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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2016年09月30日 17時38分14秒 | 聖書
(伝道者九・四)
 
いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。
 
 

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

2016年09月30日 17時37分26秒 | 聖書


神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)

弟子たちの問いと、主の答えに大きな隔たりがある。
人の見方と主の見方が全く異なる。
人は、何か起こる時、その苦しみや不幸の理由をまず問う。

「なぜ?どうして?」「なぜ?なぜ?」と問うて行く。
しかし、それは過去の事であり、現実にある事態が、起きた原因を追及しても、そこに解決は無いし、救いはない。

病で死にかけている人に対して、その病気の原因を追求したところで何にもならない。
しかし、人はどうしても原因や理由を探し出さなければ、自分の納得が行かない。

自分が納得したいがために、「なぜ」「どうして」を探る。
しかし、人は自分の意志で生まれたのではないし、自分の意志で死ぬこともできない。

与えられた一生は、自分の意志通りにはならないし、それぞれの人生は自らの思いを越えている。
そこに人間を越えた大きな力が働いていて、その方の意志通りに動いている。

私たちが生を受けたのも、今、ここにあるのも、神の大いなる御心による。
その神に焦点を置く時に、「なぜ?なぜ?」は意味をなさず、目が見えないことも、病気も、苦しい境遇も、思い通りにならない事態も、「神のわざがこの人に現れるため」なのだ。

あのせい、このせい、ではなく、神が働かれるためのステージであり、何と希望と平安と将来がある事だろう。
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神様の栄光が現れるための今だ。
原因を問うよりも必ず神様が良くして下さるという希望を持って生きよう。



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今日の聖人の記念日

2016年09月30日 07時41分50秒 | キリスト教

聖ヒエロニモ司祭教会博士

347年-420年

 古代教会の重要なラテン教父であるヒエロニモは、ダルマチア(現オーストリア)の裕福なキリスト信者の家に生まれた。恵まれた環境と豊かな才能によって、短期間でギリシャ語とラテン語を習得し、ローマに留学して8年間修辞学を勉強した。

 そのころ、修道生活に入ることを望み、アクィレアで隠修士の仲間に入り、その後東シリアの荒野に行き、聖書を研究しヘブライ語を学んだ。そしてアンチオキアに戻ってから司祭に叙階され、380年ころ司教とともにコンスタンチノープルに行って、ニッサのグレゴリオなどと親交をもった。

 382年から385年まで教皇ダマソ1世に仕え、聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳したブルガタ聖書を完成し、聖書の注釈書も著わした。教皇の死後、ヒエロニモの反対者によってローマを追われ、仲間とともにベトレヘムに行き、男子と女子の修道院を創立し、また聖地巡礼者のための宿泊所も建てた。晩年は、民族大移動時代と重なり、多くの困難に見舞われたが、修道院を守り抜き、著作活動に励んだ。

 現在もカトリック教会で使われているラテン語訳聖書は、彼によるものである。ヒエロニモは、大学、神学科の守護の聖人とされている。


◆食 欲 の 問 題

2016年09月30日 07時40分47秒 | 聖書

わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)
 
聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。
 
 

◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2016年09月30日 07時40分04秒 | 聖書
御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)
 
神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ
 
 

ヨブ記9章21-26節

2016年09月30日 07時38分47秒 | 聖書


9:21 「私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。
9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。
9:23 にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。」



 義であられる神の前には、誰も立ち得る人はいない。

自分もその一人である。

しかし、神の憐れみで、その信仰の故に、神は憐れみを注いでくださった者の言葉を、その恵みによってお聞きくださることも知っている。

 しかし、私にはわからないことがある。

このような信仰を持って生きる者を、神は信仰を持たない人と同じように扱われ、苦しみのどん底に陥れられる。

しかもそれは、神が罪のない者、信仰を持って生きようとしている人を、あざけっておられるように感じられるほどだ。

それは一体なぜなのか、というのです。

 主は恵み深い、主は哀れ深い、それなのになぜ、主にある者が、このような苦しみと悲しみの内に置かれるのか、その理由が、私にはわからないというのです。


エペソ人への手紙6章4節

2016年09月30日 07時36分45秒 | 聖書


★父たちよ。 あなたがたも、 子どもをおこらせてはいけません。 かえって、 主の教育と訓戒によって育てなさい。

■O:今日のコラム
私は小学生と中学生の子どもを持つ親です。また、ベストライフスクールというチャーチスクールで校長という働きをさせていただいています。ですから、私はいつも教育ということに関して思いを巡らし、様々な情報を集め、また心の限りを尽くして祈っています。
世の中では様々な教育に関しての研究や議論がなされています。それらのことはとても参考になるのですが、私の中で柱となるものではありません。私の中での中心は聖書がどのように教育に関して、また子育てに関して言っているかということです。

今日の聖書の箇所には父に対する子どもへの接し方が書かれています。ここにはまず「子どもをおこらせてはいけない」と書かれています。これは「子どもたちを挑発して苛立させて、その結果子どもたちを怒らしてはいけない。」という意味です。
私も弱いですので、自分の事で精一杯になってしまった時、子どもたちに甘えて必要以上に叱ったり、いらだちをぶつけたりしてしまいます。また、子どもたちの弱さを責めてしまうこともあります。
みなさんは全員が父というわけでは無いでしょうが、霊的な子どもを持つ立場であれば父の心を持っていると思いますので、少し考えることができると思います。みなさんはどうでしょうか?

