座間コミニティー

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◆しかしふたりの目はさえぎられていて、

2015年10月29日 16時53分22秒 | 聖書
イエスだとはわからなかった。(ルカ二四・一六)
 
弟子たちは、イエスを当然知っていなければならなかった。彼らは絶えず主の御声を聞き、御顔を見ていたのに、主を見分けることができなかったとは、むしろ不思議である。しかし、あなたも同様ではないか。あなたは近ごろ、主に会っていない。あなたは主の食卓に列しながら、主にお会いしていない。今夜あなたは暗黒の苦悩のうちにあり、主がはっきりと、「わたしだ。恐れることはない」と告げられるのに、あなたは主を見分けることができない。
ああ、私たちの目はさえぎられている。私たちは主の御声を知り、御顔を眺め、自分の頭を主の胸にもたせかけてきた。しかし、キリストがすぐ近くにおられるのに、私たちは「主がどこにおられるかを知ることができたなら」と言っている。私たちはイエスを知るべきである。私たちは主の御姿を示す聖書を愛している。しかしそれを開きながら、自分の愛する主を一目見ることさえできないとは、どういうことか。
愛する神の子たちよ。あなたはこのような状態にいるか。イエスはみことばのゆりの中におられる。あなたはそのゆりの中を歩きながらも、主を見つけることをしない。主は常に聖書の中を歩み、そよ風の吹くころ、御父がアダムと交わられたように、その民と交わられる。あなたは聖書の園の中におり、主が常にそこにおられるのに、あなたは主を見ることができない。
なぜ私たちは、主を見ないのか。不信仰のゆえである。弟子たちは、明らかに、イエスにお目にかかることを期待していなかった。そのため、彼らはイエスであることがわからなかった。私たちにイエスを見ることができるようにさせるのは、信仰のみである。「私の目を開いて、私と共におられる救い主を見させてください。」これをあなたの祈りとせよ。主にお目にかかることを願うのは幸いである。しかし、おお、主を見つめることは、はるかにまさる。ご自分を求める者に対して、主は親切であられる。しかし主を見いだした者には、主は表現できないほど親愛なお方である。
 
 

「神は高ぶる者を退け、

2015年10月29日 16時52分37秒 | 聖書

へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコブ4:6)

ナアマンは奇跡により、らい病がいやされた。
どんなに喜びに満ち満ちた事だろう。
なぜナアマンはその祝福を受けられたのか。
まずは、妻に仕えていた若い娘の「サマリヤにいる預言者が、ご主人様のらい病を直してくれる」との言葉に、耳を傾けた事だ。
聞く耳を持っていた。これは大切だ。
へりくだっていなければ、人に耳を傾ける事などできない。
ましてや、下の位にいる者に。
彼に聞く耳があったことから、事は始まった。
そして、エリシャに癒しを願うが、エリシャが出て来る事もせず、使いの者にヨルダン川で身を洗うよう言われ、プライドがひどく傷つき、腹を立てた。
怒って帰ろうとした時、またもや、そこでしもべの提言があり、ナアマンは耳を傾けた。
しもべの言う事を聞き入れ、エリシャの言葉に従った。
すると、奇跡が起きて、その言葉通り、きれいな身体に戻り、きよめられた。
ここで、へりくだって、耳を傾ける事の祝福を学ぶ事ができる。
彼は将軍という地位にいた上、王からも重んじられていた。
地位と立場ゆえ、なかなか人の忠告は聞けないものだ。
特に部下や、年下の人々の言う事は、プライドゆえ素直に聞けない。
しかし「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」、痛い忠言に耳を傾ける事は、へりくだりだ。
へりくだる者は、大きな恵みを受ける。
祝福への道だ。
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高ぶっているなら、そこでストップだ。
水は低い方へしか流れないので、恵みが来る事がない。
へりくだっているなら、どんな人からも教えられる。
聞く耳を持つならば、年下や誰からも学び、大きな恵みを溢れるばかりに受ける。


今日の聖人の記念日

2015年10月29日 06時52分56秒 | キリスト教

聖ナルチッソ(エルサレム)

