座間コミニティー

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◆南に向かって

2015年10月20日 16時04分40秒 | 聖書
「引き止めるな。」と言う。(イザヤ四三・六)
 
このことばは南に向けられ、イスラエルの子孫に対して語られたものだが、私たち自身への呼びかけと解することは有益である。私たちは生来、すべての良いことにちゅうちょする傾向をもつ。それゆえ、神の道を前進することを学ぶのは、恵みによる教訓である。
友よ。あなたはまだ回心していないが、イエスに信頼することを願うのか。では、とどまっていてはならない。愛があなたを招き、約束があなたの成功を保証し、尊い血があなたの道を備えている。罪にも恐れにもあなたを妨げさせず、そのままでイエスに来れ。主の御前に心を注ぎ出したいか。それなら、とどまっていてはならない。恵みの御座は、そのようなあわれみを必要とする者のために備えられている。罪人の叫びは神の御心を動かす。あなたは招かれている。否、祈ることを命じられている。大胆に恵みの御座に来れ。
愛する友よ。あなたはすでに救われているか。では、主の民と結合されることを拒んではならない。洗礼と聖餐の礼典をないがしろにしてはならない。あなたは内気な性質であるかもしれない。しかし、不従順に陥らないために、内気な性質を克服しなければならない。キリストを告白する者にはすばらしい約束が与えられている。決してそれを逃してはならない。もし才能をもっているならば、それを用いることを控えてはならない。あなたの富を死蔵せず、時を空費してはいけない。あなたの能力をさびつかせたり、あなたの感化力をもち腐れにしてはならない。イエスは出し惜しみをされることはなかった。主にならい、自己否定、自己犠牲において他に先んじるようにせよ。神との親しい交わりをやめてはならない。大胆に契約の祝福をわがものとし、神のいのちにあって前進し、キリストの愛の尊い奥義を祈り求めることをやめてはならない。
愛する友よ。また、自分の冷決、苛酷、疑いによって、他の人の前進を妨げる罪を犯すな。イエスのために自ら前進し、他の人をもそのように励ませ。地獄と迷信と不信仰が前進してくる。おお、十字架の兵士たちよ。とどまるな。
 
 

「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。

2015年10月20日 16時03分40秒 | 聖書


でもおことばどおり、網をおろしましょう」(ルカ5:5)

一晩中漁をして、獲物がなかったペテロに向かって、主は「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
ペテロはそこで答えた「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」。
プロでベテラン漁師であるペテロは、どこに魚がいるか、隅々まで承知だ。
そのペテロが捕れなかったのだ。
この時間帯に魚などいるわけがない。
無駄だと思いつつ「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と実際に網を下ろした。
行動したのだ。すると、いるはずの無い魚がいたのだ。
網が破れそうなほど大漁に驚いた。
ペテロは本心では、捕れるわけないと思っていただろう。
しかし、網を下ろした。
従うとは、主の「おことばどおり」行なう事だ。
自分の思いがどんなに違っていようと、御言葉通りに行なって行くことだ。
又、聖書の言う、愛するとはすべて意志的愛の事だ。
感情ではない。感情なら従う事が不可能だ。
感情は横に置いて、行動して行くこと、それが愛するということだ。
どんなに感情が伴わなくとも、つまり、好きになれなくても、お言葉通りに行動して行く時、それは愛することになる。
自分の思いや感情ではなく、神の御言葉に従うことが大切だ。
自分の思いがどうであれ、今、示されていることに「おことばどおり」従おう。
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自分の判断に間違いはないとの思いこみがご計画を邪魔している。
「おことばどおり」従う時、神様の栄光を拝し、神様の聖さと自分の罪を知る。


今日の聖人の記念日

2015年10月20日 06時51分08秒 | キリスト教

聖ヨハネ(カンチオ)

1390年-1473年

 ヨハネは、ポーランド、クラクフ市の名門の家に生まれ、幼いときから信仰深い両親のもとで育った。クラクフ大学で哲学、神学を学び、司祭に叙階されると、母校の教授となった。彼は、信仰に裏づけられた深い学識をもち、司祭生活の模範を与えようと努める熱心な教育者であり、学生たちに多大な影響を与えた。また、クラクフの街の貧しい人びとのことを常に心にかけ、彼らの友として行った奇跡や施しについては、様々な話が伝えられている。

 ポーランドの保護の聖人として親しまれ、尊敬されている。


◆自分自身のコントロール

2015年10月20日 06時49分34秒 | 聖書

自分の心を制することができない人は、
城壁のない、打ちこわされた町のようだ。(箴言二五28)
 
さてあなたは、自分の心をコントロールできますか。意志の力が強く、自分で自分がうまくコントロールできているように見える人もいます。しかしたいていの場合、より強い欲望が、他の欲望を抑えているにすぎません。
なぜ盗まないか。なぜ暴力をふるわないか。なぜ下品なことば遣いをしないか。なぜ乱暴しないか。――その理由は、人に分かったり、見られたりしたら、恥ずかしいということです。メンツがつぶれて、笑われ、侮辱され、仲間はずれにされることを恐れるからです。人は恥を知る動物として、このみえを張ったりメンツを立てようとする欲望が、他のもっと程度の低い動物的即物的欲望を抑えているのです。しかし、これは結局、みにくいエゴの奴隷的圧制です。そこには、自由も平安も喜びもないでしょう。
しかし聖書は、「神を恐れる」ことを教えます。自分の全体を生かしコントロールしている神を、神として心から尊敬し恐れかしこむ、つまり、神のコントロールの中に身をゆだねる時、清らかな新しい意味の自己コントロールができるでしょう。
さらに聖書は、心の王座に神を迎えるという方面から、このことを教えます。キリストが心の王座に座り、自我が喜んで服従する時、キリストの愛が私の愛となり、キリストの力が私の力になるのです。パウロは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ二20)、「私の中に住みたもうキリスト、これこそ栄光の望みです」(コロサイ一27参照)と言いました。
 
