座間コミニティー

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◆この人は、罪人たちを受け入れて、

2016年09月13日 15時54分19秒 | 聖書
食事までいっしょにする。(ルカ一五・二)
 
この事実に現れている謙遜を見よ。他のすべての人々の上に抜きん出て、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別されている方が、罪人たちを迎えてくださるのである。永遠の神であり、その御前に天使でさえも顔をおおうこの方が……。
このようにすばらしい愛の謙遜を語るには、天使の舌が必要である。失われていく者を私たちが進んで尋ねるのは、驚くほどのことではない。なぜなら、彼ら失われていく者は私たちと同類だからである。しかし、神に対して罪過が犯されたのに、その神、怒るべきお方がしもべの姿をとられ、多くの人々の罪を担い、進んで極悪人を迎えられたこと、これは実に驚嘆すべきことである。
主が「罪人たちを受け入れ」られたのは、彼らがいつまでも罪人でとどまっているためではなかった。彼らの罪を赦し、義とし、みことばによって彼らの心をきよめ、聖霊の内住によって彼らのたましいを守り、主に仕えさせ、賛美させ、主との交わりに入らせるためである。主は、ご自身の心の愛の中に罪人を迎え入れ、はきだめの中から彼らを取り出し、彼らを王冠の宝石として用いられる。彼らを燃え木のように火の中から取り出し、主のあわれみの貴重な記念とされる。
イエスにとって、ご自身がそのためにいのちを捨てられた罪人ほど貴重なものはない。イエスが罪人を迎えられるとき、戸外で迎えるとか、物を乞う人にあわれみを施すように、家の片すみで迎えるとかされるのではない。主の心の黄金のとびらを開いて、罪人をまさしく主の中に受け入れてくださる。卑しい、悔い改めた罪人を、主はご自身につながる者とし、主のおからだの肢体となし、その肉、その骨とされる。このような歓迎はかつてなかった。しかし、この事実は今夜もまた確かである。主はなお罪人を迎え入れてくださる。
どうか、罪人たちが主を迎え入れますように。
 
 

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」

2016年09月13日 15時53分25秒 | 聖書

(ヨハネ3:30)

バプテスマのヨハネは、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」との通り、人々に福音を信じる用意として、悔い改めを説き、バプテスマを授けていた。

主もこのヨハネからバプテスマを受けられた。
ヨハネは、主を「世の罪を取り除く神の小羊」と示した。
そしてヨハネの弟子たちが「みなあの方のほうへ行く」と、自分達の師から、主イエスに人気が移って行く事を、寂しく思い妬んだ。

しかし、ヨハネは皆が主イエスに従うことを心から喜んだ。
悔い改めを説いたヨハネは、真に悔い改めた、へりくだった人であった。
そのような人は、自分が評価されなくても、軽く見られても心を騒がせない、動じない。

妬んだり、攻撃的になったり、自己憐憫に陥らない。
人の評価に関心が無いからだ。人々は「ヨハネがキリストか?」と思い、パリサイ人はそれを聞きに人を遣わしたほどだ。

このような評価を受けるなら、幾らでも自分に栄光を帰せる。
しかし、ヨハネはキリストではないと言明し、あの方は盛んになられ、自分は衰えなければならないと言った。

私たちの人生の目標は一つ。自分が衰えて行くことだ。自我が砕かれて、自分に死んで行く事。
私たちはどれほど主に似ているだろう。
似ていないなら、あの方ではなく、自らが盛んであり、自らが主になっている事になる。
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自分が衰えて行くために、捨てなければならないものがある。御心がなりますようにとは言えない自我が、主の盛んになる事を阻んでいる。
このおことばを自分のものと出来ますように。


今日の聖人の記念日

2016年09月13日 07時35分09秒 | キリスト教

聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士

347年ごろ-407年

 ヨハネ・クリゾストモは、シリアのアンチオキアに生まれ、有名な学者リバニオスから修辞学を学び、また神学やギリシャ哲学も修めた。

 はやくから修道生活を志して隠遁生活を始め、386年に司祭となった。すばらしい説教によって人びとを感動させたことから、後世の人びとから「クリゾストモ」(黄金の口)とたたえられた。

 398年にコンスタンチノープルの総大司教に選ばれ、当時の社会道徳の乱れを正すように導いたが、ヨハネの厳しい道徳的態度は教会内外からの反発を買い、403年の司教会議によって小アジアに追放された。そこで、ヨハネは多くの手紙・著作を書いた。

