生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。