座間コミニティー

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◆しかし、御霊によって導かれるなら、

2015年10月09日 16時02分04秒 | 聖書
イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。(マタイ一五・二三)
 
心から求めつつもなお祝福を得ない人は、この物語によって慰めを得るだろう。この女は、救い主に対して大いなる信仰をもっていたが、主はすぐには祝福をお与えにならなかった。与える意図はもっておられたが、しばらく控えておられたのである。
「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。」彼女の祈りはよくなかったのだろうか。否、彼女の祈りほどよい祈りはなかった。では必要に迫られていなかったのか。否、悲嘆にくれるほど必要に迫られていた。彼女は必要を十分に感じていなかったのか。彼女はそれを痛切に感じていた。熱心が足りなかったのか。彼女は実に熱心であった。信仰をもっていなかったのか。彼女の深い信仰はイエスさえも驚かれ、「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と言われたほどである。
信仰が平和をもたらすことは真実であるが、いつでもただちに与えられるとは限らない。信仰の試みを要する理由があり、それが信仰の報いに先立つ。真実の信仰が、隠れた種のようにたましいの中に埋れて、喜びや平和のつぼみを出さず、花も咲かないという状態があるかもしれない。主が沈黙を守られることは、多くの求めているたましいにとって悲痛な試みである。
しかし、さらに耐えがたいのは、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」という厳しい答えである。主の答えを待つ多くの人々はすぐに喜びに会うが、だれでもそうなのではない。ある人々はピリピの看守のように、一瞬のうちにやみから光に移されるが、他の人々は生長の遅い植物のようである。赦しの意識よりも、深い罪の意識があなたに与えられるかもしれない。その時、その痛撃に耐える忍耐が必要である。あわれな心よ。たとえキリストがおまえを打ち、あるいは、あなたに怒りのことばを出されても、主の心の愛を信ぜよ。
 
 

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、

2015年10月09日 16時01分09秒 | 聖書

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:2)

アダムとエバへの誘惑は「神のようになり」だった。
「善悪を知るようになり」知識を得て、神を捨て、自分が神となり意志決定し、判断して生きるというものだ。
それ以前は神に依存して生きていた。
平安で何の心配も思い煩いも無かった。
しかし、人は自分の判断と自分の力で生きて行く事を望み、選択した。
それ以来、神を無視し、自分が神となり、自分が世界の中心となり、自分の力で生きるようになった。
これが罪だ。自分を喜ばせ、自分の満足のため、自分を主張し、自己実現のために生きている。
しかし、ここに真の満足が全く無い。
自分のために得れば得るほど、ますます渇き、ますます求める。
しかし心満たされる事はない。
貪欲は持てば持つほど渇く。
真の満たしは、逆だ。
自分を満足させる事でなく、自分を捨てる事、自分に死ぬ事、自分を与える事にある。
自己を追求するのでなく、自分を捨てる事、自分以外のために、神のため、人のために生きる時に真の満たしが来る。
自分を喜ばせようとする時、喜びが失せ、神を喜ばせようとする時に、自分に喜びが来る。
肉は必ず自己中心だ。
自分の損得で生きる。
行動の基準が損得だ。
損になる事はしない。
しかし御霊に導かれた新しい人は、損になろうと神の御心に生きて行く。
そして本当の愛と喜びを経験する。
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善悪を自分で判断し、自分の思い通りに行く事が成功だとサタンはエバと同じ誘惑を持って来る。
その結果を私達は知っている。
自分を捨てて、主と一緒に行こう。


