このようにすばらしい愛の謙遜を語るには、天使の舌が必要である。失われていく者を私たちが進んで尋ねるのは、驚くほどのことではない。なぜなら、彼ら失われていく者は私たちと同類だからである。しかし、神に対して罪過が犯されたのに、その神、怒るべきお方がしもべの姿をとられ、多くの人々の罪を担い、進んで極悪人を迎えられたこと、これは実に驚嘆すべきことである。
主が「罪人たちを受け入れ」られたのは、彼らがいつまでも罪人でとどまっているためではなかった。彼らの罪を赦し、義とし、みことばによって彼らの心をきよめ、聖霊の内住によって彼らのたましいを守り、主に仕えさせ、賛美させ、主との交わりに入らせるためである。主は、ご自身の心の愛の中に罪人を迎え入れ、はきだめの中から彼らを取り出し、彼らを王冠の宝石として用いられる。彼らを燃え木のように火の中から取り出し、主のあわれみの貴重な記念とされる。
イエスにとって、ご自身がそのためにいのちを捨てられた罪人ほど貴重なものはない。イエスが罪人を迎えられるとき、戸外で迎えるとか、物を乞う人にあわれみを施すように、家の片すみで迎えるとかされるのではない。主の心の黄金のとびらを開いて、罪人をまさしく主の中に受け入れてくださる。卑しい、悔い改めた罪人を、主はご自身につながる者とし、主のおからだの肢体となし、その肉、その骨とされる。このような歓迎はかつてなかった。しかし、この事実は今夜もまた確かである。主はなお罪人を迎え入れてくださる。
どうか、罪人たちが主を迎え入れますように。