座間コミニティー

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◆(イエスは)弟子たちの足を洗って……。

2015年10月24日 17時09分20秒 | 聖書
(ヨハネ一三・五)
 
主イエスは、この上なくその民を愛し、今なお日ごとに、彼らの汚れた足を洗うのと似たことをくり返しておられる。主イエスは、彼らの貧弱な活動を受け入れ、その深い悲しみを感じ、その頼りない願いにも耳を傾け、そのすべての咎をお赦しになるのである。主はその民の友であり、主であられるとともに、今なお彼らのしもべであられる。主はその額に大祭司の冠をいただき、胸当てに輝く宝石を飾り、彼らのためにとりなしの荘厳なみわざをなされるのみか、へりくだり、忍耐強く、たらいと手ぬぐいとを携えて、その民の間を行き巡ってくださる。主が日ごとに、私たちの不断の弱さと罪を取り去られる時、このようにされる。
あなたは昨夜ひざまずいた時、悲しそうに、自分の行為の多くが自分の信仰告白にふさわしくなかったことを告白した。そして今夜は、しばらく前に特別な恵みがあなたを愚行と罪から救い出したのに、その同じ愚行と罪に再び陥ったことを新たに嘆かなければならない。しかしイエスは、あなたに対する大いなる忍耐をもっておられる。主はあなたの罪の告白を聞き、「わたしの心だ。きよくなれ」と告げられる。主はあなたに再び血を注がれ、あなたの良心に平安を語りかけ、すべての汚れを取り除かれる。
キリストが罪人を赦し、神の家族に迎え入れたのは、永遠の愛の大いなる行為による。しかし救い主が、不従順な弟子たちがしばしば繰り返す愚行を長い間忍耐されるとは、なんという謙遜だろう。主は、毎日毎晩失敗の多い、しかし愛すべき弟子たちの増大する咎を洗い流しておられる! 反逆の洪水を干上がらせることは、驚くべきことである。しかし、くり返される罪の不断の継続を、どこまでも忍ぶことは、実に神のわざと言えよう。主によって日ごとにきよめられることは、私たちに慰めと平安をもたらす。またその影響は、私たちをさらに注意深くさせ、聖潔への願いを燃やさせる。友よ。そうではないだろうか。
 
 

「神は高ぶる者に敵対し、

2015年10月24日 17時08分28秒 | 聖書

へりくだる者に恵みを与えられるからです」(Ⅰペテロ5:5)

時々、へりくだりと自己卑下を勘違いする。
へりくだりとは自己卑下ではない。
自分の事を、とにかく卑下すればよいのではない。
何でもかんでも卑下すれば、謙遜なのではない。
「ことさらに自己卑下をしようとし…肉の思いによっていたずらに誇り」自己卑下とは肉の誇りであり、実は人を意識した、人へのアピールであり、自分のためであり、根は高ぶりだ。
謙遜を誇ることになってしまう。
単に腰を低くする事ではない。
外側、柔和な物腰で、心では人を馬鹿にし、見下していたりする。
パリサイ人は、祈ることも断食することも、人に施すことも、すべてに人に見せるためであり、自分のためであった。
へりくだりとは、自らの本当の姿を認める事だ。
逃げないで、ふたをしないで、正面から向き合い認めること。
自分の肉の性質、古い生まれつきの性質は、まさにパリサイ人そのものだ。
しかし、主は新しい性質を与えて下さった。
主を喜び、主に従おうとする性質だ。
へりくだりとは、御霊の導きに従うこと、どんな場合にも「はい」と従って行くことだ。
「私を強くして下さる方によって、どんなことでもできるのです」自分にはできないが、御霊の助けによって「どんなことでも」できる。
主を信頼して従って行こう。今、示されている事に「はい」と言おう。
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自分はできません、と尻込みするのは、謙遜に見せかけた肉だ。
神様に従うなら、新しい性質へと力強く導いて下さる。
それだけを信じて、今週も新しい一歩を踏み出そう。


今日の聖人の記念日

2015年10月24日 07時27分01秒 | キリスト教

聖アントニオ・マリア・クラレ司教

1807年-1870年

 クラレは、スペイン、カタロニア地方の織物工の信仰深い家庭に育ち、幼いときから司祭になることを望んでいた。22歳のときに神学校に入り、1835年に司祭となった。その後ローマに行き、一時はイエズス会員になることを決意したが、カタロニアに帰って、説教をしながらスペイン各地を巡った。

 クラレの説教は分かりやすく、多くの人びとを惹きつけ、回心に導いた。また彼は、宣教のためのより効果的方法は何かと研究し、特に字を読めない人にも分かるように印刷物、著作に絵を入れるなどの工夫をし、宣教に力を注いだ。彼の著作は100以上に及び、内容も教義、道徳、修徳のほかに、教育、歴史、音楽、医学など多くの分野に渡った。

