座間コミニティー

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◆御霊は……

2015年10月22日 17時00分07秒 | 聖書
わたしのものを受けて、あなたがたに知らせる……。(ヨハネ一六・一四)
 
聖書のすべての約束も教義も、恵みの御手がそれらを私たちに適用してくださらなければ、役に立たないことがある。私たちは渇いている。しかし谷川まで行くには、あまりにも弱り果てている。兵士が戦場で傷ついた時、病院に傷口をほうたいしてくれる人々がいて、苦痛を和らげる薬があることを知っていても、彼にとってそれはほとんど益にならない。彼に必要なことは、そこまで運ばれて手当てを受けることである。私たちのたましいもこれと同じである。そしてこの必要を満たしてくださるのは真理の御霊であり、御霊はイエスのものを受けて、私たちに適用される。
キリストはご自分の喜びを天の棚に置かれ、私たちが上って行ってそれを自分のものにするようにされる、と考えてはならない。主ご自身が私たちに近づき、主の平安を私たちの心に注いでくださる。クリスチャンよ。今夜あなたが深刻な苦悩と戦っているならば、あなたの父は約束を与えておいて、井戸から水をくみ出すように、みことばの中からあなたにそれをくみ出させるようなことはされない。みことばの約束を、新たにあなたの心に書き記されるのである。あなたに愛を示し、あなたの心労を、神の尊い御霊によって打ち払われるのである。
おお、嘆く者よ。神がその民の目からすべての涙をぬぐい去られるのは、神の大権であることを知れ。イエスは、単にあなたに約束のすばらしいぶどう酒を与えられるだけでなく、金の聖杯をあなたのくちびるにつけて、いのちの血を注がれる。長い旅路に疲れた病んだあわれな巡礼は、歩けるように力づけられるだけでなく、鷲の翼に乗せて運ばれるのである。
栄光ある福音よ! それは無力な者のためにすべてを備え、それに達することができなければ、ご自身が近づかれる。――私たちが恵みを求めるに先だって、私たちに恵みをもたらす。その賜物に栄光があるように、その与え方にも栄光がある。イエスを知らせる聖霊をもつ人は幸いである。
 
 

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、

2015年10月22日 16時58分53秒 | 聖書

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)

神を一生懸命求めてるが、出会っている実感が無い。
祈ってるが、聞かれている気がしない、という人々がいる。
求めているのに、どうして?と。求めよ、そうすれば与えられると、求める者には答えて下さるお方ではないのかと。
求めているが、神がどうしてもわからないという時、自分に都合の良い神を求めている場合がある。
心地の良い、気持ちの良い神を求めている。
自分のイメージ通りの、自分の思い通りの神を求めていて、そんな神は存在しないので、どう求めてもわかりようがない。
神がわからないという時、的がずれていないか。
神を求めているのではなくて、自分に都合の良い偶像を求めていたりする。
それは性善説的な、ただ愛してだけくれる神だ。
癒しを求めるばかりで「愛されている」だけがすべてだ。
罪のさばきや、生まれながら御怒りを受けるべき、自らの真の状態、訓練や鍛錬、試練、苦しみなどは飛んでいる。
「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には…わかる」神が真に、わかると言われている。
もし、神を知りたいと願うならば、御心を求めて行くことだ。
自分を捨て、十字架を負って行く時に、神がわかる。
自分中心に都合の良い神を求めるのではなく、自分を捨てる時、明け渡して行く時、必ず神がわかる。
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自分のための神だと、なかなかわからない。
今まで神を新しく知って行ったのは、目の前の一歩に信仰もって従った時だった。
それは痛かったり、プライドに挑んで来たりするが、必ず大きな喜びを刈り取る。
従おう。


今日の聖人の記念日

2015年10月22日 08時17分55秒 | キリスト教

 聖ペトロ(アルカンタラ)司祭

1499年-1562年

 ペトロは、スペイン、アルカンタラの貴族の家に生まれた。サラマンカ大学で学び、1515年にフランシスコ修道会厳修派に入り、司祭となった。その後、各地の修道院長を歴任し、修道会の原初の精神に戻ろうと、裸足で説教をしながら、イタリアからメキシコ、東インド諸島、ブラジルなどを回った。その後、ペドロソの小修道院で厳格な改革派の基礎を固め、アルカンタラ派と呼ばれるようになった。会員は極度の清貧のうちに生きた。

 著書『祈りと黙想論』は、キリストの苦難と終末のときに思いをはせることを勧める書である。1826年に、ブラジルの守護の聖人とされた。

福者ティモティオ・ジャッカルド司祭

1896年-1948年

 1896年1月13日にクネオ県のナルツォーレに生まれた。彼は12歳のとき、ナルツォーレに派遣されたアルベリオーネ神父と出会った。当時、助任司祭だった神父は、信心深く、賢明で活発なジャッカルドに深い印象を受け、神父の世話でアルバ神学校に入学した。出版の使徒職に興味を持ち、1917年、アルベリオーネ神父が創立した聖パウロ修道会に入会し、2年後に司祭に叙階された。