?-220年

 ナルチッソは、ギリシャ人であり、エルサレムの司教として任命されたのは、老年になってからであった。しかし、彼は熱心に教区の司牧にあたり、信者たちをよく導いた。彼を快く思わない者から無実の罪を着せられて訴えられたが、信者たちは、ナルチッソの無実を信じて疑わなかった。しかし彼はこれを機に、かねてから望んでいた、祈りと黙想の生活をするためにエルサレムから退いた。彼が去った後に、代行者が亡くなり、新たに司教が任命されると、ナルチッソは、再びエルサレムに戻った。

 彼は、とても高齢になっていたが、司教に助けられ、司牧の務めを亡くなるまで果たしたといわれている。


◆ストップ、陰口

2015年10月29日 06時51分43秒 | 聖書

たきぎがなければ火が消えるように、
陰口をたたく者がなければ争いはやむ。(箴言二六20)
 
確かに「陰口」は、争いの火にたきぎをくべるようなものです。それなのに私たちは、よく陰口をたたきます。どうしてでしょうか。
第一に、人のよしあしを言う品定めにはこたえられない楽しみがあります。
第二に、人間には、面前にいる人を喜ばそうという気持ちが働きます。そして、いない人の悪口を言うと、人は一番喜びます。「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ」と、箴言二六章二二節は言います。
第三に、これは一番強力な陰口の動機です。人はうらみにかられて陰口をたたきます。憎い、うらめしい、怒りでいっぱいだ、怨念を晴らしたい。――そこで、あることないこと陰口をたたきます。
私自身が体験している「陰口のストップ法」を二つ紹介しましょう。第一は、陰口を言いたい時、ことにうらみの気持ちから言いたい時は、待てよ、本人に面と向かって言うとしたら、私は何と言うだろうかと考えます。必要なら、本人に面と向かえばこう言うという文章を実際に書いてみます。そして、本人の面前で言えないことは言わないと、ストップをかけるのです。こんなやり方をして、しばしばよく分かったのは、陰口の槍玉にあがる相手よりも、私自身の高ぶり・怒り・うらみ・憎しみこそ問題だということでした。
第二は、人が陰口を話すのを面白がって聞かず、ストップをかけてしまうことです。ピョートル大帝のところへある貴婦人が来て、自分の主人の悪口を言い始めました。ピョートル大帝は、「私の知ったことではない」と言いました。すると、その女は「でもピョートル大帝、私の主人は陛下の悪口も言いますの」とさそいをかけました。すかさずピョートル大帝は、「それはあなたの知ったことではない」と言ったそうです。
 
 

◆だから、こう祈りなさい。

2015年10月29日 06時50分51秒 | 聖書
「天にいます私たちの父よ……。」(マタイ六・九)
 
真の祈りは、主のすべての祈りのように、子が父に呼びかける心、すなわち「私たちの父よ」で始められなければならない。私たちが「立って、父のところに行って……」と言い得るまでは、神に受け入れられる祈りは出てこない。子どものように単純な心はすぐに、「天にいます」父の荘厳さを見させ、「御名があがめられますように」という真心のこもる崇敬を上らせる。「アバ、父」という子どもの片言が成長して、「聖なる、聖なる、聖なる」というセラフィムの叫びとなる。
全心全霊をもってする礼拝から、燃えるような宣教精神までの距離は、わずか一歩にすぎない。この宣教精神は、神への愛と、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と敬虔に主をあがめることの必然の結果である。
次に心からの神に対する信頼が続く。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
彼は主に依存しているだけでなく、さらに聖霊の光に照らされる時、自分の罪深さを発見するので、次のようにあわれみを願う。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、罪赦され、キリストの義を着せられ、神に受け入れられたことを知り、彼は常に聖くあることをへりくだりつつ懇願して、「私たちを試みに会わせないで……」と言う。真に罪赦された者は、再び罪を犯すのではないかと恐れる。義とされた者は聖くなろうとする。「私たちの負いめをお赦しください。」これは義認である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」これは消極積極両面の聖潔である。
以上の結果として次の賛美のことばが続く。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」私たちは、私たちの王が摂理の中に支配されること、やがて、恵みによって地の果てに至るまで統べ治められ、その統治の尽きないことを喜ぶ。
 
