座間コミニティー

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◆ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。

2015年10月15日 16時37分02秒 | 聖書
もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。(出エジプト三四・二〇)
 
すべての初子は、主のものでなければならない。しかし、ろばはきよくないため、いけにえとしてささげることができなかった。ろばは神のものである。しかし神はそれを受け入れてくださらない。神は要求をお捨てにならないが、そのいけにえをお喜びになれない。それゆえ、贖いのほかに道がない。その動物は、小羊を代償とすることによって救われなければならない。贖われないならば、それは殺されなければならない。
私のたましいよ。ここにおまえに対する教えがある。そのきよくない動物とは、おまえのことである。おまえは、おまえを造り、守られる主の所有物である。しかし、おまえは非常に罪深いので、神はおまえを受け入れることをお望みにならず、またそれは不可能なことであった。そのため神の小羊がおまえの代わりに立たなければならなくなった。そうでなければ、おまえは永遠の死に落ちなければならない。傷のない小羊はすでにおまえのために血を流し、致命的な律法ののろいからおまえを贖い出してくださった。この傷のない小羊に対するおまえの感謝を全世界に知らせよ。
イスラエル人にとっても、ろばを殺すべきか、小羊を殺すべきかが時々問題となったのではなかろうか。人間のたましいの価値と主イエスのいのちとは、もちろん比較にならないものである。しかし、それにもかかわらず、小羊が死なれ、ろばのような人間が救われた。たましいよ。おまえ自身と他の人類に対する神の限りない愛をたたえよ。虫けらにすぎない者が、いと高き御子の血によって贖われた! ちり灰にすぎない者が、金銀よりもはるかに高い価をもって贖われた! この豊かな贖いがなかったら、私はどんな運命に陥ったことか! 
ろばの首を折ることは瞬間的な刑罰にすぎない。しかし、来るべき無限の神の怒りを、だれが測ることができるだろう。私たちをこのような運命から贖われた栄光の小羊の、言い尽くすことのできない愛よ!
 
 

「神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに…

2015年10月15日 16時36分09秒 | 聖書

私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」(Ⅰペテロ1:3)

エデンの園で、善悪の知識の木の実を食べた、アダムとエバには自意識が生じた。
それ以来、たえず自分が自分を見て、量り、さばくようになった。
人がどう見ているかを、人でなく、自分が量る。
結局人が恐れているのは、人の目ではなく、実は自分の目だ。
自分が、自分の一番厳しい審判者だ。
自分で自分を追いつめ、束縛するようになった。
それゆえ、恐れと不安が生じ、恐れる者となった。
人ではなく、自分が自分をさばく。
自分の中に敵をかかえていて、自分を一番傷つけているのは、相手や周囲でなく、自分自身だ。
これがアダムの罪の結果だ。
自分から逃れられない。
自我、自己愛、自己中心、自己防衛、自己憐憫どこまで行っても自分、自分だ。
ここから救うために主キリストが来て下さった。
この罪を引き受け、荒野で蛇が上げられたように、呪われた姿で十字架にかかられた。
アダムの違反により罪人となった私達は、キリストにより義人とされる。
この自己にがんじがらめの呪いから解放され、死からいのちへ移された。
「…信じる者は、死からいのちに移っているのです」完了した。
移転途上でなく、すでに移り終わった。
そのいのちは、神を親とし、神の子供として生まれ、神の性質を持ついのちだ。
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自分をがんじがらめにするのは、人の目ではなく、実は人がどう見ているかを意識する自分の目だ。
どこまで行っても自分だ。
十字架によって、古い自分は死んだ。
信仰に立って歩もう。


今日の聖人の記念日

2015年10月15日 06時46分15秒 | キリスト教

聖テレジア(イエスの)おとめ教会博士

1515年-1582年

 テレジアは、スペインのカスティリア州のアビラに生まれた。19歳のとき、高い理想をもってカルメル会修道院に入ったが、当時の修道生活は、規律・修道精神が緩慢となっていた。そのことに失望したテレジアは、幻滅、悲哀、霊的乾燥、信仰に対する疑問などに襲われた。しかしこの苦しみをとおして、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の深い神秘の体験をした。

