座間コミニティー

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◆私の造り主である神は……

2015年10月19日 17時07分39秒 | 聖書
夜には、ほめ歌を与え……。(ヨブ三五・一〇)
 
日中ならば、だれでも歌う。杯があふれる時、人はそこからインスピレーションを引き出す。身近に富が山のように積まれている時には、だれでも、豊かな収穫と宝船を送られた神を賛美できる。風の吹く時、イオルス琴(ねこの腸線を反響箱に張った楽器。風が吹くとその圧力で鳴る)が音楽を奏でるのはたやすい。困難なのは、風が少しもない時にこの楽器で奏でることである。日中、楽譜の読める時に歌うのはたやすいが、暗やみの中で暗譜で歌う人は、熟練した人である。夜には、だれでも独力で歌を作ることはできない。それを試みることがあっても、夜の歌は神から霊感を与えられなければ作れないことを知るであろう。
すべてが好都合に運ぶならば、私たちはどこへ行っても自分の道筋に咲く花を摘んで歌を作れる。しかし、緑の全くない砂漠に自分を置く時、どうして神をたたえる歌が作れるだろう。死ぬべき人間が、宝石のないところで、どうして主のために冠を作れよう。この声が、この体が健康にあふれていたならば、私は神を賛美できる。しかし、私の舌を封じ、私を苦悶の床に横たえるなら、神ご自身が歌を与えてくださらないかぎり、どうして神への賛美を歌うことができようか。
しかり。全く逆境の中にある時、祭壇の上から取った燃えさかる炭がくちびるに触れるのでなければ、人の力では歌うことはできない。夜、ハバククが次のように歌ったのは神の歌であった。「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」私たちの造り主なる神は、夜の間に歌をお与えになる。それゆえ、神からの音楽を待ち望もう。
おお。妙なる歌人よ。苦難が自分の上にある時に、私が歌もなく過ごすことのないように。どうか、感激のメロディーに私たちのくちびるを合わせることができますように。
 
 

「私には、自分のしていることがわかりません。

2015年10月19日 17時06分38秒 | 聖書


私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15)

職場で、学校でないだろうか。
「あの人さえ変わってくれれば!」私の人生は天国になって、私の人生は何もかも変わるのに。
嫌な相手が、目の前に現れる。人生途上の「あいつ」だ。
対人関係で職場を変わったとしても、次にも、必ず「あいつ」が現れる。
又、ギクシャクする相手が出て来る。
相手が謝りさえすれば、相手が変わりさえすれば、こちらだって態度を変える気持ちはあるのにと。
こちらから先に出る事はプライドが許さない。
相手を変えよう、環境を変えようと悪戦苦闘をするが、的はずれなのだ。
今も、あなたの「あいつ」が目の前にいるだろうか。
主の取り扱いと受け止めよう。
時に、嫌な相手に、自分自身の嫌な部分を見て、相手を否定している。
見ているのは嫌な自分だったりする。
しかし、これらは自分の力では、どうにもならない。
自分を変えようとするが、できない事を見い出す。
そのまま主のみもとへ行こう。
人を裁く私、人を許せない私、プライドが高く、更にそれを捨てられない私、これが私ですと、そのまま主のもとへ行き、認めよう。
自分は何もどうにも出来ない事を、認めた時に、主が事をされる。
その時、自分が変えられている事を発見する。
主は心を変え、なすべき事を示し、目の前の事態を導いて下さる。
主の奇跡のわざを見る。主が成して下さる。
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嫌な思いのままでいたら愛さなくていいので楽だろうか。
その思いを神様に明け渡してみよう。
何度も来る苦い思いは、何度も明け渡そう。
肉の思いがいつの間にか変えられて行く奇跡を見る。


