座間コミニティー

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◆七たびくり返しなさい

2016年09月28日 17時15分02秒 | 聖書
(Ⅰ列王一八・四三)
 
主が約束された時には、成功は確実である。あなたが幾月か祈っても、答えのきざしのないことがあるかもしれない。しかし、主の民が主のご栄光に関することを熱心に祈っているのに、主が耳を貸さないということはあり得ないことである。
カルメル山上の預言者は神と格闘し続けた。そして一瞬たりとも、主の法廷で自分の訴えが却下されはしないかと恐れたことはなかった。しもべは、六度まで帰って来た。そのたびに「もう一度行きなさい」とのことばだけがあった。私たちは、七度を七十倍するまで信仰を固守すべきである。信仰はカルメル山から眺めさせるために、待ち望みの希望を送り出し、もし何も見えなければ、何度でも見に行かせる。
信仰は度重なる失望に挫折せず、むしろいっそう熱心に神に嘆願をする。信仰は謙遜を与える。しかし決して恥じ入っているのではない。信仰のうめきは深くなり、その嘆息はさらに激しさを増す。しかし決してその手をゆるめない。祈りの答えがすぐに得られることは、血肉にとっては快い。しかし信仰深いたましいは従順を学んでいる。そして主にお仕えすることと同様に、主を待ち望むことがよいことであるのを見いだしている。答えが遅れることは、しばしば自分の心を反省させて悔い改めに導き、霊的改革をもたらす。
こうして、私たちの腐敗に致命的な打撃が加えられ、よこしまな思いの部屋がきよめられる。最大の危険は、人が気力を失って祝福を受け損なうことである。友よ。そのような罪に陥ることなく、祈りと見張りとを続けよ。ついに小さな雲が見えた。大雨の前触れである。あなたの場合も同様である。よい事のしるしはたしかに与えられる。そして、求めてきた恵みを受けるために、あなたは王侯のように立ち上がるだろう。
エリヤは私たちと同じような人であった。神を動かした力は、彼の功績のうちにはなかった。彼の信仰の祈りがそのように力があったとすれば、あなたの祈りがそうでないことがあろうか。絶えず執拗に尊い血潮によって嘆願せよ。必ずやあなたの願いのようになる。
 
 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、

2016年09月28日 17時14分08秒 | 聖書

私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)

初めの愛とは、神が、私たちを、愛して下さった愛のことだ。
私たちが、神を愛する愛ではなく、又、人を愛する愛ではない。
まず、初めに神だ。

この順序が狂うと、愛することがしんどくなり、重荷になる。
御言葉を行なうこと、戒めを守ることは、大きな重荷であり、苦痛になる。

しんどいばかりで、油の切れた機械のようだ。まず受けることだ。
神を愛する前に、人を愛する前に、十分に神の愛を受け取ることが大切だ。

「私達は愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」神がまず無条件で、犠牲愛で、一方的な与える愛で愛して下さった。

ザアカイは、虚しい、喜びのない、満たされない心で、木に登る事までして、必死に主を求めた。
その時、「ザアカイ」と名を呼ばれ、「あなたの家に泊まる」
と。

まず罪を責められ、戒められるのでなく、罪人のザアカイを全面的に受け入れて下さった。
主の無条件の愛を受けた。その時、ザアカイに悔い改めが起こり、具体的行動となって表れた。

自分の事だけに生きて来たザアカイが、財産の半分を貧しい人に施すという貧しい人を顧みる心が生まれた。

騙し取った物も償った。愛するとは何かをする事以前に、まず関係であり、主との関係だ。
愛の関係、信頼関係が生じて愛の行ないへと進んで行く。
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私達のすべてを知り不完全のままで愛して下さっている神様の愛をしっかりと受けとり味わい、感謝して一日を始めよう。
価なき者なのになぜ愛して下さるのかを。


今日の聖人の記念日

2016年09月28日 07時25分30秒 | キリスト教

聖トマス西と15殉教者

 

 秀吉時代から徳川家光の時代までの、宣教師として最後の殉教者で、日本26聖人殉教者(2.5記念日)に入らなかった女性と日本人司祭が含まれている。

 日本人の司祭であるトマス西、サンタマリアのヤコブ朝長、十字架のビンセンチオ塩塚の3人と、長崎のマグダナレナ、大村のマリナとして知られている女性がいた。またフィリピンの最初の聖人であるロレンソ・ルイズなど、日本から追放されたが死を覚悟して再び来日した外国人司祭もいた。

 彼らは、日本で列聖された最初の日本人司祭と女性である。


◆助  け  出  せ

2016年09月28日 07時23分54秒 | 聖書

捕えられて殺されようとする者を救い出し、
虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言二四11)
 