 1562年、本来の会則に立ち返った「女子跣足カルメル会」をアビラに創立し、10数人の修道女たちとともに厳しい生活を始めた。彼女の改革に反対する人びとも多かったが、十字架の聖ヨハネなどの援助によって17もの女子修道院を建て、当時の社会に大きな影響を及ぼし、16世紀におけるカトリック教会改革の原動力ともなった。

 テレジアは、多くの本を書いたが、中でも自分の神秘生活を著わした『完徳の道』、『霊魂の城』は、今もなお多くの人びとに読まれている。シエナのカタリナ、幼きイエスのテレジアとともに、女性としてはただ3人の教会博士の中に数えられている。「イエズスのテレジア」「大聖テレジア」「アヴィラの聖テレジア」とも呼ばれている。


◆あなたを裏切る者

2015年10月15日 06時45分07秒 | 聖書

苦難の日に、裏切り者に拠り願むことは、
悪い歯や、なえた足を頼みとするようなものだ。(箴言二五19)
 
金だけが裏切らない助けだ、たよりだと思いこんでいて、みごとに金に裏切られる人が何と多いことでしょう。あなたの金は、あなたのまわりに裏切り者をひきつけ集めると言いたいくらいです。
退職後、ばったり人が訪ねてこなくなったと世をはかなんで、ある役所の高官だった人が自殺したという記事を新聞で読みました。元大臣・元社長・元何々・前何々の肩書きが肩書きだけになった時、どんなにたよりにならないものでしょうか。権力や地位こそたよりになると多くの人は思いますが、実は、はかないものです。
これに対して聖書は、「鼻で息をする人間をたよりにするな」(イザヤ二22)とすら言うのです。
「苦しい時の神だのみ」とか「おぼるる者はわらをもつかむ」などといって、神をたよるのは弱い者のすることだ、女子どもと年寄りのすることだと、ばかにする人が実に多くいます。しかし私は、こう思うのです。うわっつらの富や権勢にこびるのではなく、目には見えませんが正しくきよい神の御目の前で、神の真実・きよさ・愛だけによりたのみ、神に従って生き抜こうとする、ほんものの信仰は勇敢です。真に力強いものだと、私はいつも感じます。
神は言われました。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ三三3)と。その同じ神は、またこう言われるのです。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう」(詩篇五〇15)。
 
 

◆だれが、

2015年10月15日 06時44分27秒 | 聖書
この方の来られる日に耐えられよう。(マラキ三・二)
 
主が初めて来られた時に、外に現れる華やかさや力の誇示はなかった。しかし、それにもかかわらず、そのテストの力に耐えることのできた者はほとんどいなかった。ヘロデとエルサレム中の人々は驚くべき誕生の知らせを聞いて動揺した。主を待ち望んでいると思われた者たちは、実際に来られた主を拒否し、自分たちの告白が偽りであったことを暴露した。主の地上におけるご生涯は、ふるい分ける箕であって、多くの宗教上の告白をふるい分けた。それに耐えることのできた者はほとんどいなかった。
しかし、主が再臨される時はどうだろう。それを考えてみることさえ、罪人は耐えられない。「(主は)口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」主が「それはわたしです」と言われただけなのに、兵士たちは地に倒れた。それなら主があらわにご自身を現される時の恐怖はどれほどだろう。主の死は地を震わせ、天を暗くした。それなら、主が生ける救い主として死者と生者を御前に集められる時の恐ろしい光景はどうであろう。ああ、その恐怖が人々に罪を捨てさせ、神の子の怒りをなだめるために主に口づけするまでになるように。
主は小羊であられるが、ユダ族から出た獅子であられ、獲物をばらばらに引き裂かれる。主はいたんだ葦を折られないが、鉄の杖で敵を打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。その敵は一人でも主の怒りのあらしの前に耐えることができず、その憤りのひょうから姿を隠す。しかし、主のいつくしみを受け、その血によって洗われた民は、その現れを喜びをもって待ち望み、恐れることなく主と共になることを願う。彼らにとって、主は今も金の精錬者であられる。そして、主によって精錬された者は、純金となって出て来る。
今朝私たちは自らを探り、主の再臨が私たちの心に暗影を投ずることのないよう、私たちの受けた召しと選びとを確かなものとしよう。ああ、すべての偽善を去って、主のおいでになる時、純真で非難されるところのない者となる恵みを得たい。
 