 1849年に、クラレは宣教を目的とする「クラレチアン宣教会」を創立し、翌年には、キューバの大司教に任命された。数年間教区の司牧のために熱心に働き、1857年に、スペイン女王の聴罪司祭としてスペインに招かれ、その務めを果たした。また、1869年12月から開かれた第1回バチカン公会議に出席し、教皇の不可謬性について主張するなど、生涯をキリストのためにささげ尽くした。


◆口先だけの真理

2015年10月24日 07時25分49秒 | 聖書

愚かな者が口にする箴言は、
足なえの垂れ下がった足のようだ。  (箴言二六7)
 
皮肉な表現だと思います。口先で、どんなにりっぱな真理のことばを語ったとしても、そのことばを自分の魂に当てはめず、日常の生活に生かそうとしていないなら、その語ることばには力がなく、何の役にも立たないということでしょう。語ることの多い私には、ずしりとこたえることばです。
私の友人で、アルゼンチンで有名な伝道者バンジョニさんが、こんな話をしてくれました。ある無神論者の女子大生と話を始めましたが、バンジョニさんがああ言えば、こう言う。どんなに語っても反発するばかりでした。女子大生の心は石のように硬かったのです。さすがのバンジョニさんも、「話はこれくらいにしましょう」と、議論を打ち切って別れようとしました。その時、ふっと心に押し迫るものを感じて言いました。「私は、あなたのために祈らせてもらいますよ。」すぐ、床の上にひざまずいて祈り始めました。神の愛が彼の心を包み、祈っているうちに、ぽたぽた涙が流れてきたそうです。五分祈ったでしょうか、十分祈ったでしょうか。祈り終えて顔をあげたバンジョニさんの前に、まだ、その女子大生が立っていたそうです。しかも、目にいっぱい涙をためて、こう言いました。「先生、今まで私は、私のために涙を流してくれる人を一人も知りませんでした。先生、私も神さまを信じたいのです。」
口先で語る真理のことばよりも、足で語り、涙で語ることばに力があります。イエス・キリストは、救いの福音・愛のことばを、十字架の血で語ってくださったのです。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント一18)。
 
 

◆主の木々は樹液に満ちています。

2015年10月24日 07時24分54秒 | 聖書
(詩篇一〇四・一六英訳)
 
樹液なくして木は栄えることも存在することもできない。活力はクリスチャンに欠くことのできないものである。そこにいのちがなければならない。――聖霊なる神に注ぎ込まれた生気がなければならない。そうでないと私たちは主の木となることはできない。単なる名ばかりのクリスチャンは死んだものにすぎない。私たちは神のいのちに満たされていなければならない。
このいのちは神秘である。私たちは樹液の循環を理解できない。すなわち、どのような力によって樹液が上り、どのような力でそれが再び下がるかを知ることができない。そのように、私たちのうちにあるいのちも聖なる奥義である。聖霊が人の中に入り、その人のいのちとなることによって新生がもたらされる。そしてこの信者の中にある神のいのちはキリストの肉と血とを食し、神の食物で養われるが、それがどこから来て、またどこへ行くのかはだれにも説明できない。
樹液はいかに神秘であろう。根は地中にはびこり、先端の小さな海綿状組織によって養分をとるが、私たちはその過程を見ることはできない。この作用は暗い地下でなされる。私たちの根は主イエスであり、私たちのいのちは主のうちに隠されている。クリスチャンの生命の根は生命そのものと同様に隠れたものである。
杉の木の中の樹液は長く活気を失わない。クリスチャンにおいても、神のいのちは内にあって常に活気に満ちている。――常に実を結ぶとは限らないが、内部にあって活動している。信者の徳は、その一つ一つが常に動いているのではない。しかし、いのちは内にあって片時たりとも脈を打つことをやめない。彼は常に神のために働いているのではない。しかしその心は常に神によって生きている。
樹液が葉や実において現されるように、真に健全な信者は、その徳をその歩みと日常の会話において表す。もし語るなら、イエスを語らずにはいないだろう。その行動に注意するならば、私たちは彼がイエスと共にいることを知るであろう。内なる樹液がその行動と日常の会話に流れ出ないわけにはいかないからである。
 
 

第1歴代誌23章24-32節

2015年10月24日 07時23分12秒 | 聖書


23:27 これらは、ダビデの最後のことばに従って数えられた二十歳以上のレビ族の数である。
23:28 彼らの役目は、アロンの子らを助け、庭のこと、脇部屋のこと、きよめて聖なるものとすることに関する主の宮の奉仕をし、神の宮で奉仕をすることである。