ベイリー・モアさんというカナダの伝道者から聞いた話です。あらしの晩に、イギリスのある海岸で近くの暗礁に乗りあげて、船が沈没しました。村人は総出で小舟を出し、海に浮かぶ一人一人を助けました。女たちや年寄りや子どもは、砂浜にたき火をどんどんたいて待っていました。さて、最後の舟がもどってきました。聞いてみると切り立った岩の上に一人の男が声のかぎり助けを求めていたのですが、波がすさまじく、どうしても舟を近づけることができません。そこで、ひとまず浜に帰ってきたのです。
若者たちは額を集めて、見捨てるか、助けに行くかを相談しました。いのちがけで助けに行こうと話が決まって、舟を出そうとしました。すると一人の婦人が髪をふりみだしてかけ寄り、一人の青年に抱きつきました。「行かないでおくれ、息子や。お父さんも海で死んで、お前の兄さんも海で行方不明じゃないか。行かないで――。」しかしその青年は、優しく言いました。「お母さん、大丈夫だよ。あの人を見殺しにゃできない。」出かけていった舟は、長いことしてから浜を指して帰ってきました。「助かったかぁ。」「ああ、助かったぞー。」浜に着いて母親が駆け寄ってみると、何と助けられた男は、行方不明になっていた兄息子だったというのです。
この実話を聞いて、心が締めつけられる思いがしました。イエス・キリストは、体を張って十字架の上で血を流し、私たちを滅びから助け出してくださいました。ヨハネは、このように言っています。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ三16)。人を見殺しにする心が私の中にもあることを感じて、恐れおののきます。
 
 

◆主は天から目を注ぎ、

2016年09月28日 07時23分06秒 | 聖書
人の子らを残らずご覧になる。(詩篇三三・一三)
 
恵み深い神を表すことばのうち、神が天の御座を降りて人類の欠けを助け、わざわいを免れさせるために親しくおいでになるという表現ほど、それにふさわしいものはないだろう。ソドムとゴモラが悪に満ちている時にも、親しくその地を訪れて検分するまでは、それを滅ぼされなかった神を私たちは愛する。臨終の床にある罪人が神との和解を求める時、栄光の御座より耳を傾け、その耳を罪人のくちびるにつけて聞いてくださる神に、私たちは心からの愛情を感じる。
神が私たちの髪の毛をも数えきり、行く手を指し示して導いてくださることを知る時、どうして私たちは神を愛さないでおられるだろうか。神がその被造物の物質的要求だけでなく、霊的要求に対してどれほどの配慮をなさるかを思う時、この偉大な真理はさらに近く私たちに迫る。
有限な被造物と無限な造り主との間には、大きな隔たりがあるが、なおこの二つを結ぶ鎖の輪が存在する。あなたが涙を流すとき、神がそれを見ておられないと思うのか。否、「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。あなたの嘆息は、主の御心を動かし、あなたのささやく声は主の耳を傾けさせ、あなたの祈りは主の御手をとどめ、あなたの信仰は主の御腕を動かすことができる。
神が高い御座におられて、あなたのことなどかまっておられないなどと思ってはならない。あなたがどれほど貧しくても、主はあなたを御心にかけてくださることを覚えよ。なぜなら、主の目は、全地をあまねく見そなわして、ご自身に向かって心を注ぐ者に御力を現してくださるからである。
 おお、疲れることを知らない真理を反復せよ
 私のたましいの慕う神のような神は
  ほかにおられない
 主の御声に、天も震えおののく
 主は大いなる方
 しかし私のために身をかがめることを
  ご存じの方だ
 
 

ヨブ記9章1-12節

2016年09月28日 07時21分01秒 | 聖書


9:11 「たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。
9:12 ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、『何をされるのか』と言いえよう」



 ヨブは信仰の人として、神の神であられる方の偉大さ、比較になる者が何もないほどの正しさ、無限の力を思って、神を称えています。

自分が今置かれている苦しみと痛み、また悲しみの中にあっても、神のことを思うと、その心は恐れと敬いの心で満ちているのです。

 彼は語ります。

「たとえ神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。」と。

神のなさることは、人にははかり知ることができず、その結果も見ることができない。

ましてや、この比較ができない権威をもたれるお方に対して、そのなさることを引き留めるなどということが、人にはできるはずがないというのです。

神の全知、全能、遍在のすべてを覚えて、ヨブは神をあがめるのです。

だからこそ、ヨブは、その生ける神に問いかけるのです。


エペソ書3章9節(イザヤ書46章)

2016年09月28日 07時18分45秒 | 聖書


★『また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。』


■O:今日のコラム
『奥義の実現』というとイメージが難しいかもしれません。奥義とは、(ギ)ミステリオンで隠されているものの事です。実現と訳されている言葉は意外な単語です。(ギ)コイノニアなのです。それは親密な交わり、一致、共有する事を指します。
  私たちの神との親密さ、交わり、全てのものを共有する、一つになるという事には、隠された領域があり、まだまだ私たちは知らないのです。『隠すのは神の誉れ』であり、『探すのは王の誉れ』です。主はこれを探し求める事を待っておられワクワクしているでしょう。まるで、子どもと隠れんぼをしている父のように。探す者によって、主は見つけられます。ますます、主との親密な関係の深い所へますます入っていきましょう!
  雅歌を読むと、花嫁は『愛に病んでいます』と告白します。主は私たちをわざとじらす事によって、私たちを愛に病ませていくのです。

『期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。』(箴言13:12)

■A:考えてみよう
主との親密さを、なかなか感じられなくてもあきらめずに求め続けよう!

■P:祈り
主よ。あなたを求めます。あなたとの親密さの中に導き入れてください。


9月27日(火)のつぶやき

2016年09月28日 01時33分55秒 | キリスト教