座間コミニティー

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◆ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、

2015年10月25日 17時01分15秒 | 聖書
畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。(ルツ二・三)
 
彼女の運は開けた。しかり、それは偶然のように見えるが、実は神が支配しておられたのである。ルツは母の祝福を受け、母の神の保護のもとで、つつましいが立派な仕事に出かけた。神の摂理はルツを一歩一歩導いた。彼女は麦束の間で夫を見いだし、夫とともに広大な土地の所有者となったが、自分のようなあわれな外国人が、偉大なるメシヤの先祖の一人になろうとは、夢にも思わなかった。
神はご自身に信頼する人々に恵みを与え、しばしば予期しない祝福をもって、彼らを驚かされる。明日何が起こるか、私たちはほとんど知らない。しかし、神が良いものを控えられないというすばらしい事実は、私たちを励ます。クリスチャンの信仰の立場からは、偶然ということは存在しない。彼らはすべてのことにおいて、神の御手を見るからである。今日、明日の小さな出来事が、非常に重大な結果を含んでいるかもしれない。おお、主よ。ルツを扱われたように、あなたのしもべをも深く恵んでください。
今夜、私たちが黙想の畑にさまよう時、最も血縁の近いお方がご自身を私たちに現してくださる場所に行き当たるとすれば、なんという祝福であろう! おお、御霊なる主よ。私たちを主に導いてください。私たちは、他の畑の全収穫をもらうよりも、むしろ主の畑で落ち穂を拾いたい。おお、主の群れの歩みよ。それは主がお住みになる緑の牧場に私たちを導く! イエスがおられない時、この世は耐えがたい。主を失うくらいなら、むしろ太陽や月なしにやってゆくほうがましである。しかし主が臨在される時、すべてが神の栄光に照り輝く。私たちのたましいは、イエスのうちに宿る徳を知る。それゆえ、主がなければ決して満足することができない。
今夜私たちは、イエスのものである畑に行って、私たちにご自身を現されるまで、祈りつつ待ちたい。
 
 

「あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

2015年10月25日 17時00分23秒 | 聖書


神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:7)

今、思い煩いに、押しつぶされそうになっているだろうか。
自分で立ち回って何とかしようとしていないか。
まず思い煩っているという事実が、自分が問題を取り込んでいて、自分でどうにかしようとしている事だ。
それなら、自分に全重荷がおおいかぶさって来る。
そのため思い煩いが起きる。
つまりは、自分の思いや自分の判断、自分の力に頼っている。
そして、自分では到底負いきれないので、どうにも出来ないので、不安でたまらない。
実のところ神を信じられないから、自分が握っている事であり、まず自分の心の内を御霊に照らし出して頂こう。
正直でいよう。
信じれられないなら、信じれられないと正直に自分の状態を認め、神に告げ、助けを仰ごう。
主を脇に追いやり、自分が先に立ってしまって、方策を巡らしていないか。
主を無視する事になる。
主はご自身のみ思いと方法をお持ちだ。
あなたの思いと、しばしば違う。
"わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり"だ。
カナの婚礼で、ぶどう酒が無い事を告げたマリヤに、主は"わたしの時はまだ来ていません"、「心配しなくても大丈夫ですよ、私の時と私の方法があります」と答えられた。
そしてマリヤは、"あの方の言われることを"するようにと、そばの者達に告げた。
私達も、目の前の問題に対して、まず主に「ぶどう酒がありません」と告げ、自分の思う事でなく「主の言われる事を」して行く事だ。
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自分の思い通りの結果しか期待せず、それ以外は受け入れられない。
だからいっさいを神様に委ねられないのだ。
いつまでこの愚を繰り返すのだろう。
全能の神様に少しずつでも明け渡してみよう。


今日の聖人の記念日

2015年10月25日 08時09分03秒 | キリスト教

聖クリスピノと聖クリスピニアーノ

?-287年ごろ

 クリスピノとクリスピニアーノ兄弟は、ローマの貴族の家に生まれ、熱心なキリスト信者であった。キリスト教迫害が始まったとき、全財産を捨ててゴール地方に逃げ、宣教師となり、日用の糧のためには靴職人として働いた。彼らは熱心に宣教し、多くの人がキリスト信者となった。しかし、ローマ皇帝マクシミリアヌスがその地を訪れたとき、クリスピノらに反対する者たちが彼らを訴えたため、2人は捕えられ、拷問にあった。そして2人が決して信仰を捨てないことが分かると、皇帝から斬首の刑を命じられ、殉教した。

 彼らが特にイギリスで敬われるようになったのは、シェイクスピアの著書『ヘンリ5世』の影響によるといわれる。靴製造者、製皮業者の保護の聖人とされている。


◆人の誉れ・神の誉れ

2015年10月25日 08時07分49秒 | 聖書

愚かな者に誉れを与えるのは、
石投げ器に石をゆわえるようだ。 (箴言二六8)
 
イスラエル旅行をしていた時、みやげ物屋さんの店先で石投げ器を売っているのを見つけました。リクエストに答えて店の主人が、ひょいとそこに小石を置いて、ぶーんとふりまわし、はっと手を止めると、勢いよく小石が飛んで目標に当たる、みごとなわざを実演してみせてくれました。石投げ器に石をゆわえつけたら石は飛ばず、役に立たないことがよーく分かりました。
私たちは、ほめられると心がはずみます。子どもでも大人でもそうです。正しく誉れを受け止めていくところに、子どもも大人も、成長があるのではないでしょうか。しかし、ほめられてだめになるのは、ほめられて高慢になる人です。自分の偽りのイメージをほんものと思いこみ、人を見くだし、神がいらなくなる人でしょう。イエスは、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めない」(ヨハネ五44)と嘆かれました。使徒パウロは、「誉れは、人からではなく、神から来る」(ローマ二29)と語りました。
ある人の日記に、「私は、人からほめられると悲しくなります。まだまだ私が、人の誉れを求めているのだと、感じるからです」と書いてあるのを見て、感動した記憶があります。ジョン・ウェスレーは、「先生、きょうの説教はすばらしかった。世界一でした」とほめられた時、「兄弟。サタンも、今ちょうど同じことを、私にささやきました」と答えたそうです。
人からの誉れだけを求める愚かな者でなく、真実に神からの誉れのみを求める人になりたいとお思いになりませんか。
イエス・キリストは、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」(ヨハネ五44)と言われました。
 