今日の聖人の記念日

2015年10月19日 07時28分49秒 | キリスト教

聖パウロ(十字架の)司祭

1694年-1775年

 パウロは、イタリア、ピエモンテ地方オヴァダの商人の家に生まれ、信仰厚く育てられた。1720年、自分の使命は、キリストの受難に示された神の愛を人びとに伝え、その苦しみを自分たちの生活とする修道会「御受難会」を創立することであると悟った。33歳でに司祭に叙階され、43歳になったとき、仲間とともに修道会の誓願を立てた。「十字架につけられたキリストを宣教する」をモットーに説教をして回り、多くの人びとを感動させ、信仰に立ち返らせた。その後、1771年に女子修道会も創立し、12の修道院を建てた。

 彼は、「イエス・キリストのご受難と聖母の苦しみ、それは私の唯一の希望です」と言って静かに息をひきとったといわれる。

聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者

17世紀

 聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者は、1642年から1649年にかけて、カナダで殉教した8人のフランス人イエズス会士たちである。

 1636年、イザーク・ジョーグ神父は「カナダの先住民族の人びとに、福音を知らせたい」と、ヨハネ・ブレブーフ神父、そして仲間といっしょにカナダのケベックに出発した。彼らは命の危険にさらされることも覚悟の上で、現地のイロコイ族、ヒューロン族の文化を尊重しつつ、彼らと生活をともにした。また、ヒューロン語を学んで、カテキズムや辞書を編纂するなどして、宣教した。

 ヒューロン族はたびたびイロコイ族と戦い、ジョーグ神父はイロコイ族に捕らえられ、13ヶ月投獄された。彼は仲間たちとともに、村から村へと連れて行かれ、拷問を受けた。また、ヒューロン族の改宗者が拷問を受けて、殺害されるのを目の当たりにした。

 その後、オランダからの思わぬ助けによって、ジョーグ神父は拷問の傷を受けた体で、フランスに帰国した。神父は人々から英雄として迎えられたが、彼は「ヒューロン族のために働きたい」という夢を捨てきれず、数ヶ月後またカナダに旅立った。

 しかしカナダでは部族間の争いが絶えず、8人のイエズス会士たちは、イロコイ族に捕らえられて、残酷な拷問の末に殉教した。彼らの証しはイロコイ族の人びとの心に刻み込まれ、こうしてキリスト教はカナダの地から消え去ることはなかった。そして、10年後にキリストの教えは人びとから受け入れられるようになった。

 この8人の勇気ある宣教者たちは、1930年に教皇ピオ11世によって列聖され、教皇ピオ12世は、「カナダの保護聖人」と定めた。

聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者

17世紀

 聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者は、1642年から1649年にかけて、カナダで殉教した8人のフランス人イエズス会士たちである。

 1636年、イザーク・ジョーグ神父は「カナダの先住民族の人びとに、福音を知らせたい」と、ヨハネ・ブレブーフ神父、そして仲間といっしょにカナダのケベックに出発した。彼らは命の危険にさらされることも覚悟の上で、現地のイロコイ族、ヒューロン族の文化を尊重しつつ、彼らと生活をともにした。また、ヒューロン語を学んで、カテキズムや辞書を編纂するなどして、宣教した。

 ヒューロン族はたびたびイロコイ族と戦い、ジョーグ神父はイロコイ族に捕らえられ、13ヶ月投獄された。彼は仲間たちとともに、村から村へと連れて行かれ、拷問を受けた。また、ヒューロン族の改宗者が拷問を受けて、殺害されるのを目の当たりにした。

 その後、オランダからの思わぬ助けによって、ジョーグ神父は拷問の傷を受けた体で、フランスに帰国した。神父は人々から英雄として迎えられたが、彼は「ヒューロン族のために働きたい」という夢を捨てきれず、数ヶ月後またカナダに旅立った。

 しかしカナダでは部族間の争いが絶えず、8人のイエズス会士たちは、イロコイ族に捕らえられて、残酷な拷問の末に殉教した。彼らの証しはイロコイ族の人びとの心に刻み込まれ、こうしてキリスト教はカナダの地から消え去ることはなかった。そして、10年後にキリストの教えは人びとから受け入れられるようになった。

 この8人の勇気ある宣教者たちは、1930年に教皇ピオ11世によって列聖され、教皇ピオ12世は、「カナダの保護聖人」と定めた。


◆遠い国からのよい便り

2015年10月19日 07時27分41秒 | 聖書

遠い国からの良い消息は、
疲れた人への冷たい水のようだ。   (箴言二五25)
 