今日の聖人の記念日

2015年10月09日 07時40分10秒 | キリスト教

聖ディオニジオ司教と同志殉教者

3世紀

 ディオニジオは、イタリアに生まれた。250年ころ、教皇から、ガリア地方宣教のために6人の宣教師とともに派遣された。彼らの熱心な活動によって、その地方の多くの人びとがキリスト教徒となったが、ローマ総督はこのことに憤慨し、ディオニジオと他の2人を捕えて投獄した。彼らは苦しい牢獄生活ののちに斬首された。モンマルトルの「殉教者の丘」は、3人が殉教した所である。彼らを記念して建てられたサン・ドニの修道院の教会堂には多くの人びとが訪れ、巡礼の中心地となっていった。この教会堂は何度か再建され、今日まで残っている。
 ディオニジオは、フランスの保護の聖人の一人とされている。

聖ヨハネ・レオナルディ司祭

1542年-1609年

 ヨハネ・レオナルディは1542年、イタリアのディエチモで生まれ、薬屋で働いていた。その後、司祭になるために勉学をはじめ、1572年司祭に叙階された。彼は病院や刑務所で働く信徒のグループを作り、トリエント公会議で提唱された改革の精神を受けて、教区司祭から成る修道会を設立しようと計画した。

 これに対して政治的な理由から、居住していたルッカから追放されるなど多くの反対に遭うが、1583年に、Clerks Regular of the Mother of God(神の母聖職者会 仮訳)を創立し、トスカーナにあるルッカの司教、グレゴリオ8世によって認可された。また創立の際、聖フィリポ・ネリ(5月26日)やエスコラピオス修道会の創立者である、聖ヨセフ・カラサンス(8月25日)が協力した。

 1595年、修道会は、教皇クレメンス8世によって最終認可され、ヨハネはトスカーナ州のヴァッロンブローザとカンパーニャ州のモンテ・ヴェルジネの修道院改革を教皇から命じられた。

 彼は伝染病患者の看護にしているとき、自らも感染し、10月9日にローマで亡くなった。1938年、教皇ピオ6世によって列聖された。


◆黄 金 の 叱 責

2015年10月09日 07時38分40秒 | 聖書

知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、
金の耳輪、黄金の飾りのようだ。(箴言二五12)
 
ダビデは、自分の武将ウリヤの妻を犯し奪い、それをかくすためにウリヤを激戦地に追いやって殺すというみにくい罪を犯しながら、何食わぬ顔をしていました。そこに、預言者ナタンが来て語りました。「王さま、ある町に二人の人がいました。一人は富んでいる人、一人は貧しい人でした。富んでいる人は非常に多くの羊を持っていたのに、たった一頭の小さな雌の羊を子どものように大事にして、いっしょに生活していた貧しい人から、その羊を奪い、お客さんのごちそうにして出したのです。」ダビデは、「そんな男は、羊を四倍にして償うべきだ。死刑だ」と叫びました。するとナタンはダビデに言いました。「あなたがその男です」(Ⅱサムエル一二1―7参照)。
「あなたがその男です。」このことばは、ダビデの肺腑に突き刺さりました。そして、ダビデは、みごとに心をくだききって悔い改めて神のみ手の中に身を投げ出し、あの輝かしいゆるしと回復の恵みを経験したのです。ダビデは、挫折するどころか大きな恵みの中にひきあげられたのでした。
結果論になるかもしれませんが、「あなたがその男です」とのナタンの直言は、神の栄光を現し、神に栄光を帰しました。一人の男を地獄から救い出したようなものです。ダビデにとって、黄金の飾りにもまさる宝のことばとなりました。
叱ったり意見をしたりすることはむずかしいものです。「直Ⅸは一番槍よりも難し」と昔からいいます。しかしやはり、必要で大切なことです。それは、ひたすら、神を仰ぎ、神の御霊の導きによりたのまなければ、口に出すことができません。祈りに祈った末でなければ、ことばになりません。だからこそ、「知恵のある叱責」と言われているのでしょう。
 
 

◆あなたがたを、

2015年10月09日 07時37分54秒 | 聖書
つまずかないように守ることができ……。(ユダ二四節)
 