 「死は安息であり、労働と世間の悩みからの解放です。あなたの家族の1人が亡くなっても絶望してはいけません」 (聖ヨハネ・クリゾストモ)


◆まやかしの食物

2016年09月13日 07時33分36秒 | 聖書

あなたが支配者と食事の席に着くときは、
あなたの前にある物に、よく注意するがよい。
あなたが食欲の盛んな人であるなら、
あなたののどに短刀を当てよ。
そのごちそうをほしがってはならない。
それはまやかす食物だから。 (箴言二三1―3)
 
「目黒のサンマ」という話をご存じでしょうか。よく労働して体を動かし、健康な食欲があるなら、どんな質素なものを食べてもおいしく、栄養となるものです。しかし、ぜいたくな飽食は、のどに短刀を押しつけるような、人生のまやかしなのです。
私は、旅から旅の生活が多く、さまざまな家庭の食卓にも着かせていただきます。山海の珍味のおもてなしも、お心尽くしを感じてうれしいものです。しかし、そんなごちそうも、二度三度と続くと、すぐ体の調子はもちろんのこと、心のはずみまで狂ってしまいます。貧しいといっていいほどの質素な食卓を、神に感謝しつつ家族といっしょに楽しくかこんでいただく祝福を、私は、人一倍感じています。
私の尊敬する友人、イギリスのジョン・ストット博士から、「今度、シンプル・ライフ・スタイル(質素な生活態度)についてのカンファレンス(話し合い)をするから出席してください」というお招きを、一九八〇年の初めにいただきました。参加はできませんでした。しかし、神を知り、神の愛を知る者として、地球上に住む三分の一の人々が今も飢えている現状と、主キリストすら自らを喜ばすことをされなかったことを思う時、やはり、このシンプル・ライフ・スタイルの大切さを感じています。
イエス・キリストは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ一一28)と言われました。しかし、またこうも言われたのです。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(一一29)。
 
 

◆彼らは涙の谷を過ぎるときも、

2016年09月13日 07時32分47秒 | 聖書
そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(詩篇八四・六)
 
この聖句は、一人の人の慰めがしばしば他の人に役立つことを教える。それはあたかも、泉が後に来る人々によって用いられるのに似ている。私たちは慰めに満ちた書物を読み、ヨナタンの杖のように蜜のしたたるような感を受ける。ああ、私たちは兄弟が先にここへ来て、自分たちのため、また私たちのためにこの泉を掘ったことを思う。多くの『嘆きの夜』『夜半の音楽』『永遠の日』『運命の曲折』『悲しむ者の慰め』などの書物は、巡礼者が自分のために掘った泉であるが、それが他の人にとってもきわめて有用であることが明らかになった。特に「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか」とのことばで始まる詩篇を読む時、この感をいっそう深くするのである。旅人は人のいない岸を行くとき、人の足跡を見つけて楽しむ。そのように、涙の谷を過ぎる私たちは、そこに巡礼者たちの道しるべを見いだすのを喜ぶのである。
彼ら旅する者は泉を掘るが、不思議にも泉は下からわき上がらず、上から満たされるのである。私たちは手段をこらす。しかし、祝福は手段からはわき上がらない。私たちは泉を掘る。しかし、天が雨をもってそれを満たすのである。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。手段は目的に関係があるが、目的を生み出すものではない。見よ。天来の雨が池に満ち、泉に満ちて水をたたえ、私たちに役立つのである。骨折りは単なるむだではないが、それは神の助けに代わるものではない。
恵みは、その純潔において、蘇生させる力において、またそれが上からだけ下ることにおいて、その下るか否かが人の思いによらないことにおいて、雨にたとえられる。読者よ。あなたが祝福の雨を浴び、その掘った泉があふれるばかりの水をたたえるように。
ああ、天来の微笑みがなくて、手段や儀式に何の効果があろう。それらは、雨のない雲であり、水のない池である。愛の神様。天の窓を押し開いて、私たちに祝福を注いでください。
 
 

ヨブ記9章32-35節

2016年09月13日 07時30分47秒 | 聖書


9:32 「神は私のように人間ではないから、私は『さあ、さばきの座にいっしょに行こう』と申し入れることはできない。
9:33 私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」