 

第1歴代誌21章7-13節

2015年10月15日 06時43分09秒 | 聖書


21:11 ガドはダビデのもとに行き、彼に言った。「主はこう仰せられる。『受け入れよ。
21:12 三年間のききんか。三か月間、あなたが仇の前で取り去られ、あなたに
敵の剣が追い迫ることか。あるいは三日間、主の剣、疫病がこの地に及び、主の使いがイスラエルの国中を荒らすことか。』今、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めてください。」



 主の怒りがダビデに下り、預言者ガドを通して3通りの裁きが告げられました。

その内から1つを選べというのです。

それは、どれもがつらく苦しいことでした。

しかし、ダビデは、自ら犯した罪の故に受けるべき裁きであることを覚えて、敵に支配されるよりも、自分と自分たちの内におこる苦しみの方を選びました。

それは、疫病がこの地を打つことでした。

権力の絶頂にあったダビデが、自らを誇って、神を頼りにしなかったために受けた裁きでした。

ダビデは偉大な王です。

しかし、その彼も人として、罪を犯して神を悲しめているのです。

人は皆、神の前では大きな罪人であるということを知るのです。


雅歌5章2-8節(ヨハネの手紙 第一 1章)

2015年10月15日 06時40分29秒 | 聖書


★私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。
私は起きて、私の愛する方のために戸を開けました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。
(上記は3、5節のみ)


■O:今日のコラム
ご存知の通り、雅歌には花婿と花嫁が描かれ、花婿は主、花嫁は私たちクリスチャンまた教会と解釈して私たちは呼んでいると思います。
それを踏まえて、今日の箇所を見ていきたいと思います。

5:2で、主は私たちに「戸をあけておくれ。」と呼びかけます。

花嫁は、着物も脱いで、足も洗って完全に寝ようとしていたのに、とすぐに答えることはできませんでした。(5:3)

すぐに答えられないのは、それは主から言われたことが予想外なタイミングだったからです。
自分のしようとしていたことと、主から言われることや主が私に求めることが全く違ったからです。

当時は、また足を洗うなんて少し手間のかかることだったと思います。

いや、神様、私ここに来るまで、この状況に至るまで、◯◯してきたんですよ、また◯◯するなんて、どうしてですか。と思う気持ちとも同じかもしれません。


それでも、花嫁はやっぱり花婿に答えて、起きて戸を開けに行きます。(5:5)

それは、たとえ最初は主から言われることが嫌だと思ってたとしても、すぐには応答できなかったとしても、主への愛は全く冷めていない為、主に応答するのです。
たとえ主から求められることや主が私にしてほしいことが自分の思いと違うことでも、自分の求めることと違うことであっても、自分のタイミングと違うことであっても、主への愛が花嫁である私たちの心を動かし、主に答えていくのです。

その主への愛は、雅歌1-4章の中で主の私たちに対する愛を受け取っとっていたことから来るものだと思います。主との甘い親密な時間を過ごしていたから、そして主からの自分に対する愛のことばを、主の御声、御言葉を聞いたから、主がどんなに私を愛しておられ、主がどんなに愛せずにはいられない方であるかを知り、主に恋に落ちていたからでしょう。