聖書が教える子育ての方法は「かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」ということです。言い換えるとこれは「主の訓練・訓戒と助言・勧めによって、彼らを優しく育てなさい。」という意味です。
日本では親によって教育方針が違います。しかし、イスラエルの民は世界中の離散しているユダヤ人でもイスラエルにいるユダヤ人でも同じ子育ての教育方針を持っているそうです。それが上のみことばの教育方針です。
厳密に言いますと申命記6章4~9節に書かれている「シェマの祈り」という箇所です。
「聞きなさい。 イスラエル。 【主】は私たちの神。 【主】はただひとりである。 心を尽くし、 精神を尽くし、 力を尽くして、 あなたの神、 【主】を愛しなさい。 私がきょう、 あなたに命じるこれらのことばを、 あなたの心に刻みなさい。 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。 あなたが家にすわっているときも、 道を歩くときも、 寝るときも、 起きるときも、 これを唱えなさい。 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、 記章として額の上に置きなさい。 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」

世界中でも頭がいいと言われているユダヤ人の共通した子育ての方針は、「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、つまり人生の限りを持って主を愛する」ということを守り、それを子どもたちに良く教えるということなのです。

これは、イエス様ご自身が言われた最も大切な戒めにも引用されている箇所です。
「そこで、 イエスは彼に言われた。 「『心を尽くし、 思いを尽くし、 知力を尽くして、 あなたの神である主を愛せよ。 』これがたいせつな第一の戒めです。」(マタイ22:37,38)

この「シェマの祈り」は、今でもユダヤ人が毎日祈っている祈りであり、それは代々親から子へと受け継がれています。ですから、イエス様がこのみことばの冒頭を述べるのであれば、ユダヤ人は自動的にシェマの祈りの最後の部分まで思い起こされたはずです。その中にはしっかりと「それをあなたの子どもたちによく教え込みなさい」と書かれています。

つまり、聖書が教える子育ての教育方針は「主を第一に愛する」と言うことなのです。言い換えると、「主を恐れる」ということです。これは、恐怖から来る恐れではなく、主が私たちを一方的に愛して下さるゆえの恐れです。

私はみことばを第一としています。みことばを尊んでいます。どの言葉よりもみことばに価値を置いています。ですから、みことばに書かれていることをそのまま信じ、行っていきたいと願っています。
子どもたちには何よりも主を愛すること、主を恐れることを今、改めて教えています。その事を続けるなら、私はダニエル1章にかかれているように、世の中の十倍もまさっている子どもを育てることができると信じています。そのような者がこの国の王となり、また祭司となってこの国のためにとりなし、また宣言するようになることを心から願っています。


■A:考えてみよう
子ども持つお父さん、子どもに神様を何にも勝って第一に愛することを教えていますか?そのためにはまずお父さん自身が教会だけでなく、どこにおいても、家族の誰よりも熱烈に神様を愛していなければなりません。子どもは親の背中を絶えず見ています。背中で信仰を伝えましょう。

また、背中で伝えるだけでなく、実際にもその事を子どもに伝えていきましょう。具体的にはどのようにすればいいのでしょうか。それは「主の訓練・訓戒と助言・勧め」をすることです。これは何でしょうか。主の訓戒とはみことばです。勧めとは宣言です。つまり、イエスの血潮を宣言する祈りのように、みことばと宣言を持って子どもたちに正しいアイデンティティを教えると言うことです。
私は自分の子どもたちにも、チャーチスクールの子どもたちにも「あなたは誰ですか?」という質問を毎日しています。そして彼らに次のよう答えてもらいます「私は神の子ども。神の姿です。」

そして、子どもたちを頭ごなしに叱るのではなく、まず受け入れ、同じ目線に立って話を聞き、それから諭すようにしましょう。子どもであっても彼らはちゃんと考え、理解することが出来ます。ですから彼らを尊重して、王の子どもに話すように話すといいでしょう。
そのためには親に忍耐が必要です。愛が必要です。

様々な家庭環境で育てられたので、親である私たちがそのような事はできないと思うかもしれませんが、それはサタンの巧妙な罠であることを知って下さい。私たちがどのような環境で育てられたとしても、私たちは真理を知っています。愛の源なる方が私たちと共にいてくださいます。私たちはこの方に聞くことが出来ます。聖霊様を歓迎して、みことばに日々親しみましょう。

それも出来ないという方は先祖から来る咎(呪い)を疑ってみて下さい。先祖の咎は三代、四代にまで及びます。ですから、私たちの代でその呪いを断ち切る必要があります。呪いは誰かが断ち切らなければ自動的に子孫に受け継がれていってしまいます。
今こそ、徹底的にみことばから来る悔い改めを持って先祖の咎を悔い改め、イエス様の血潮で呪いを私たちの代で完全に断ち切りましょう。そうするなら恵みが千代にまで及んでいきます。


■P:祈り
愛の源である天のお父さん、あなたが完全であるように、私たちも完全にさせて下さい。私たちに父の心を与えて下さい。そして、私たちの子どもにあなたを恐れ、愛することを教えることができるように助けてください。知恵を与えて下さい。
世の中のもたらす物に奪われてしまっている子どもたちの心を親の祈りによって奪い返すことができるよう、祈る力を下さい。
そして私が願う子どもに育てるのではなく、主が願われる子どもに育てていくことができるよう、私に愛と忍耐を下さい。
全てを備え、蒔く種をも与えて下さる主をほめたたえます。今日もみことばの感動を持って子どもたちに接し、彼らを優しく励ますことができますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


9月29日(木)のつぶやき

2016年09月30日 01時34分21秒 | キリスト教