテルボの貧しい家に生まれた。幼いころから貧しい人びとのことを心にかけ、世話をし、ローザ自身は祈りの生活を大切にして苦行に励んでいた。たびたび聖母マリアが彼女に現われた。彼女は聖母の勧めに従い、1247年ころにフランシスコ会第三会(在俗会)に入った。

 当時、ドイツ皇帝フリードリヒ2世と教皇イノケンティウス4世が争っていた。ローザは平和のために力を尽くし、各地を回りながら説教をして多くの人びとを感動させ、信仰に立ち戻らせた。しかし彼女の影響力を恐れた皇帝は、1250年にローザをヴィテルボから追放した。皇帝が亡くなった後、故郷に戻り、クララ会のバラのマリア修道院の近くで数人の仲間とともに暮らした。

 1258年に、彼女の遺体はバラのマリア修道院に移されたが、遺体は現在も腐敗せずに残っている。


◆セックスの落とし穴

2016年09月04日 09時56分45秒 | 聖書

他国の女の口車は深い穴のようだ。
主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。(箴言二二14)
 
主の憤り・主の怒り、それに主ののろいということばさえ、聖書によく出てきます。しかし神が、私たちのように自分勝手なちっぽけな感情で、怒ったりのろったりされるはずはありません。神はねたむほどに私たちを愛し、私たちのことを心配してくださるので、こう言われるのです。
神が心配しておられる一つのことは、他国の女、つまり男性を性的に誘惑しようとしか考えていない、妻以外の女の誘惑に陥ることです。どんなに多くの人々が、この深い落とし穴に落ちこんでしまったでしょうか。他のいろいろのことなら、手足がどろでよごれたり、かすり傷を受ける程度ですむことがあります。しかし、このセックスについての落とし穴は、深い穴であって、人間の心の髄までくさらせてしまうけがれたるつぼなのです。
教養があり、善悪をわきまえており、しかも能力ある実力者ダビデ王も、聖書によると、このセックスの落とし穴に落ちこみました。そして、日照りで地割れするような魂の苦悩の中で苦しんだのです。しかし、彼がそこから脱出しえた恵みと回復の喜びの歌も聞いてください。
「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた」(詩篇四〇1―2)。
ねたむほどに私たちを愛される神は、イエス・キリストの十字架の血の中に、脱出の道ばかりか新しい人生まで備えていてくださるのです。
 
 

◆わたしの心だ。

2016年09月04日 09時56分00秒 | 聖書
きよくなれ。(マルコ一・四一)
 
初めの暗黒は、全能者の「光よ。あれ」との命令を聞いて、ただちに逃げ去り、そこに光が現れた。主イエスのみことばも、権威において、その古い力あることばといささかも変わらない。贖いは創造と同様に、力あることばをもつ。イエスが語られると、事はたちまち成る。主が「わたしの心だ。きよくなれ」と言われるとすぐに病は逃げ去った。
この病気には希望も回復のしるしもなく、自然の力をもっては全くいやすことができなかった。しかし主のただ一言によって、その場でいやされた。罪人はこの病よりももっと悲惨な状態にある。彼にこの病人のように、「イエスのみもとにお願いに来て、ひざまず」かしめよ。信仰が乏しくても、それを働かせよ。「お心一つで、私はきよくしていただけます」という程度の信仰でもよい。信仰を働かせることがよい結果をもたらすのは、疑う余地がない。イエスはみもとに来る者をことごとくいやし、一人も退けられなかった。
今朝の聖句の前後を読む時、イエスがこの病人に触られたという点に敬虔な注意を払うべきである。この病人は、律法にある規則を破って家の中に入った。しかしイエスは、彼を叱責されるどころか、彼に会うためにご自身も律法を破られた。イエスはご自身と病人を交換された。イエスは病人をきよめられたが、彼に触ることによってレビ記中の律法に定められた汚れを受けられたのである。そのように、イエス・キリストは罪を知らない方であるのに、私たちのために罪となられた。私たちが主にあって神の前に義とされるためである。
あわれな罪人がイエスの幸いな身代わりのみわざを信じてみもとに行くならば、すぐに御手の恵み深い力を知るであろう。パンを増やし、また沈もうとしているペテロを救い、悩んでいる聖徒を支え、信者に栄冠を授けるその同じ御手が、すべての求める罪人に触れると、彼はすぐにきよくされる。イエスの愛は救いの源である。主は私たちを愛し、ながめ、触れてくださる。こうして私たちは生きるのである。
 