そのため、今自分がいたい場所、自分のタイミング、居心地のいいところ、自分の思いや求めることを脇に置いて、花嫁は花婿イエスの招きに答えられました。そして、主に従った花嫁の手からは没薬が流れました。

手は行動、行いを意味します。また没薬は埋葬の時に使うもので、自分に死ぬことを意味しています。

花嫁の行動が、自分の肉の思い、自分の求めること、自分のタイミングや計画に死んでいたことを表しています。また、行動が主への心からの信頼から来る信仰の行いであることを表しています。

しかし、花婿は自分に死に主に従ったのに、花婿は背を向けて去っていきました。

主の臨在はなくなってしまったような状況でした。

そこには、主はいませんでした。主が見つけられないような、主が
見えないような状況だったのです。

主に呼び求めても、答えがないような状況だったのです。主が答えてくれなくなったというような状況だったのです。

5:7は、「リーダーたちに自分の働きやミニストリーが否定・拒絶されること」とIHOPのマイク・ビックル師は解釈していました。
主に従ったのに、リーダーや上司に自分の働きを反対・批判されること、また主に従ったのにその働きを失うことをも意味しているかもしれません。

主に従ったのに、人々から批判され、傷つけられることかもしれません。

かぶり物をはぎ取られるとは、自分のプライドが取られるようなこと、プライドが傷つけられるようなことかもしれません。

それでも、花嫁の花嫁に対する愛は全く変わりませんでした(5:8)。むしろ、その後の花嫁の花婿に対する思いの告白を見れば分かるようにどんなことがあってもどんどん増し加わっていったのです。

花嫁は主に従いましたが、呼んでも答えがない状況でした。(5:6)

神様は時には、私たちに何かの答え、私たちが求めている答えを言う変わりに、私たちがどのように考えるべきか、花嫁また神の子としての考え方や価値観、アイデンティティーを教えることがあると思います。

花嫁としての考え方、価値観、アイデンティティーがあるから、そのような状況になっても花嫁が持つ花婿なる主への愛、信頼は変わらなかったのです。

花婿である主が私をどう思っているかを聞いて知っているから、花婿である主の私への愛を味わい知っているから、

たとえ主に呼んですぐに答えがなかったとしても、
主に従ったのに自分の想像と違うような結果や状況になっても、
プライドが傷つけられても、
働きや評価がなくなったりしても、
批判や反対を受けても、
人々に傷つけられても、

愛に病んでいる花嫁にはそんなことは全く関係ないことだったのです。


愛に病んでる花嫁には、そんなことは全然平気なのです。
愛に病んでる花嫁には、花嫁しか見えていないから、花嫁を求めてやまないから、
状況的に花嫁の声が聞こえる聞こえない、見える見えない関係ないのです。

「愛に病んでる」とは、そのような言葉だと思います。
状況も、自分の思いも、人の言葉や評価も、すべて関係なくなるほど、主に愛され主を愛していることだけを握っている状態です。


■A:考えてみよう
主は今の私にとって、「愛に病んでいる」とは簡単に言えない言葉であることを知っておられます。

それでも、状況や感情や何にも左右されない主への信頼と、主の愛を握るようになりたい思いがあることも知ってくださっています。

主の愛と主を知ることをまず求めます、主との親密さを心から求め、主の御言葉を聞くことを求め、
どんなことにもどんな状況によっても左右されない、主への信頼と愛とを持つことができますように、私の行動が主とは違う自分の思いに死んだ信仰の行動となり、私の手から没薬がしたたるようになりますようにと、今朝新しく主に求めます。


■P:祈り

私を愛してやまない花嫁なるイエス・キリストの御名によてお祈りします。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月14日(水)のつぶやき

2015年10月15日 01時48分04秒 | キリスト教

◆私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、 goo.gl/qiZdsS


「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、 goo.gl/Q9jtVi


◆この世と調子を合わせてはいけません。 goo.gl/7FvLEp