疲れた人が冷たい水を飲んで生き返るような、「良い消息」「よい便り」をお聞きになったことがおありでしょうか。「戦場で死んだと思っていた息子が、生きて帰ってくるというニュース」なんて、よい便りそのものでしょう。また、あるお母さんが電話で、「息子が試験にパスしました」と、泣きながら知らせてくださいました。息子さんは精神障害で、何回も行きつもどりつの人生だったのに、神を信じて立ち直り、試験にもパスした。――それは、お母さんを生き返らせるようなよい消息でした。
私の人生をふりかえってみて、いくら感謝しても感謝しきれない、三つの祝福があります。第一は、争いの絶えなかった家庭が変えられて、仲のよい平和な家庭になったこと。第二は、何のため生きているのか分からなくて、むなしくて寂しくて十六歳の時自殺を図ったのに、今は元気で、生きがいを感じながら使命感に満ちあふれて生きていること。第三は、死んでも死なない永遠のいのちを確信していることです。
そして、私と私の家庭にこの祝福をもたらしたものは、遠いイギリスから、バーネットという一人の女性宣教師が携えてきてくださった神の愛の消息(イエス・キリストのよい便り)だったのです。
聖書は言います。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宜べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。……『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」(ローマ一〇13―15)。
 
 

◆キリストにある幼子……。

2015年10月19日 07時26分40秒 | 聖書
(Ⅰコリント三・一)
 
信者よ。あなたは信仰生活において弱さを嘆くか。あなたの信仰が取るに足らず、あなたの愛があるかないかのようなものであると言って嘆くのか。しかし、雄々しくあれ。あなたは感謝すべき理由をもつ。覚えよ。ある点においては、あなたは最も偉大なクリスチャンと同じである。彼と同様にあなたは血をもって贖われ、他の信者と同様に神の子とされている。あなたは完全に義とされている。義とされていることにおいて程度の差はない。あなたの小さな信仰があなたを完全にきよめた。そのゆえに、尊い契約に対しては、最も進んだ信者と同じ権利をもっている。なぜなら、契約の恵みに対するあなたの権利は、あなたの成長に基づかず、契約に基づくからである。
イエスへの信仰は、あなたの資格を定める尺度ではなく、主にあってあなたが財産を受け継いでいることを示す証拠である。あなたは、最も富んでいる者と同様に富んでいる。たとえ所有物を楽しんでいなくても、実際に所有していることに変わりはない。最も小さな星でも、天において輝いている。最もかすかな光でも、太陽の光と同質である。栄光の家族登録簿には小さな者も大きな者も同じペンで記されている。あなたは家族の最も大きな者と同様に、父なる神の心になつかしい者である。主は、あなたを心から愛しておられる。
あなたはくすぶる燈心のようだ。あわれみのない者は言うだろう。「そのくすぶる燈心を消せ。部屋の中はいやなにおいで満ちている」と。しかしイエスは消すことはなさらない。あなたはいたんだ葦のようだ。指揮者なる方より優しさに劣る手は、あなたを踏みつけるか、投げ捨てるかするであろう。しかし主は決してあなたを折られない。自己に失望し気落ちすることなく、あなたはキリストにあって勝利すべきである。
私はイスラエルの幼子にすぎないではないか。しかしキリストにあって私は天に座らされている。私の信仰は貧弱か。しかしなお私はイエスにあって万物の相続人である。私に誇るべきものはなく空しいが、主にあって喜び、私の救いの神をあがめる。
 
 

第1歴代誌22章1-5節

2015年10月19日 07時25分07秒 | 聖書


22:5 ダビデは言った。「わが子ソロモンは、まだ若く力もない。主のために建てる宮は、全地の名となり栄えとなるように大いなるものとしなければならない。それで私は、そのために用意をしておく。」こうして、ダビデは彼が死ぬ前に多くの用意をしておいた。



