座間コミニティー

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◆神に愛されている人……。

2015年10月02日 16時55分12秒 | 聖書
(ダニエル一〇・一一)
 
神の子どもよ。この称号をあなた自身に適用することを、あなたはためらうのか。ああ、不信仰のゆえに、あなたはこの上なく神に愛されていることを忘れたのか。あなたが、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によって贖い出されたのは、あなたがこの上なく愛されていたからではなかったのか。神があなたのためにひとり子を打たれたのは、あなたをこの上なく愛されたゆえでなくて何であろう。あなたは罪の中に住み、だらしない勝手なことをしていた。そのあなたを、このように神が忍耐されたのは、あなたを切に愛しておられたからではないか。あなたは恵みによって召され、救い主に導かれ、神の子とせられ、天国の相続人とされた。こうしたすべてのことが、大きなあふれるばかりの愛を証明してはいないか。
その時以来、困難のために行き悩む時も、恵みによって平らにされる時も、あなたの行く道は、あなたが神に愛されているとの証拠に満ちている。主があなたを懲らしめられても、怒られたからではない。主があなたを貧しくさせられても、あなたは恵みにおいて富む者である。自分自身が無価値な者であると感じれば感じるほど、あなたは言語に絶する愛が主イエスを動かして、自分のようなたましいを救ったという証拠をもつ。自分の欠点を感じれば感じるほど、あなたを選び、あなたを召し、あなたを祝福の相続人とされた、あふれるばかりの神の愛が明らかになるであろう。
神と私たちとの間にこのような愛があるならば、私たちはその影響力の下に、そのすばらしさの中に生きようではないか。そしてその立場の特権を用いようではないか。私たちが主に対して未知の者であるような態度で、また主が私たちの訴えを聞くのを望まれないかのように思いつつ、主に近づかないようにしよう。
おお、信者よ。大胆に来れ。サタンのささやきとあなたの心の中の疑いにもかかわらず、あなたはこの上なく愛されているからである。今夜、神の愛のたぐいない偉大さと忠実さを黙想せよ。そして安らかにあなたの床に入れ。
 
 

「あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください。

2015年10月02日 16時54分25秒 | 聖書


それらが私を支配しませんように」(詩篇19:13)

謙遜とは、人に向けて腰を低くすることではない。
腰は低いが、心は幾らでも高慢であり得る。
謙遜とは、主の言葉を言葉通りに受け取る事だ。
高慢とは御言葉を受け入れない事だ。
見せかけの謙遜は御言葉を否定する。
神があなたを愛していると幾ら言われても、いいえ、私みたいな者が愛されるはずがないと、心の中で思っているし、そう信じている。
あなたの罪は主のゆえに、全面的に赦された、無罪放免と聞いても、いいや、そんなはずはない、私は罪ばかり…と思っている。
ましてや義とされて、今や義人と聞くと、絶対にそんな事は無いと、心では受け取らない。
神は必要を満たすと言われても、現状見ると不可能と、思い煩い続ける。
あなたの歩みを導くと言われても、信じないので恐れと不安の暗闇にいる。
単に人前で偉そうにする事が高慢でなく、神とその言葉を信じないことが高慢だ。
それは神を認めない事だ。
又、優越感は人を見下すので、見るからに高慢だと思えるが、劣等感も同じく高慢だ。
神の評価、神の見方を受け入れないで、自分が自分を評価し、決めつけているゆえに。
神の言葉をどう聞いているだろう。自分が納得の行くものは受け入れ、そうでなければ捨てる。
それなら自分を神の上に置いている。
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」今一度御言葉を、神の言葉として受け取ろう。
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神様、神様といいながら思い煩い、御言葉の約束を心から受け取らないのは、高慢からか。
信じて重荷を下ろさない一見、弱腰ふうな高慢を捨てて、心から神様の御手の下にへりくだろう。


今日の聖人の記念日

2015年10月02日 07時37分06秒 | キリスト教

守護の天使

 

 カトリック教会は、昔から聖書に基づいて、神は天使を造られ、一人ひとりを守っていると信じてきた。「あなたには災難もふりかかることがなく天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。」 (詩編 91.10-12)など、聖書に守護の天使のことが記されている。

 また、それぞれの人に守護の天使がいるということは、イエスの教えの中にも見られる。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」(マタイ 18.10)。また、天使はイエスがゲッセマネの園で苦しまれたときに、イエスを力づけた(ルカ22.43)。
 このように天使を人間の保護者にしたことは、神の愛のしるしといえる。


◆敵が倒れる時喜ぶな

2015年10月02日 07時35分55秒 | 聖書

あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。
彼がつまずくとき、
あなたは心から楽しんではならない。(箴言二四17)
 
きのうは、神を信じる人・神を喜び神に従う人は、「七ころび八起き」だというところでした。きょうは、「たとえ、人がつまずき倒れても、けっして喜んだり楽しんだりしてはならない」ということです。私たちの心のどこかに、やはり、そんな気持ちが巣くっているのではないでしょうか。ある高校生に、「高校時代に一番、心の友が得られるのではないのですか」と話しかけたら、「いいえ、とんでもない。ぼくたちはみんなライバルです」と答えました。
私たちも、自分の心を正直にふりかえってみると、夫婦でありながら、配偶者が自分より評判がよいと、それをねたんだり、子どもが自分よりほめられると、ひがんだりするようなところがないでしょうか。キリスト教の牧師でありながら、ほかの牧師が自分より人を集め、成功していると心が晴れない。友人の牧師が、なかなか教会に人を集められないでいると、心の奥底のどこかで優越感を感じる。そのことを楽しんでいる。――人の心というものは、したたかに自分勝手な罪深いものです。
私がつまずき倒れているのを心から悲しみ、憂い、私を救うためにいのちまで投げ出してくださった方がおられます。――その方こそ、私の主、私の救い主キリストであったのです。私がつまずき倒れたのは、九九・九九%まで自業自得というか、自分自身の罪のせいだったと思います。それにもかかわらずキリストは、私が倒れてもつまずいても、それを喜んだり楽しんだりするようなことは少しもされませんでした。私と共に、いいえ、私以上に悲しみ、私が知らない先に、私の罪の身代わりとして十字架にのぼってくださったのです。
 
