座間コミニティー

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◆どうか、私の主を求め、主に信頼してやまないように。

2015年10月10日 16時48分06秒 | 聖書
あなた自身を主にゆだね、喜び望むことはできなくても、忍耐深くより頼め。
 
わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。(エレミヤ一五・二一)
この約束をされた輝かしい人格に注目せよ。「わたしは……救い出し……助け出す」とある。主ご自身がその民を救い、助け出される。ご自身が、親しく彼らを救われることを誓約しておられる。ご自分の腕でそれをなされるのであり、栄誉を受けられるのである。
ここには、主を助けるために私たちの努力が必要だとは、一言も言われていない。「わたし」のみが、大空の太陽のように十全の輝きを放っている。では、なぜ私たちは自分の力を計算し、血肉に相談をして、自分自身を傷つけているのだろうか。主は私たちの細腕を借りなくても、十分な力をもっておられる。不信仰な思いよ。静まって主が統べ治められることを知れ。
またここには、第二次的な手段や原困については少しもほのめかされていない。主は友人や助け手については、いささかも語っておられない。主は単身で事に当たられ、人の助けの必要をお感じにならない。私たちが周囲の友や親戚をあてにすることは、すべて空しい。彼らは、私たちを助けることができるのに、助けようとしないことがしばしばあり、また助けようとしてもその力がない。
約束は神からのみ来る。だから神を待ち望むことはよい。そのようにする時、私たちの期待は決して裏切られることがない。私たちが恐れる悪人たちはだれなのか。彼らは主によって根絶される。彼らは、むしろあわれむべき者たちである。彼らはより頼むべき神をもたない人にとってのみ、恐ろしい者である。主が味方である時、私たちはだれを恐れよう。私たちが邪悪な者を喜ばせるために罪に陥るならば、驚きあわてることもあろう。しかし、節操を堅く守っているならば、横暴な者たちの怒りも私たちの善によって圧倒されるであろう。大魚がヨナをのんだ時、大魚はヨナを消化することができないことを知った。世が教会をのみこむ時も、世は教会を吐き出すことを喜ぶのである。どれほど火のような試練の中にあっても、私たちは常に忍耐し、自分のたましいを失わないようにしよう。
 
 

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを…

2015年10月10日 16時47分14秒 | 聖書

全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい」(創世記22:2)

アブラハムの信仰の素晴らしさは周知の事実だが、イサクもまた素晴らしい従順を与えられていた。
モリヤの山でイサクを全焼のいけにえとして、献げるようにと言われた時に、アブラハムは神の御声に従い、山へと向かった。
その時にイサクは「火とたきぎは?全焼のいけにえはどこに?」と尋ねた。
アブラハムは、神が備えて下さると答えた。
イサクは状況を察した事だろう。
そのような質問が出来る年齢であり、子供ではないので、拒否も抵抗もできるし、逃げようと思えば逃げる事ができた。
しかし、イサクは自分自身を完全に委ねた。
神の御心とご計画がどのようなものであれ、全面的に身を献げた。
イサクの信仰だ。私達もイサクから学ぶことができる。
今、握り締めているものがあるだろうか。
どうしても手放す事ができないものがあるか。
所有物、人、プラン、自分の思い、自分自身、自分の将来、プライド、目の前の問題…何であろうと、それを手放すことだ。
その時、不安、恐れ、思い煩いが失せ、平安に満たされる。
アブラハムは命よりも大切なイサクを献げた。
イサクは自分自身を献げて、従順に従った。
あなたの思い煩いや不安は、実は大切なものを握り締めているところから来ている。
心を御霊に探って頂き、手放せるよう祈ろう。
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この心配、恐れはどこから来ているのか。
心が乱されるたびに神様の前に聞いて行こう。
手放せないもののために必ず苦しんで行く。
この愚をくりかえさないように。


今日の聖人の記念日

2015年10月10日 07時42分43秒 | キリスト教

聖フランシスコ・ボルジア司祭

1510年-1572年

 フランシスコは、スペインのガンディアの貴族ボルジア家の子孫として生まれ、信仰深く育てられた。国王カルロ5世に仕え、王妃の勧めで彼女の友人と結婚した。カタルニア総督を務めて後、父の後を継いだ。フランシスコは、キリスト者として成長するにつれ、生涯を神にささげたいと修道生活への望みを強くした。1546年に妻が亡くなり、子どもたちも独立して後、彼はイエズス会の創立者である聖イグナチオの指導を受け、イエズス会に入り司祭となった。

