座間コミニティー

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◆しかし、御霊によって導かれるなら、

2016年09月06日 18時41分47秒 | 聖書
あなたがたは律法の下にはいません。(ガラテヤ五・一八)
 
律法の観点から自己の品性と位置とをながめる人は、もし賢明なら、その観察の最初から失望するであろう。もし私たちが律法の立場からさばかれるとすれば、生きている者で義とされる者は一人もいないからだ。
神の前における私の状態を考える時、問題は「私は律法の前に完全であるか」ではなく、「私はキリスト・イエスにあって完全であるか」ということである。これは、非常な相違である。私たちは「生まれつき自分に罪があるか」と尋ねる必要はなく、「私は罪と汚れのために開かれている泉によって洗われたか」ということが大切なのである。「私は神に喜ばれているか」ではなく、「私は愛する御子によって受け入れられているか」ということである。
クリスチャンは、シナイの頂で与えられた十戒に救いの証拠を探して、「私は救われているだろうか」と心配し始める。しかし、自分の肩書きをカルバリの光に照らして読むほうがはるかによい。彼は「私の信仰には不信仰が混じっている。それは私を救うことができない」と言う。しかし、もし彼が自分の信仰ではなく、信仰の対象について考えていたら、次のように言ったであろう。「主には失敗はない。だから私は安全だ」と。彼は自分の希望を嘆いて言う。「おお、私は現在の事で心労し、私の希望は痛められ、曇らされている。どうして私は受け入れられよう。」彼が、もし希望の基礎を見つめていたならば、神の御約束が厳然と立っており、私たちの疑いがどうであれ、神の誓いと御約束は決して廃されないことを見たに違いない。
ああ、信者よ。律法の足かせをつけているよりも、聖霊によって福音の自由に導かれるほうが、常に安全なのである。あなたがどんな人間であるかということより、キリストがどんな方であられるかによって、自分を判断せよ。サタンはあなたの罪深さと不完全とを思い起こさせて、あなたの平和をだいなしにしようとする。あなたはただ忠実に福音を固守し、奴隷のくびきを拒むことによってのみ、その告発に対抗できる。
 
 

「ところがイエスだけは、

2016年09月06日 18時40分55秒 | 聖書

とものほうで、枕をして眠っておられた」(マルコ4:38)

信仰生活で、少し風が吹き波立つと、行く手を阻まれると、「何で?何で?」と、驚き怪しむ。

「みこころで従ったのに、やっぱりみこころでは無かったのか?」「みこころを間違ったのか?」「あの事、この事が悪かったのか?」「隠しているあの事の罰か」と恐れと不安に襲われる。

何の問題も無く、人生スムーズに行く事が幸せで、祝福されているとの価値観が無いだろうか。
不幸な事、問題、悩み=悪、あってはいけない事、忌むべき、避けるべきものとの考えだ。

そして、御心に従ったからには、守られるはず、何もかもがスムーズに行くはずと思っている。
だから、御心に従って、試練が臨むと、理屈に合わないのでパニックになる。

しかし、そうではない。御心に従って、次から次へと試練が臨む。次々とテストが来る。
乗り越えさせて信仰を強めて下さるためだ。

この時も、主と共に舟に乗り込んだら、つまり御心に従ったら、激しい突風で舟は波をかぶり水浸しだ。
今にも転覆しそうだ。

弟子たちにすれば大変な恐怖だ。驚き慌て、パニックで右往左往だ。
しかし、主が舟におられる。そして主は「向こう岸へ渡ろう」とはっきり言われた。

言われたからには、途中に何があろうと渡れる。状況でなく主を見て、御言葉を見て、信じよう。
その時、舟は大波に大揺れしても、心は揺れずに平安に守られる。
主が平安でおられたように。
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状況が良ければ御心のまん中を歩んでいるように見え逆なら落ち込む。
どのような状況の中にもしっかりと主を見つめ、御言葉をにぎり、向こう岸に渡ろう。


今日の聖人の記念日

2016年09月06日 07時16分46秒 | キリスト教

聖カグノールド司教

?-633年

 カグノールドは、聖コロンバンとともに宣教に励んだ人物であり、コロンバンが建てたフランスのリュクセイの修道院の司祭であった。この修道院からは多くの聖人が出て、人びとの信仰生活を導き7世紀には、フランスで最も重要な修道院といわれた。
 コロンバンは、アイルランドの厳格な修道規則に従って儀式を重んじたため、フランスのメロヴィング王家の反感を買い、さらに610年にテオドリック2世王の不道徳な行為を批判したことで、フランスを追放された。そのとき、カグノールドもコロンバンに従ってボーデン湖の近くに移り、宣教師として働いた。 612年以後は、イタリアのボッビオの新しい修道院で暮らした。615年にコロンバンが亡くなった後、カグノールドはラオン市の司教となって、教会のために力を尽くした。


◆主によりたのむために

2016年09月06日 07時15分34秒 | 聖書

耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。
あなたの心を私の知識に向けよ。
これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。
これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。
あなたが主に拠り頼むことができるように、
私はきょう、特にあなたに教える。(箴言二二17―19)
 