 

◆このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。

2015年10月25日 08時07分06秒 | 聖書
そして真理はいつまでも私たちとともにあります。(Ⅱヨハネ二節)
 
ひとたび神の真理が人の心に入り、そのすべてを征服するならば、人の力も悪の力もそれを追い出すことはできない。私たちはそれを客としてではなく、主人として迎える。これはクリスチャンに必然的なことであって、このように信じない者はクリスチャンではない。福音の生きた力を感じ、みことばを聞き、適用し、証印を押される聖霊の力を知る者は、福音から引き離されるよりはむしろ八つ裂きにされることを願う。
真理が永遠に私たちと共にあるとの保証の中には、多くのいつくしみが含まれている。これは私たちの生きる時の支え、死ぬ時の慰め、起きる時の歌、そして私たちの永遠の栄光である。クリスチャンの特権であり、これがなければ私たちの信仰は無価値である。
ある真理は卒業して後ろに残すものである。それは初歩的なもので、初心者に対する教訓なのだから。しかし私たちは、神の真理をこのように扱うことはできない。それは赤ん坊にとっておいしい食物であると同時に、大人にも申し分のない栄養物だからである。私たちが罪人であるという真理は、私たちを謙遜にし、注意深くする。主イエスを信じる者はだれでも救われるとのさらに幸いな真理は、私たちと共にあって希望となり喜びとなる。経験は恵みの教義への把握を弱めるどころか、さらにしっかりと私たちをそれに結びつける。私たちの信仰の基礎と動機はさらに強くなり、さらに数多くなる。臨終の際、主にすがるまでこのようであることを期待するに十分な理由を私たちはもつ。
真理から出るこの永続的な愛が見いだされるところではどこででも、愛の交わりをもたないわけにはいかない。神の恵みによる選びが広いように、私たちの心の交わりも広くならなければならない。受けた真理の中には多くの誤謬が交じっているかもしれない。この誤謬と戦おうではないか。そして神から受けた真理に応じて兄弟を愛そうではないか。ことに、心を傾けて真理を愛し、身をもって真理の伝達に当たりたい。
 
 

第1歴代誌24章1-6節

2015年10月25日 08時05分33秒 | 聖書


24:2 ナダブとアビフはその父に先立って死に、彼らには子どもがなかったので、エルアザルとイタマルが祭司の務めについた。
24:3 ダビデは、エルアザルの子孫のひとりツァドク、およびイタマルの子孫のひとりアヒメレクと協力して、彼らをそれぞれの奉仕に任命し、それぞれの組に分けた。



 ダビデはソロモンのために、神殿を建てるための資材を準備しました。

しかしそれだけではなく、その建てられる神殿での奉仕とそのための奉仕者の組織作りも行いました。

神殿での奉仕が、秩序を持って行われるようにしたのです。

この箇所では、主によって定められた神殿の聖所で奉仕をする、アロンの家系の者達のことを扱っています。

アロンには4名の子供がいましたが、長男と次男は子供を残さずに死亡してしまいました。

従って、当時は残された2名である、エルアザルとイタマルが祭司の務めにつきました。

ダビデは、そのエルアザルとイタマルの子孫を組み分けして、それぞれ祭司としての奉仕につくように、秩序づけをしたのです。




ダニエル書10章12節

2015年10月25日 08時03分34秒 | 聖書


★彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」

■O:今日のコラム
10章においてダニエルは、主の啓示をより深く悟る為に21日間の断食を持って主を待ち望みました。その結果、栄光に満ちた主の使いが彼の所に訪れ、終わりの時の幻を伝えます。

ここで主の使いは、「あなたがへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれている。」とダニエルに伝えます。

私達は祈りの答えを得る事が出来ない時でも、あきらめないで祈り続ける事が大切です。私達が祈りを捧げた初めの時からその祈りは主に聞かれています。しかし、ダニエルの時と同じ様に、その祈りの答えを遅らせる霊的な妨げが働く事は事実です。断食と継続的な祈りは、その霊的な壁を打ち破り、祈りがこの地に実を結ぶ為の道を開く力があります。あきらめないで断食を持って祈り続けましょう。

さらに御使いは、「私が来たのは、あなたのことばのためだ。」と言っています。私達の祈りは天の議会を動かし、御使いがこの地に介入する為の道を開く力があります。別の表現をするなら、私達が祈らなければ御使い達もこの地上で働く事が出来ないのです。

だから私は、祈りの中で主イエスの御名により、力ある御使い達が家庭に、教会に、街に、そしてこの国に天より遣わされて来、その中で自由に働き、御国の栄光を解き放たれる様にと日々祈ります。

私達の祈りと信仰の宣言には、この地に神の国の現実を解き放つ驚くべき力があります。日々、この口を祈りと礼拝の為に捧げましょう。


■A:考えてみよう
今日、置かれた場所で祈りと礼拝を持って神の国をその場所に迎えましょう。主の臨在がもたらされる場所、そこに御国が現されます。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月24日(土)のつぶやき

2015年10月25日 01時48分48秒 | キリスト教