 フランシスコはスペインの管区長に任命され、教会の改革に力を尽くした。後に、ローマでイエズス会第3代目の総長となり、会の発展に貢献した。会員をアメリカ、ポーランド、メキシコなどに派遣し、ローマのグレゴリア大学をはじめ各地に多くの学校や寮を創立した。偉大な働きをなしたにもかかわらず、彼は決して高ぶることなく謙遜で、生活は質素だった。フランシスコは、最も活動的な教会人の一人とされている。


◆忠 実 な 使 者

2015年10月10日 07時41分27秒 | 聖書

忠実な使者はこれを遣わす者にとって、
夏の暑い日の冷たい雪のようだ。
彼は主人の心を生き返らせる。   (箴言二五13)
 
今は、どこの家でも電気冷蔵庫があって、自家製の氷を楽しむことができます。しかし徳川時代には、将軍に献上するために半年もの間、地下深い氷室に蓄えておいた氷や雪を、はるばる担いで江戸まで持ってきたのです。その一かたまりの雪や氷が、どれくらい将軍の心を慰めたか、いいえ、生き返らせたかは、想像に余りあります。忠実に神の使命を果たす人は、この夏の雪の一かたまりのように、神の心を慰め、喜ばせ、生き返らせるというのです。
私にとって神は、十六歳の時まで無関係の方でした。私のことなど一向に構ってくれず、高い所で腕組みして、そっぽを向いている方だったのです。しかし、イエス・キリストとその十字架の愛を心に受け入れた時から、私にとって、神がどういうお方かが分かってきました。
第一に、私がまだ罪にまみれており、その罪にまみれていることさえ分からないで神につばきしていた時から、私を愛し、私に目を留め、私を選んでくださったのです(ヨハネ一五16参照)。「私たちが神を愛したのではなく、神がまず私たちを愛してくださったのです」(Ⅰヨハネ四10参照)と、ヨハネは語りました。
第二に、私たちの罪をゆるし、永遠のいのちを与えられた神は、私たちがその救いを受け入れるやいなや、一人一人を神の愛の使者として任命し、遣わしてくださることが、だんだんに分かってきました。私には、神から任された仕事がある。神は、この置かれた場所に私を遣わし、神に代わって、祈り仕え愛させてくださると分かってきた時、私の人生が変わってきたのです。それぞれの持ち場立場でできるかぎり忠実に、遣わされた使命に生きようとする時、神は、想像できないほどに喜んでくださるのではないでしょうか。
 
 

◆傷のない者として……。

2015年10月10日 07時40分36秒 | 聖書
(ユダ二四節)
 
この「傷のない者」という驚くべきことばを深く考えよ。今私たちは、この標準にははるかに及ばない。しかし主の愛の働きは完成まで決してやむことがないから、いつか私たちもそれに達するであろう。民を最後まで守ってくださる救い主は、ついには彼らを「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」として、ご自身に迎えてくださる。救い主の王冠にあるすべての宝石は最上の質のもので、わずかの傷もない。小羊の花嫁に仕える者たちは、すべて汚れない清純なおとめである。
しかしイエスは、どのようにして私たちを完全無欠な者とされるのか。主はご自身の血潮によって私たちの罪を洗いきよめ、きよい天使のように純白なものとされる。また私たちは主の義の衣を着せられる。その義は、それをまとう聖徒たちを全く欠点のない、神の目から見て完全なものとする。私たちは神の目から見てさえ、非の打ち所のない者とされるのである。主の律法は、私たちを責めないだけでなく、私たちの中で高められる。さらに、私たちのうちの聖霊の働きは、完全なわざをする。聖霊は私たちを完全に聖いものとし、私たちのうちの罪を犯そうとする傾向をも皆無にされる。判断力、記憶、意志、すべての力、感情が悪の支配から解放される。私たちは神が聖であるように聖なる者とされ、永遠に神の御前に安住する。聖徒たちは、天国においても均整を保つ。彼らの美しさは、そのために準備された場所にふさわしいであろう。
ああ、永遠のとびらが開かれ、財産を継ぐのにふさわしくされた私たちが、聖徒たちと共に光の中に住む時の喜びはどれほどすばらしいものだろう。罪はなくなり、サタンは閉め出され、誘惑は永久に去り、私たちは神の前に「傷のない者」となる。これこそ真の天国である。私たちは、やがて血で洗われた群れからわき上がる永遠の賛美の歌を、喜び躍りつつ練習しようではないか。そしてダビデの契約の箱の前における歓喜をまねて、御座の前における私たちの喜びの序曲としようではないか。
 