 柔和で勤勉、忍耐深かった彼は、記事の執筆、編集をはじめ、志願者たちの養成、会計係や院長の役も担った。修道会の初期は、人びとからの無理解と経済的困難に遭遇したが、アルベリオーネ神父の片腕となって、兄弟たちを導き、修道会の土台を築いていった。特にマリアへの深い信心を持ち、謙虚で従順な彼は皆から愛された。

 アルベリオーネ神父が創立した聖パウロ女子修道会、師イエズス修道女会の聖座法による認可にあたって、父親のように献身した。

 1948年1月12日、師イエズス修道女会が教皇直轄修道会として認可されたが、このころ、彼は急性白血病と診断された。12日後の1月24日、アルベリオーネ神父やシスターたちの見守るなか、祈りのうちに天の国へと旅立った。

 1989年10月22日、聖パウロ修道会創立75周年の年に、ローマの聖ペトロ大聖堂にて、教皇ヨハネ・パウロ2世により、列福された。


◆むちでなければ分からない者

2015年10月22日 08時16分53秒 | 聖書

馬には、むち。ろばには、くつわ。
愚かな者の背には、むち。      (箴言二六3)
 
あなたにとって、「愚かな者」とはどんな人のことですか。学校のテストで悪い点をとるのが、頭の悪い「愚かな者」だと思う人もいるでしょう。それとも、のろまで要領の悪いのが「愚かな者」だと思う人もいるかもしれません。しかし、ほんとうの意味で「愚かな者」とは、いったいどういう人でしょうか。
昔、私が勤めていた職場で、危険なセックスの火遊びをしている女性がいました。その人は、頭がよくて仕事のできる人でした。私の上司は、心から心配してアドバイスしたのですが、ばかにしてその忠告を受けつけませんでした。ついにその女性は、職場を捨ててその男性を選ぶ選択をしました。そして、しばらくしてから、もみくちゃにされて捨てられてしまったのです。
同じころ、その職場で、ある牧師を招いて一同で聖書の話を聞きました。その時私たちは、心をサーチライトで照らされたように感じたのです。この話の後、一人の同僚がその牧師のところへ行って、自分がいま陥っている罪深い女性関係について告白し、涙を流して悔い改めました。私たちはびっくりしましたが、彼自身はみごとに立ち直ったのです。
いま私は、この二人のことを思い返してみました。賢そうに見えたあの女性は、実は愚かだった。涙なんか流して、格好よくなかったあの男性のほうが、結局は賢かったと思うのです。最後のむちがくだるまで、自分の罪深さ・弱さが分からない、受け入れない。最後のむちがくだるまで、自分以外の人の正しさが分からない、受け入れない。神がいらっしゃることを受け入れない。神の正しさ・きよさ・愛を認めない、受け入れない。――これこそ、人の最も愚かな愚かさではないでしょうか。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一17)。
 
 

◆わたしは……

2015年10月22日 08時15分50秒 | 聖書
喜んでこれを愛する。(ホセア一四・四)
 
この聖句は神性の本質の縮図である。この意味を理解する者は一流の神学者であり、その深い意味をくみ取ることができる者は、クリスチャンの中でも奥義を極めた者である。これは私たちの贖い主キリスト・イエスによってもたらされた輝かしい救いのメッセージの要約である。
この聖句の中心は「喜んで」ということにある。これは愛が天より地に注がれるための栄光に満ちた神の方法である。すなわち、自発的な愛が、それを受ける価値のない者、買うことのできない者、また求めることをしない者に注がれるのである。事実、神が私たちのような者を愛される方法はこのほかにない。
今朝の聖句は、私たちの側に神の愛を受けるに値する何かがあるという議論に致命的な一撃を与える。「わたしは……喜んでこれを愛する。」もし私たちの側に、神の愛を受けるために必要な何かの適性があるならば、神は私たちを喜んで愛されないであろう。私たちはつぶやく。「主よ。私の心はあまりにもかたくなです」と。しかし「わたしは喜んで愛する」と答えられる。「しかし、私は心に願っているように、キリストの必要を感じないのです。」「わたしは、あなたが必要を感じるから愛するのではない。わたしは喜んであなたを愛する。」「しかし、私は心で欲しているようなたましいの素直さを感じることがありません。」覚えよ。たましいの素直なことは条件ではない。恵みの契約に条件はないからである。それゆえ、私たちは、何の適性もなくキリスト・イエスにあってなされた「御子を信じる者はさばかれない」との約束にすがることができる。神の恵みが常に喜んで提供され、準備も適性も価もなく与えられることを知るのは幸いである。
「わたしは……喜んでこれを愛する。」このみことばは信仰から離れた者を呼び返す。事実これは特に信仰後退者のために記されている。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」信仰の衰えた者よ。この寛大な御約束はあなたの心をただちに砕き、あなたが悲しませていた神の御顔を求めさせるであろう。
 
 