 私と神とは、何ものを持ってしても、比較に耐えるところのものはない、そのような関係であることを知る。

だから、自分の方から神に対して、「さあ裁きの座に座ってどちらが正しいか裁いてもらいましょう」というような申し出はできない、とヨブは言うのです。


しかもそれだけではない。

そのような聖なるお方の前に自分を立たせて、裁きを求めることができるためには、神と自分との間に立ち得る仲裁者が必要だ。

しかし、そのような資格と正しさを持った仲介者などはおられない。

従って、自分にはただ、神に対しての恐れのみがあるのだというのです。

信仰を持って生きる者にとっても、神の前にその人を立たせてくださるのは、それは真の仲裁者です。

その方が、神の前に人を立たせてくださるのです。

人は、真の仲裁者を神の御前に必要としているのです。



イザヤ書31章6節(第二コリント7章)

2016年09月13日 07時27分29秒 | 聖書


★  イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。

■O:今日のコラム
私たちが試練を試練と感じるのはどのような時でしょうか。仕事のトラブル、友人との人間関係のこじれ、経済の不足、夫婦関係の問題、子育ての行き詰まり、病気etc…。これらの問題は、生きている限り次々と起こるものです。

問題に直面する時、多くの人は、なぜそのような問題が起こったのか、誰の原因か、また解決方法について考えます。しかし、それは人間的な解決策でしかありません。アダムは罪の過ちをエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。また、彼らは「神から遠く離れる」という究極の解決策を取り、問題から逃れようとしました。

しかし実は、このことが彼らにとって最大の試練の始まりとなったのです。主の臨在から遠く離れることほど苦しいことはありません。彼らは自分たちの解決方法ではなく、主の前に行くべきでした。

頭では主の臨在の中にいることが自分にとってどんなに幸せだろうと分かっていても、どこかで「罪を持ったまま主の前に出る事は出来ない。」「こんな罪深い私を赦してくれるはずがない。」「自分の生き方をもうちょっと変えてから…」「自分には祝福を受ける価値が無い」と、素直に主の前に出て行けず、葛藤を覚えることがあります。父の家へと続く一本の道が開かれているのに、いつも右へ左へと回り道をし、なかなか「主の臨在の中」に行くことが出来ない…。そのような経験をしたことはないでしょうか。

私たちの地上での信仰生活は、父に反逆し、さまよい、悔い改め、父の家へと帰って行く放蕩息子の旅路と似ています。彼は、お金を使い果たし、何もかもを失い、人生のどん底まで落ちました。しかし全てを失ったその時に、父の家を思い出すのです。

彼は、まっ暗闇の中に輝く一筋の光を見、父の家を目指して前へ前へと進み続けました。放蕩息子が父から離れて向かった場所は、「遠い国」と記されているので、一日や二日で帰れる距離ではなかったはずです。体はやせ細り、疲れ果て、ヨレヨレの姿でした。途中で、「自分はこんなに惨めで汚い人間だ。父はこんな自分、受け入れてくれないだろう。」と引き返すことも出来たかもしれません。しかし、放蕩息子は、父の家の温かさを思い出しながら、何もかも失った状態で父のもとへ一心に歩き続けました。

闇が暗ければ暗いほど、光であるお方を見出すことが出来ます。また、出口がないと思う時にこそ、主がどのようなお方であるか体験するのです。

やがて放蕩息子は父の家に着き、父の大きな両手で抱かれ、一番良い衣を着せられました。一番良い衣とは、御父の最も愛する御子の十字架で流された血潮であり、それは同時に義の衣です。私たちは主との深い交わりの中で、血潮による赦しを受け、造り変えられていくのです。自分で自分を正すことなど出来ません。

主の臨在から離れることは私たちの最大の試練ですが、御父にとっても、愛する子どもがご自身から去っていくほどの大きな痛みはありません。父の願いはこうです。

「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。…」(イザヤ書30:18)

「…主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55:7)

父は、愛する子どもたちを両手で抱きしめたいのです。父の愛は、失敗、間違いを見ません。私たちの天のお父さんは、神の子どもたちが父の家に戻って来るのを今か今かと、高いところから目をこらし、身を乗り出して見ていて下さっているのです。

父の家へと続く、一本の狭き道。それは、主が通られた苦難の道かもしれません。しかし、涙と共に歩むその道の先には、愛に満ちた天のお父さんが両手を広げて待っておられるのです。

父の家に帰りましょう。

■A:考えてみよう
日々悔い改めをもって主の前に出る。

刻一刻と、救いの時は近づいています。日々目を覚まし、恐れおののいて自分の救いの達成に努めようではありませんか。
義の衣を着せられ、我が内にキリストの姿が回復していきますように。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月12日(月)のつぶやき

2016年09月13日 01時31分02秒 | キリスト教