 ダビデは、主の幕屋と契約の箱がギブオンの地に置かれていることを考えていました。

ですから、それを移して、契約の箱を入れるための神殿を、エルサレムに作ろうと決心しました。

そのために、彼は石工を準備したり、鉄や青銅、杉の木を沢山準備しました。

彼は、自分にはこの神殿を建てることが許されていないことを、以前彼に告げられた主の言葉によって、知っていました。

しかし、息子のソロモンはまだ若いので、ダビデは神殿建設のための資材を、死ぬまでに十分準備をして、ソロモンが建てやすいように備えようと思ったのです。

彼の心は、先の罪とその罪の赦しを与えられた結果、改めて主を思い、主のために生きて死のうという決意をしたのです。


1ヨハネ5章3節

2015年10月19日 07時22分49秒 | 聖書


★神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。


■O:今日のコラム
今日の箇所にも書いてあった通り、「神を愛するとは、神の命令を守ること」です。神の命令とは何でしょうか。御言葉です。

「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか?」
ある人がイエス様に質問しました。そしてこの質問に、イエス様が答えられた場面があります。


律法学者がひとり来て…………イエスに尋ねた。
「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:28-31)

また他の箇所には、このようにも書かれています。

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
(ガラテヤ5:14)

神様を愛し、隣人を自分自身のように愛すること。
イエス様がこれより大事な命令は他にないと言われたのですから、間違いなくこの二つの命令こそが一番大切な命令だと言って良いでしょう。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。( 1ヨハネ4:20.21)

私たちが、頭なる方、イエス様に向かって「イエス様、あなたを愛します!」というとき、イエス様は「わたしの体も愛してほしい」と言っておられることを覚えます。

■A:考えてみよう
主が言われる、隣人とは誰でしょうか?
大きく分けて2つに分けることができると思います。

1.  主の救いを受け取っているもの
2. 主の救いを受け取っていないもの

私たちが、神様を愛したい!主の命令を守り行いたい!と思うとき、あなたの周りにいる神の家族の存在は、あなたと何かを競い合うライバルではありません。比べ合い、戦う敵ではありません。
イエス様がぶどうの木で、私たち神の家族は、それに繋がる枝です。愛し合い、励まし合い、慰め合い、祈り合います。共に成長し、共に実を結びます。一つとなり、共に主の栄光を表していく家族です。

そして、まだイエス様を受け入れていない、主の愛を必要としている人々を覚えましょう。すべてのものの父であられる方は、子どもたちがご自身のもとに帰ってくるのを待っています。

今日、あなたの隣人は誰でしょうか。
自分に与えられてる肉の家族、神の家族を自分自身のように愛しましょう。
そしてまだ主を知らない魂を愛し、心に抱き、頭なるイエス様の御体に加えられるように祈りましょう。
与えられた機会があるならば、寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧め、時が良くても悪くても、福音を宣べ伝えましょう。(2テモテ4:2)

★ 1コリント12章、ローマ12章を読んでみましょう。
御体のことについて、隣人を愛することについて、詳しく書かれています。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。( 1コリント12:26.27)

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12:15)



このマナメールを読んでおられる皆さま、主を愛し、主を知るものたち、神の子どもたちが愛し合い一つとなる時、世は父の愛を見、そして父の愛を知るでしょう。

わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。(ヨハネ17:23)


■P:祈り
愛する神様、この朝、大切な命令を私に与えてくださったことを感謝します。神様を愛する愛も、隣人を愛する愛も、あなたが与えてくださることを感謝します。
今日も、あなたの愛を受けて私は1日をスタートします。

今日も、私にはあなたが必要です。そして、今日出会う一人一人の存在が、私には必要です。
あなたが私を愛してくださった愛を、愛する喜びを、もっともっと教えてくだい。共に泣き、共に笑う、イエス様の愛の心を注いでください。
あなたの愛を受けて、あなたを愛します。あなたの心を受けとり、隣人を自分自身のように愛します。御言葉を守り行う力を与えてくださる主をほめたたえます。第一の戒めと、第二の戒めを一つにし、あなたの栄光を表してください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月18日(日)のつぶやき

2015年10月19日 01時48分53秒 | キリスト教