第1歴代誌23章1-5節

2015年10月22日 08時14分05秒 | 聖書


23:3 レビ人のうち、三十歳以上の者を数えたところ、ひとりずつ人数を調べた合計は三万八千であった。
23:4 「そのうち、主の宮の仕事を指揮する者は二万四千、つかさとさばきつかさは六千、
23:5 そして、四千人は門衛となり、四千人は私が賛美するために作った楽器を手にして、主を賛美する者となりなさい。」



 神殿がまだ作られていない時に、ダビデは神殿で働くレビ人のことで、組織作りを始めました。

働き人はレビ人です。 

レビ人は主の戒めに従って、30才以上の男子が働きに召されました。

また、50才でその働きを終えました。

この30才以上のレビ人の数を調べたら、3万8千人もいたのです。

彼は、祭司が犠牲の儀式を行いますが、彼らの下で奉仕をする人々の働き人を決めました。

次に、神殿で異邦人などが入ってこないように、犯罪が犯された時に対処する裁き司を決めました。

また、門衛や讃美をする者達を決めました。

 彼は神殿で働く時、それを秩序を持って行って、主に奉仕が出来るようにしたのです。


ダニエル書6章10節(ダニエル書5章)

2015年10月22日 08時12分30秒 | 聖書


★ダニエルは、その文章の署名がされたことを知って自分の家に帰った。ー彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。ー彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

■O:今日のコラム
この時のダニエルの状況を現代に置き換えてみると、政治家の中でもトップだった彼はニュースを見て、いつの間にか法律が書き換えられてたことを知ります。それも、その法律は、彼のこれからを左右するかもしれない、もしくは、その法律によって、自分の命さえもなくなるかもしれないという法律です。

彼はこの法律を聞いたとき、なぜ、こんな愚かな法律ができたのかと思ったでしょう。全然、論理的でもない、無意味な法律だと。彼は、知っていたでしょう。彼に敵対する政治家達がこの法律を王様に押し付けたことだろうと。そして、その法律に署名した王様に関しても、なんて愚かな決定を下してしまったのだろうかと思ったかもしれません。

ただ、今のはすべて私の仮定なので、もしかしたら、ダニエルは一切そんなことを考えていなかったかもしれません。

実際、彼がそう考えたとしても、彼のとった行動とその姿は、すごく立派なものでした。

彼は、そのニュースを見て聞いたあと、すぐに王様のところに行って、「この法律は不公平すぎる。愚かだ。書き換えるか下げるべきだ」と言うこともなく、彼は、家に帰り、主の前にひざまずき「感謝」したと、今日の箇所には書かれています。

ダニエルと王様は、ものすごくよい関係にありました。だから、彼には、王様のところに行って、この法律に関して不満を言い、書き換えることができる権利があったと私は考えます。しかし、彼はそれをすることもなく、ただ、主の前にへりくだり、主に感謝を捧げました。

そして、たぶん、彼にとっては、案の定だったでしょう。法律を犯したので、捕まえられることになりました。しかし、ここを読むとダニエルが抵抗している記述が一切ありません。王に訴えるチャンスは大いにありました。彼が獅子の穴に投げ込まれる前、王様はダニエルに「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」(16節)と声をかけます。その時に、ダニエルは、王様に自分の訴えを叫ぶことができたと思います。しかし、彼はそれもせずに、だまって、そのまま、獅子の穴に投げ込まれました。

ダニエルがこの章で初めて声を発するのは、獅子の穴に投げ込まれた翌日。王様がダニエルが生きているかを確認しに声をかけた時です。その時に、初めてダニエルは口を開き、自分の訴えを王様に語ります。「王よ。私はあなたにも、悪いことをしていません。」と。(22節)

ここまで大げさでなくても、私たちの日常でも、このような経験をすることがないでしょうか?学校や職場、または日々の生活の中で、自分には不利な方針や決まり事ができてしまったとき、私たちの最初の反応はもしかすると不満だらけかもしれません。それに反抗したい。自分の正しいことを示したいと思うかもしれません。

しかし、今日、ダニエルのこの姿勢を学び、私たちもまず、主の前にへりくだり、主に感謝し、この件に対して、主を信頼し、主の介入を待ち望んでみませんか?そうすることによって、主の働かれる大いなる奇跡を体験することができると信じます。ダニエルが、獅子の口から守られたように。


■A:考えてみよう
これは、私も学んでいます。突然、方針が変わったり、いつの間にか何かが決まり、それを後で知り、私の心の中は不満だらけになることが多々あります。しかし、ダニエルの姿から学び、まずは、主の前に行き、主に心を注ぎます。そして、そのうち、感謝することができるように、聖霊様が導いてくださることを経験しています。私ももっと主の介入を見たいので、もっとダニエルのように、主の前にへりくだり、主に感謝し、主を完全に信頼する者になりたいです。

「ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。」(23節)

私たちが主に完全に信頼するとき、どんな傷を受けたとしても、その傷は完全に癒され、傷を認める事もできないくらい完全な者になることを私は信じます。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月21日(水)のつぶやき

2015年10月22日 01時48分37秒 | キリスト教