 

◆あらゆる点において成長し、

2015年10月20日 06時48分51秒 | 聖書
かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ四・一五)
 
多くのクリスチャンは霊的成長をせず、何年も同じ状態にとどまっている。進歩の見込みもなく、改善の様子もない。彼らは存在はしているが「あらゆる点において成長し」ようとはしない。しかし、私たちは「初めに苗」が出たのみで満足し、「次に穂」、「次に穂の中に実」を生じないでおられるだろうか。キリストを信じて満足し、「私は安らかです」と言うだけで、自分の中にある満たしをさらに深く経験せずにおられるだろうか。それはあってはならないことである。
私たちはまた、天国の市場の良い商人として、イエスの知識に富むことを切望しないでおられるだろうか。他人のぶどう畑の面倒を見るのも結構であるが、私たち自身の霊的成長と成熟をないがしろにしてはならない。どうして私の心がいつも冬の状態でいられよう。私たちには種蒔きの時が必要である。しかし、春が来て夏が訪れて、収穫の望みがもてるようでなければならない。
もし私たちが恵みの中で成熟することを願うならば、イエスに近く、主の臨在のうちに生き、主のほほえみの日光によって成熟しなければならない。私たちは、主とのすばらしい霊の交わりに入らなければならない。イエスの御顔を遠くから眺めるのではなく、ヨハネのようにイエスに近づいて、自分の頭を主の御胸にもたせかけなければならない。そうすれば、聖潔において、愛において、信仰において、希望において、しかり、すべての尊い賜物において進歩するであろう。
ちょうど太陽がまず山頂に現れ、その光で山頂を輝かせて旅人の目に最も美しい光景を現すように、ある卓越した聖徒たちの上に聖霊の光の輝きを見るのは喜ばしいことである。彼らは霊性において、サウロのようにひときわ高くそびえ、ついに雪をいただくアルプスのようになる。そして、選ばれた者たちの間にあって、彼らはまず義の太陽の光を反射し、主の輝きをすべての人が仰ぎ見るようにさせる。人はこれを見た時に、天におられる父なる神をあがめるのである。
 
 

第1歴代誌22章6-16節

2015年10月20日 06時47分29秒 | 聖書


22:12 「ただ、主があなたに思慮と分別を与えて、あなたをイスラエルの上に任命し、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。
22:13 主がイスラエルについてモーセに命じられたおきてと定めをあなたが守り行うなら、あなたは栄える。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」



 ダビデは息子のソロモンに、神殿を作るための資材の準備が出来たので、主の御手に支えられて、勇気を持って神殿造りに励むようにと勧めています。

困難が多い働きですので、弱気にならず一生懸命主の助けの下で、神殿を作りなさいと語っているのです。

 先には、ダビデは主の御心に反したことを行って主の怒りを買った人ですので、その主の助けを頂けと勧めるのはおこがましいと思われます。

しかし、ダビデ自身も、今、罪を許された者として、新たに主に信頼して歩み出していますので、この主に頼り、主に信頼することが一番大事なことだということを覚えて、息子のソロモンに勧めをしているのです。


ダニエル書1章19~20節(ダニエル書2章)

2015年10月20日 06時45分26秒 | 聖書


★王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。

■O:今日のコラム
ダニエル書はバビロンで活躍するリーダーの話です。これは、現代でいうと世の終わりに大バビロンのシステムの時代の中で、神の栄光を表す、終わりの時代のリーダーのストーリーと言えるでしょう。
 この19~20章で彼らはバビロンの中枢での活躍が始まります。同じように終わりの時代に政治の領域に深く入り込む、神に献身した聖徒たちが日本にも現れることを宣言します!しかし、このリーダーは、この終わりの時代の全ての聖徒とも言えます。彼らがどのように備えられていったかが、ここまでに記されています。
なくてはならない大事なことは、きよさを大切にすることです。ダニエルたちは、まずきよさを求めました。
リーダーとなる者は、今から多くのことを学び、体験し、吸収していくでしょう。しかし、きよさがその土台でなくてはなりません。世の知恵の前に神の知恵を求めなくては、その先で学ぶことも活かされません。神を知らずに知恵を身に着けても、悪賢い者にしかなりません。きよさの土台の上に様々なトレーニングは活きたものになると信じます!彼等もバビロンの言葉、文学を学んだのです。それはトレーニングです。
 きよさというのは、きよく見えるというのとは違います。神に属するものであるということです。だから見えないところにも、神の喜びのために良い行いを求めるようになります。すべてが神のためのものとなることを求めるようになるのです。たとえば、心の領域は、人からは見えません。見た目は良い行いであっても、心は良いとは言えません。しかし、きよさを求める人は、目に見えない心の領域も神の喜びとなることを求めます。 


■A:考えてみよう
きよい心を求めましょう!人に見られるかどうかではなく、神の目に喜ばれる者として歩みましょう!


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月19日(月)のつぶやき

2015年10月20日 01時47分39秒 | キリスト教