 先に、ダビデは、今まで幕屋などで働いてきたレビ人の数を数えました。

その時には、30才以上の男子を数えさせました。

その彼らが、実際の幕屋に関わる働きをしたからです。

ところが今度は、20才以上のレビ人の男子も数えさせました。

それはなぜかと言いますと、今までのような幕屋を運ぶという働きはなくなりますが、神殿が出来ると、神殿に関わる働きが飛躍的に増加するからです。

彼らの働きは祭司であるアロンの子孫を助けて、聖所の庭のこと、また脇部屋のことなど、この聖所を聖なるものとして維持するための働きが任されるようになったからです。

これは今の時代でも同じです。

主のための働きが、その働き人を必要とするようになります。

そのために喜んで奉仕をする人々が求められるのです。



ダニエル12章3、10節(同11章)

2015年10月24日 07時21分09秒 | 聖書


★3思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。
10多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。

■O:今日のコラム

神様はこの11章12章を通して、いやダニエル書を通して何を語りたいのでしょう?
なぜ、聖書の中にダニエル書が書かれ、正典として、残っているのでしょう?

ダニエルは神様に愛されている人、と書かれています。
ダニエル書が書かれた理由の一つは、神様が、私たち、終わりの時代に生きる聖徒たちにも、ダニエルのように生きてほしいと願っておられるからだと信じます。

バビロンやペルシャで、その王に仕えていたダニエルのように、私たちも、偶像崇拝に満ちる世の中、時代にあって、多くの場合、神様を知らない人々の間で神のしもべとして生き、仕えています。

神様の御心は、ダニエルが異教の民の影響を受けないように周囲の人々から身を避けて生きることではなく、彼らのただ中で神の優れた霊と知恵に満たされて、星のように輝いて生きることでした。

同様に、神様の御心は、私たちがこの時代から身を避けて、隠遁生活を送ることではなく、むしろ、この時代の中にあって、神様との関係によって、神様がともにいてくださるという事実によって、愛と、聖さ、喜び、平安、神様の義をもって輝くことです。

素晴らしいことは、優秀な人が輝くわけではなく、有能な人が輝くわけでもなく(ダニエルは神の優れた霊により優秀で有能でしたが)、神との関係を持っている人、神の霊を持っている人が輝くということです。ハレルヤ!
ダニエルの中にあった神の霊は、私たちの中にいて下さる同じ聖霊様です!

思慮深い人が輝く、とあります。
思慮深い人とは、ヘブル語の意味を見てみると、慎重な、注意深い、用意周到な、用心深い、分別のある、賢明な人です。(大艱難をくぐり抜ける、ユダヤ人のうちの神を恐れる人のことかもしれませんが、今日は、神を恐れる人、主を愛する聖徒として受け止め、自分たちへの励ましとしたいと思います。)
10節には、そのような人が「悟る」、つまり、見極め、理解を深め、洞察を得、知ることができる、と書いてあります。

今がどのような時代か、自分が置かれているところがどのような場所か、神様はどのようなお方で、自分はどのようなものか、神様の御心は何か、そのことを慎重に、注意深く、見極め、理解し、その中で、どのように生きるべきかを悟る人たちは、暗闇の中で、暗闇に染まることなく、かといって、暗闇から逃げる必要もなく、暗闇の中で、輝くことができる、輝いてほしい、という神様の願いです。

ダニエルは義人であり、おそらく非常な努力をはらって神の聖さを保ち、その結果、神の霊が彼の内にとどまっていたと思います。

しかし、今は恵みの時代です。
私たちが、愚かで、傷があり、ひねくれた罪人であったとしても、イエス様の十字架を信じて、神様に近づくなら、神様は私たちを子として受け入れ、愛を注ぎ、イエス様の血によってきよめ、御言葉に従う恵みをくださって、私たちの魂も癒し、きよめ、聖霊を満たしてくださいます。

そして、私たちも、ダニエルのように、暗い世の中で、星のように、宝石のように、輝くことができるのです。
それは、聖霊によって私たちのうちに住んで下さるまことの世の光、イエス様の命の光のゆえです。

■A:考えてみよう
私は今の悪い時代にの中にあって、目を覚まし、慎重に、注意深く、用意周到に、賢明に、主の御心を悟って生きているだろうか。
内側に与えられている神様の御心、聖霊の油注ぎ、平安、喜び、命の流れに従って、世の光として輝いているだろうか。

エペソ5:14明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」15そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、16機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。17ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

ピリピ2:15それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、16いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

■P:祈り
お父さん
イエス様の十字架の血潮による赦しと聖め、また恵みによって真理に導いてくださる聖霊様を感謝します。
ダニエルの中に、すぐれた霊が宿っていたように、同じ優れた霊、聖なる御霊が私たちのうちに宿ってくださっている恵みを感謝します。
聖霊の助けによって、この時代にあっても、神の義から来る喜びと聖さをもって星のように輝くことができますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


10月23日(金)のつぶやき

2015年10月24日 01時48分09秒 | キリスト教