神のことばに心の耳を傾けよ。神のことばを心の中にためておけ。いつもそれを口に唱えることができるように、暗唱せよ。そうすれば、いつでも神によりたのむことができて、力強く生き抜くことができる。――このようにいわれています。
神によりたのんで生きることを、多くの人は弱々しい女々しい生き方だと思っています。しかし、策略・金権・エゴなどの人間的な力にたよらないで、目には見えませんが、主の正しさ・きよさ・愛にのみよりたのんで生きることほど、勇敢で力強い生き方はないと、私は心の底から思います。
さて、いつでも神を神として認め、どんな時にも神によりたのむ方法があります。第一に、普段から神のことばに耳を傾け、第二に、その神のことばを心の中に蓄え、第三に、自然とくちびるにのぼるよう暗唱しておくことだと思います。
有名な、古い話があります。四十歳くらいの実業家が破産して、にっちもさっちもいかなくなりました。ある夜、神戸の六甲山で、いよいよ自殺を決行しようとしたのです。しばらく瞑想していると、自然に「すべて労する者・重荷を負う者、我に来れ、我なんじらを休ません」ということばが、くちびるから出てくるではありませんか。いったい、だれのことばだろう。いったいだれがこう言っているのだろう。――考えていると、やっと分かりました。何年か前、神戸の湊川の教会へ行って覚えた、聖書にあるイエス・キリストのことばだったのです(マタイ一一28)。その人は、自殺を思いとどまって帰り、また教会に行きました。そして、力強い新しい人生に向かって出発したのです(箴言三5―6参照)。
 
 

◆曲がった邪悪な世代の中にあって……

2016年09月06日 07時14分49秒 | 聖書
彼らの間で世の光として輝くためです。(ピリピ二・一五、一六)
 
私たちは物を明白にするために光を用いる。クリスチャンはこの世において光り輝き、一週間も相手と共にいるならば、必ず福音を知らせるというようでなければならない。彼の会話は、それを聞く者のすべてが、彼はだれのものであり、だれに仕えているかを明確に知り得るものでなければならない。また日々の行動には、イエスの御姿が反映していなければならない。光は導くためにある。私たちは暗黒にいる周囲の人を助けなければならない。彼らにいのちのことばを伝えなければならない。罪人に救い主を指し示し、疲れた者に聖なる安息所を教えなければならない。人々は聖書を読みながらも、その意味を理解できない場合がある。ピリポのように、私たちは問う者に対して、いつでも神のみことばの意味と救いの道と信仰生活の何たるかを答える準備ができていなければならない。
光はまた警告のために用いられる。岩の多い所や浅瀬には必ず灯台が建てられている。クリスチャンは、この世の至る所に多くの偽りの光が輝いていることを知るべきである。したがって、正しい光が必要である。サタンの配下は、常に諸方を巡り、不信仰な者を快楽の名のもとに罪に誘惑している。偽りの光を掲げている。私たちは、すべての危険な岩に真の光を掲げ、あらゆる罪の一つ一つを指摘し、その結果がどれほど恐ろしいかを告げ、すべての人の血に対して責任のない者となり、世の光となって輝かなければならない。
光はまた人を非常に力づける。クリスチャンもそうである。口には親切なことばをもち、心には同情を抱いて人を慰める者でありたい。行く所に光をもたらし、周囲に幸いをまき散らさなければならない。
 恵みの御霊なる主よ。私に宿ってください
 そうすれば、私も恵みに進み
 人を助け、いやすことばをもって
 あなたのいのちを内に現し
 雄々しく、柔和な行いで
 救い主キリストを証しします
 
 

ヨブ記2章7-10節

2016年09月06日 07時13分32秒 | 聖書


2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。



 ヨブはサタンのはかりごとによって、全身を悪性の腫瘍に冒されてしまいました。

ヨブの奥さんは、彼の今までの心の痛みを思いながら、更にこのような苦しみを加える神様の扱いを思って、もうあなたは忍耐をする必要はない、このような苦しみをもたらす神を呪って、死んでしまいなさいと告げました。

ヨブの受けているその苦しみを、見るに忍びなかったのです。

 しかし、ヨブは妻に語りました。

「幸いを神から受けているのだから、そのお方から、災いおを受け入れるべきではないか」と。

彼は、自分の命の維持は、すべて主の恵みによっているのだと告げたのです。




ルカ24章5、6節

2016年09月06日 07時11分29秒 | 聖書


★「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で探すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。

■O:今日のコラム
以前読んだ本に、生ける神とよみがえりのキリストをともに経験することの大切さについて記載されている箇所がありました。
「生ける神」とは、私たちの外側から超自然的に介入され、神業としか思えない奇跡などを通じて、私たちを励まし、慰め、道を開き、勇気づけてくださります。
他方で、「よみがえりのキリスト」とは、私たちと同様に人間であると同時に完全な神であったこの地上で生活されたキリストのであり、そのキリストが私たちに聖霊を残された通り、私たちに内住してくださり、いのちとしてともに生きてくださいます。
この記述を読んだとき、改めて切によみがえりのキリストとともに生きたいと願わされました。
キリストがこの地上で完全に神の御心を実現されたように、内なるキリストを通して、わたしの人生を通して、主の御心が現されるように。そして、どんな人生の出来事も全てはキリストの十字架と復活につながるということを、体験してゆきたいと願います。

■A:考えてみよう
「つまり、アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストに、よってすべての人が生かされることとなったのです。(第1コリント15:22)」キリストによって私たちが生きることができることができていること、またこれからもその命を体験できることを感謝する1日なりますように。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月5日(月)のつぶやき

2016年09月06日 01時32分15秒 | キリスト教