ある意味で、天国への道はきわめて安全である。しかし一面、これほど危険な道はない。そこには多くの困難がある。わずか一歩でも誤るならば――恵みがなかったら、私たちはいかにたやすく誤ることであろう――私たちはどん底に落ちる。私たちのうち、ある者が歩まなければならない道は、なんとすべりやすい道であろう。詩篇作者とともに何度、「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった」と叫ばなければならないことだろう。
私たちはなんと弱いことだろう。最も良い道でもすぐによろめき、最も平たんな道でもすぐにつまずく。このように弱いひざでは、よろめく体を支えることはほとんどできない。一本のわらが私たちを倒すかもしれないし、一個の小石でも傷つけることがある。私たちは、震えながら信仰の第一歩を踏み出した子どもにすぎない。天の父はその御腕で私たちを支えてくださる。さもなければ、私たちはすぐに倒れてしまう。
顧みてみよ。どれほど私たちは罪を犯しやすく、好んで危険を求め、自分自身を倒すものであるかを。このことを顧みる時、私たちはこれまでにもまさる喜ばしい思いをもって「私たちをつまずかないように守ることができる方に栄光あれ」と歌うのである。
私たちは自分を押し倒そうとする多くの敵をもっている。道は険しく、私たちは弱い。しかもこれに加えて、敵は私たちを待ち伏せ、ほとんど予期しない時に襲いかかってつまずかせ、また、絶壁から突き落とそうとする。しかし全能の御腕のみが、見えない敵から私たちを守ることができる。主は約束に対して忠実で、私たちをつまずかないように守ってくださるので、私たちは自分の弱さを感じつつも、全く安全であることを確信し、喜びに満たされて言う。
 この世とよみが私に立ち向かう
 しかし私には天の助けがある
 イエスがすべて。主は私のもの
 
 

第1歴代誌19章1-5節

2015年10月09日 07時35分42秒 | 聖書


19:3 アモン人のつかさたちは、ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。この地を調べ、くつがえし、探るために、彼の家来たちがあなたのところに来たのではありませんか。」
19:4 そこでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、彼らのひげをそり落と
し、その衣を半分に切って腰のあたりまでにし、彼らを送り返した。



 ダビデは、アモン人の王ナハシュが死んだことを聞きました。

そこで、王の跡を継いだ息子にお悔やみを言うために、使いを遣わしました。

以前、ダビデがサウロに追われた時に、ナハシュから好意を受けていたからです。

 ところが、アモン人は、その使いを受け入れませんでした。

むしろ、彼らは偵察のためのスパイだと王に告げ、王は結局、使いの人々のひげをそり落とし、服も半分に切って恥をかかせて、ダビデの元に送り返してしまいました。

 信用することは難しいことです。

その人の過去の行為と言葉を見ることも、判断の助けともなりえるのです。


1テサロニケ4章3~8節

2015年10月09日 07時34分01秒 | 聖書


★神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。
  神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

■O:今日のコラム
今日の箇所には、はっきりと主の御心が記されています。それは私達が聖くなることです。

先日イスラエルに行った時に、ウガンダから来ていたジョン・ムリンデ師のメッセージを聞き大きな感銘を受けました。ムリンデ師は今年の2月に倒れ、危篤状態になり、臨死体験をし、天に行きイエス様と出会いました。

主は厳かに「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示録22:11)

と語られ、この終わりの時代に聖さの基準を決して下げてはならない事をムリンデ師に命じられたそうです。

テサロニケの手紙には、再臨の事が明確に記されていますが、その書簡に聖さについての戒めが書いてあるのは偶然ではありません。これが主イエスの再臨を待ち望む者の生き方です。

この世がますます汚れと罪に満ちて行っても、私達はその中でエノクの様に、主に喜ばれ、主を喜ぶ歩みをひたすら続けて行きましょう。主イエスこそが私達の聖さを完成し、全うして下さるお方です。


■A:考えてみよう
今日、悔い改めと主イエスの十字架の血潮を告白し、神の義と聖さを受け取りましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月8日(木)のつぶやき

2015年10月09日 01時47分52秒 | キリスト教