 

◆あなたがたのために天にたくわえられてある望み……。

2015年10月02日 07時35分03秒 | 聖書
(コロサイ一・五)
 
私たちがキリストにあってもつ将来への希望は、地上における私たちの喜びの要因となり支柱となる。天国を思うことで、私たちの心には力があふれる。私たちの望み得るすべては、天国において約束されているからである。この地上で私たちはうみ疲れている。しかし、あの天国は安息の場所であり、働く者の汗が額に流れることはなく、決して疲れ果てることもない。
「安息」ということばは、天国を覚えさせる。常に私たちは戦場にあり、内には誘惑、外には敵がいる。そしてほとんど平安がない。しかし、天国で私たちは勝利を楽しむ。その時勝利の旗は高くひるがえり、剣はさやに収められ、将軍が「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言うのを聞く。私たちは死別に次ぐ死別の悲哀を味わっている。しかし、私たちは決して死ぬことのない国へ行こうとしている。そこでは墓は全く知られていない。この地上では、私たちは罪のために不断に苦しんでいるが、あの国では、私たちは完全に聖なるものとされる。なぜなら、汚れたものは決してその国へ入ることができないからである。
天国にある畑には毒草は生じない。おお、あなたがたが永遠の流刑にされず、また、永遠にこの荒野に住むことを余儀なくされるのでもなく、まもなく約束の地カナンを受け継ごうとしているとは、なんという喜びであろうか。しかし、将来を夢見て、現在をなおざりにしているとの非難を、決して受けることのないようにしようではないか。将来が現在を聖化し、かつ最も有用なものとするようにしたい。
聖霊の働きによって、天国の希望は徳性を作る最も有力な要素となる。それは喜びに満ちた努力の泉であり、楽しい聖潔の礎石である。この希望をもつ人は、その働きも活発になる。それは主を喜ぶことがその人の力となっているからである。彼は熱烈に誘惑と戦う。そして来世の希望が敵の放つ火矢を撃退するのである。彼は現在の報いをあてにしないで働く。なぜなら、来るべき世に報いを期待しているからである。
 
 

第1歴代誌16章28-36節

2015年10月02日 07時33分53秒 | 聖書


16:28 「国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。
16:29 御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、御前に行け。聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。
16:30 全地よ。主の御前に、おののけ。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。」



 この天と地、すなわち私たちが置かれている環境の宇宙と、私たちが存在しているこの地球は皆、主が造られたものです。

ですから、この創造主であられる主こそ誠の神として礼拝をし、また崇めるべきお方です。

それは単に、主の民であるイスラエルの民のみではなく、全地に存在するすべての民が知るべきことです。

それこそが、人として、また民として最も願わしいことです。

従って、そうした姿勢が全地に及ぶために、主のことを知らされた人々が、それを知らすべきことを知るのです。

主は生きておられる方であり、また主こそすべてのことを支配しておられるお方であることを覚えて、自分のことのみを求めるこの世界の中にあって、まずこの主を知り、主が崇められるようにと、伝えるべきなのです。


ピリピ人への手紙章6,7節(伝道者の書4章)

2015年10月02日 07時31分22秒 | 聖書


★何も思い煩わないで、 あらゆる場合に、 感謝をもってささげる祈りと願いによって、 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、 人のすべての考えにまさる神の平安が、 あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

■O:今日のコラム
昔の歌謡曲で「大丈夫だよという君の言葉が、一番大丈夫じゃない」という歌詞がありました。これはそのとおりだと思います。もちろん、励ましの意味で「大丈夫だよと」と声をかけるのは大切ですが、その「大丈夫」は何に基づいているかということが大切です。
聖書の中では神様は私たちに繰り返し繰り返し「大丈夫だよ」と語りかけて下さいます。これほど心強いものはありません。全知全能の神がそう言われるのですから、これは絶対的です。それでは、なぜ私たちはそのみことばに従順できないのでしょうか。
その一つの原因は今日のみことばの冒頭に書かれていることが原因です。つまり「思い煩い」です。人は思い煩うのが大好きです。数秒間何も考えることがなければ、私たちの脳は思い煩いはじめてしまいます。

あなたがたのうちだれが、 心配したからといって、 自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:27)

そういうわけだから、 何を食べるか、 何を飲むか、 何を着るか、 などと言って心配するのはやめなさい。(マタイ6:31)

だから、 あすのための心配は無用です。 あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に、 十分あります。(マタイ6:34)

あなたがたの思い煩いを、 いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを心配してくださるからです。(1ペテロ5:7)

いくら思い煩っても問題は解決しません。思い煩いは私たちのものではありません。イエス様は十字架にかかって下さった時に、私たちの罪と同時に思い煩いも一切を引き受けて下さいました。だから、思い煩いは私たちが持っていてはいけないものなのです。


■A:考えてみよう
今日、思い煩いを全て十字架のもとに持って行こう。具体的に神様に「私はこういう思い煩いがあります」と告白する祈りをしよう。これは決断です。その正直な祈りに、主は必ず答えてくださり、今までにない平安な心が与えられ、主との安息を得ることが出来ます。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月1日(木)のつぶやき

2015年10月02日 01時49分13秒 | キリスト教