 

第1歴代誌19章6-15節

2015年10月10日 07時39分01秒 | 聖書


19:6 アモン人は、自分たちがダビデの憎しみを買ったのを見て取った。そこでハヌンおよびアモン人は、銀一千タラントを送って、アラム・ナハライムとアラム・マアカとツォバとから戦車と騎兵を雇った。
19:7 彼らは自分たちのもとに、戦車三万二千台とマアカの王とその軍勢を雇った。彼らは出て来て、メデバの前に陣を敷いた。アモン人も、彼らの町々から集まり、いくさに臨もうと出て来た。



 アモン人は、自分たちがダビデが送った使者に侮辱を加えて突き返したことが、ダビデの怒りを買ったということを知りました。

そこで、戦いが起こることを知った王とその配下の者達は、ダビデと戦うために、軍備を増強しました。

アラムとツォバから戦車3万2千台と多くの騎兵を雇って陣営を整え、また自分たちも町々から人を集めて戦いに備えました。

本来必要もなかった戦いに、向かう羽目になってしまったのです。

 争いは、時に相手を信用しないことによって起こることがあります。

ここでのことは、まさにその典型的な例です。


テサロニケ人への手紙 第一3章10節(伝道者の書11章)

2015年10月10日 07時36分20秒 | 聖書


★「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」

■O:今日のコラム
ユダヤ人パウロが、異邦人であるテサロニケの教会の人々へ宛てた手紙の一節です。

私たち異邦人にはユダヤ人の持ち得ない信仰を持っています。
ユダヤ人が「ヤハウェ」と言う御名を呼ぶことすら出来ないほどに、主を怖れているのに対して、
異邦人である私たちは、神の子としての身分が与えられていて、いつでもその御名を慕い、その御名を呼び求めることが出来る、という信仰があります。

彼らがその御顔さえ怖れているのに対して、異邦人は、あっさり御父の膝に飛び乗って、親しい交わりを楽しみます。
御父と交わる特権が子として与えられている、という信仰があります。

それを見て、ユダヤ人たちに聖なる妬みを引き起こさせる、そのような役目が私たちにはあるでしょう。

けれども、その反対も大切なのです。
つまり、ユダヤ人たちの信仰も私たち、異邦人に必要なのです。

前回のデボガイでもシェアさせて頂きましたが、先月イスラエルに行き、メシヤニック・ジュー(イエス様を救い主と信じるユダヤ人)の方から色々な話を聞く機会が与えられ、本当に『目から鱗』という体験しました。
私たち異邦人の知りえない、ユダヤ人文化のゆえに理解できる聖書箇所などがありました。

私たちにとって、「なぜイエス様はこんなことを言われたのだろう」と不思議に思うことや、「ここでパウロは何を言わんとしているのだろうか」と頭を悩ますような箇所があります。
けれども、ユダヤ人には、その文化のゆえに、つまりユダヤ人であるがゆえに、異邦人が頭をひねるような箇所でも、すんなりと分かることが多いのです。

モーセ五書の深い理解、聖書的なユダヤ人の文化、主(ヤハウェ)に対する絶対的な敬いと怖れ…etc
これらは、私たち異邦人が持ち得ないものです。
ユダヤ人の文化をもとにイエス様が話されている…
彼らは、神の話されたその言語で直接、聖書を読むことが出来る…
ユダヤ人の話を聞けば聞くほど、イスラエル人である彼らが羨ましく思えてきたほどです。

主との親しい交わりを持つことを通して、イスラエル人に妬みを起こさせ、私たちの信仰が彼らの信仰の不足を補うことが出来るでしょう。
また、彼らイスラエル人の信仰によって、私たち異邦人の信仰の不足しているところが補なわれる必要があるのです。
彼らに異邦人の信仰をもっと知って欲しいと願いますし、私たちも、ますますユダヤ人たちの信仰を知る機会が与えられますことを願います。


■A:考えてみよう
ユダヤ人に習って、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)も愛して、読み、そこから御父の心を探し求めてみよう。
私たち異邦人の信仰の素晴らしい所は、御父との親しい交わりにあります。
ますます、神の子とされている恵みを受け取り、感謝し、御父を愛していきましょう。


■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月9日(金)のつぶやき

2015年10月10日 01時48分39秒 | キリスト教

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