 

第1歴代誌25章4-8節

2015年10月29日 06時49分22秒 | 聖書


25:6 これらはみな、その父の指揮下にあって、シンバル、十弦の琴、立琴を手に、主の宮で歌を歌って、王の指揮の下に神の宮の奉仕に当たる者たちである。アサフ、エドトン、ヘマン、
25:7 彼らおよび主にささげる歌の訓練を受けた彼らの同族──彼らはみな達人であった──の人数は二百八十八人であった。



 詩篇の中に、「エドトンの調べ」と記された歌があります。

彼もアサフと並んで、神殿で主に讃美を献げるために、ダビデによって用いられたレビ族の一員でした。

 讃美の奏でるための楽器も幾種類かありました。

またその讃美は、主を讃える言葉を持ってなされました。

 マタイ伝を見ますと、イエス様が弟子達と一緒に愛餐の時をもたれた後、祈るためにゲッセマネの園の方に行かれましたが、その出かける時に、「そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。」と書かれています。

イエス様も弟子達も皆、讃美を歌って父なる神さまを褒め称えていたことが書かれています。

私たちも大きな声で主の御名を讃えましょう。


ヘブル4:10

2015年10月29日 06時47分42秒 | 聖書


★神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずでした。

■O:今日のコラム
安息とは、「肉体的または精神的な労働を中断し、労苦や悩みから解放されて平安のうちにある状態を言う」と新聖書辞典(いのちのことば社、1985年)に記されていたのを見ました。
とても分かりやすい解説だと思います。そして、安息することの重要性を改めて感じられます。
Resting in Godー神様のうちに安息することは、とても大切なことであると思います。
そして、神様のもとに行く以外安息はないこと、神様のうちでしか安息ー労苦や悩みから解放され、平安を得ることーは得られないと、信仰により安息に入ることが書かれているヘブル人への手紙4章を読み、改めて実感しています。
しかし、この安息には「力を尽くして努めて」入るようにしなければならないと11節にあるように、また「信じた私たちは安息に入るのです。」と3節にあるように、簡単に安息に入れないときもあると思います。

力を尽くして努めなければならないときがあると思います。
そして、安息は労苦や悩みから解放されて平安な状態ですから、神様と神様の御言葉に信頼しきっていないと安息に入れないことがあると思います。
働きや、自分もしくは人が自分に対してこうでなければならないと思っていること、悩みや不安、痛み、思い煩い、過去や今の状況、人の言葉などを握っていると、安息にはなかなか入れなくなります。

今日の箇所にあるように、自分のわざを終えて休めばいいことなのですが、自分のわざを握って休むことができないと、安息に入れないのです。
私自身も安息が必要だとずっと思っていましたが、なかなか安息に入れないときー労苦や悩みから解放され平安を持てないときーが多くありました。
これを手放したら、全て失ってしまうのではないかと思ったり、
神様と神様のことばに信頼しきれずに自分の思いや人の言動、状況を手放せずにいたからです。
しかし、私には今も安息が必要です。
安息の中でこそ、真の解放、癒し、回復、平安があると信じています。

安息の中で、親しい神様との交わりがあり、その中でこそ新しい力を得ることを信じています。
半年ほど前に、ある祈り手に、私は安息のために休むことについて話したとき、このように言われたのを思い出します。
「安息はとても大事なこと。私たちは皆安息が必要で、安息することを学ぶことはとても大事。
しかし、人にとって「安息する」ことが難しいということが多い。
それは、働き人を含めて人は、目に見えた働きや目に見えてまた実感的に進んでいる、前進していることをする方が簡単であるから、そっちをしたがるから。
それとは逆に、安息していると、目に見えて力強く進んでいないように感じてしまうから。
でも、神のうちに安息するとき、神様が私たちの上に安息される。」


■A:考えてみよう
きょう、もし御声を聞くならば、私の心をかたくなにしたくないと願います。

安息に入ることを願います。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月28日(水)のつぶやき

2015年10月29日 01時47分16秒 | キリスト教