 

ヨブ記1章20-22節

2016年09月04日 09時54分05秒 | 聖書


1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」



 悲しみの報告を聞いたヨブは、自ら服を引き裂き、頭をそり、地に伏して、神を礼拝しました。

彼は悲しみと苦しみを覚えつつ、神を礼拝したのです。

そして、祈りの内にこう言いました。

私は、この地に出てきた時には、何も持たないできた。

神様は私に今まで、すべての良きものを備えてくださった。

今は、私がその主の元に帰る時だ。

主が今まで豊かさを自分に与え、しかし今、それを取り去られた。

自分もすべてが奪われた。

だから、そのままで主の元に帰ろうと告げたのです。

こうして彼は、主の主権と、一切のことは主の恵みによっているのだと認識して神を褒めたたえ、苦しみと悲しみを受け入れ、すべてを主にお委ねして、主の元に帰ろうと、その決意を語ったのです。

主こそ、彼にとってすべてでした。


ルカ22章 39~40節

2016年09月04日 09時49分28秒 | 聖書


★それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

■O:今日のコラム
十字架の苦難を前に、主イエスはゲッセマネの園で汗が血に変わる程の切なる祈りを三度捧げました。主が祈られたゲッセマネとは「油絞り」という意味があります。私は以前にイスラエルに行った時、油絞りの施設を見ました。当時オリーブを取って、そこから油を抽出する際、三度に分けて油が絞られたのです。一番搾りの油は祭司と神殿の為、二度目に絞る油は食用となり、さらに次の油は生活のあらゆる必要の為に使われ、最後の搾りかすは石鹸等に用いられました。「油絞り」の場所でオリーブは、全てを絞り出し、最後の残りかすまで砕かれ尽くすのでした。

正にゲッセマネの園の祈りから、十字架に至る道は、主イエスが全てを絞り尽くし、自分の命の炎全てを燃やして歩まれた道だと言えます。

ルカの福音書には主イエスが祈られたこの場所を「いつもの場所」という表現で記されています。何気なく読み飛ばしてしまいそうな箇所ですが、ここにはとても重要なメッセージがあります。主イエスはエルサレムに滞在する時には、このゲッセマネの園をいつもの祈りの場所として、いつもここで祈っておられたのです。

私達が試練や困難、誘惑や葛藤にぶつかる時、この「いつもの祈りの場所」があるかどうか?が大きな違いを生み出します。「祈りの力」という映画においては、自宅のクローゼットを「いつもの祈りの部屋」とし、あらゆる試練や困難に信仰による勝利をして行きます。

私達の職場や学校、家庭や毎日の生活の中にこの「いつもの祈りの場所」を設けましょう。どんな簡素な場所であったとしても、そこで時間を費やして祈り、御言葉を朗読し、賛美し、ひれ伏し礼拝し、信仰の宣言をするならそこが、私達が心を注いで祈るゲッセマネの園となり、自分の願いから父なる神の願いへと心を向け、この世のあらゆる誘惑に打ち勝って、主イエスが歩まれた十字架の道へと従順する場所となるのです。そのような「いつもの場所」に日々行こうではありませんか。


■A:考えてみよう
毎日の生活の中に祈りの時間と場所「いつもの場所」を設けましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月3日(土)のつぶやき

2016年09月04日 01時35分13秒 | キリスト教