座間コミニティー

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◆主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので……。

2015年10月03日 17時28分14秒 | 聖書
(ヘブル二・一八)
 
これは広く知られているみことばである。しかし疲れた心にとって、これは甘露のような味わいをもつ。イエスは私と同じように試みられた。あなたはこの真理を幾たびとなく聞いている。あなたはその真理を把握しているか。主は私たちが陥るのと同じ罪に試みられた。イエスを私たち普通の人間から分離して、特別なお方としてはならない。あなたが今通っている道は暗い。しかしイエスは、あなたに先だってそこを通られた。あなたは、今激しい戦いのただ中にある。しかしイエスは、その同じ敵と戦われた。勇気を出そうではないか。キリストはすでに私たちに先だって荷を負われた。その栄光の王の血潮したたる御足跡が、私たちの今歩む道に印されている。
しかしさらにすばらしいことがある。それは、イエスは試みられたが、決して罪を犯されなかったことである。では、私のたましいよ。おまえも罪を犯さなくてよい。イエスは人となられた。一人の人が誘惑に耐えて罪を犯されなかったとすれば、その肢体である私たちも、主の御力によって罪をやめることができるからである。神に召された生活を始めたばかりの人々のうち、誘惑されれば必ず罪に陥ると考えている人がいる。しかしこれは間違っている。誘惑されることは罪ではなく、誘惑に負けることが罪なのである。これは、激しく試みられている人々にとって慰めではないか。
さらに、主イエスが試みを通って輝かしい勝利を得られたことを思い起こすならば、いっそうの励ましとなることだろう。主が勝たれた以上、主に従う者もたしかに勝利を得る。恐れてはいけない。キリストは私たちと共におられ、私たちを守るために武装しておられる。私たちの安全の場所は、救い主の御胸である。私たちは今、さらに近く主に引き寄せられるために試みられているかもしれない。私たちを救い主の愛の港に吹きつける風、愛する医者を求めさせる傷は幸いである。試みの中にある者よ。救い主のみもとに来れ。主は私たちの弱さを思いやり、試練の中にあるすべての者を助けてくださるからである。
 
 

「この戦いは主の戦いだ。

2015年10月03日 17時27分27秒 | 聖書

主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(Ⅰサムエル17:47)

少年ダビデは巨人ゴリアテと戦った。
頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはよろいを着けていた。
足には青銅のすね当て、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。
イスラエルのすべてはこの巨人に恐れ、意気消沈していた。
完全武装した大男に、ダビデはまだ少年であった。
よろいかぶとは慣れていなかったので、返って不便であった。
武器と言えば、石投げと石だけだった。
それで巨人に立ち向かった。
力においては歴然とした差があったが、しかしこれは「主の戦い」であった。
ダビデの無力、弱さのうちに神の力が現される。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」
ダビデは主の戦いを戦い、勝利した。
弱いままで良いと言われ、むしろその弱さの中にこそ神の力が働くと。
私たちも自らの足らなさ、弱さを覚えているだろうか。
自分を見る時、落胆し、とてもじゃないがだめだと諦めるだろう。
しかし、神は私たちの力を、求めておられるのではない。
私には出来ないが、神には出来るという信仰であり、言われた通りに従う従順だ。
弱いままで良い。無力のままで良い。
今、目の前に示されている事があるなら、信仰もって従おう。
主の戦いであり、われわれの手に敵を渡される。
勝利を見、主の栄光を見る。
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小さな石は的確に急所を射て、敵を倒した。
主が戦われたからだ。目の前の大男、難題は主の戦いだ。
必ず勝利を見る。小さく弱いままで、主に従い、主の方法に従おう。
目の前の一歩に従おう。


今日の聖人の記念日

2015年10月03日 06時57分23秒 | キリスト教

聖ジェラルド(ブローニュ)

895年ごろ-959年

 ジェラルドは、フランス、ブルゴーニュの貴族の家に生まれ、軍隊的雰囲気の中で育てられた。ベルギーのナミュール王国に仕えたが、名誉、享楽を求める風潮の中で、ジェラルドは宗教的な生活への招きを感じた。

 918年、王国から使命を受けてフランスに行き、聖デニス修道士が指導する修道生活をかいま見て、自分もその会員になる決心をし、司祭となって、修道院の改革を手伝った。11年後、彼が自分の領地であるブローニュに修道院を創設すると、領民の多くが彼のもとに集まり、そこは他の修道院の良い模範となっていった。ジェラルドの名声がいたるところに広まると、ロレーヌの公爵からギスレイン修道院の改革を任せられた。その修道院が聖ベネディクトの会則に従っていたところから、彼は自分の真の使命を悟り、その後20年間は、ベネディクト会則に従い、18もの修道院を創設し、改革し、導いた。ジェラルドは、神の道具となって修道院の改革のために生涯をささげた人として知られている。


◆むしろよい終わりを

2015年10月03日 06時56分22秒 | 聖書

悪を行なう者に対して腹を立てるな。
悪者に対してねたみを起こすな。
悪い者には良い終わりがなく、
悪者のともしびは消えるから。(箴言二四19―20)
 
ダビデは詩篇三七篇で同じことを言っています。「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ」(詩篇三七1―2)。
まじめに働きもしないで、上役におべんちゃらを言って出世する人、ごまかしや税金逃れなどあらゆる不正をしながら、肥え太っていく人。――そういう人が実際います。だから、しゃくに触るし、ねたましいという気持ちは、よく分かります。
しかし、悪い者の繁栄や不正な者の出世を心からねたむ時は、自分の中に二つの問題があることを認識し、反省しなければなりません。第一は、金もうけや出世を幸福と考える価値観の低さです。第二は、折りがあったら自分も同じことをやってえらくなりたい、もうけてみたいという罪と悪への傾きです。
イザヤは言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ」(イザヤ四〇6―8)。まことに、悪い者にはよい終わりがなく、悪者のともしびは消えるのです。イザヤは、続けて言います。「だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(四〇8)。
横をにらんで悩んだりする必要はありません。神のことばと、神のことばにひたすらによりたのむ者は、永遠に立つのです。「終わりよければすべてよし」ではないでしょうか。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ一〇11)のです。
 
 

◆御使いはみな、仕える霊であって、

2015年10月03日 06時55分30秒 | 聖書
救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。(ヘブル一・一四)
 
天使は、神の聖徒たちのための見えない従者である。彼らは、私たちの足が石に打ち当たることのないように、その手で私たちを支えている。彼らは主に対して忠実であり、したがって主が愛される子らに深い関心をもつ。彼らは下界において放蕩息子が父の家に帰って来るのを喜び、信者が天の王宮に来るのを歓迎する。
昔、天使は神の子たちに現れた。今日、私たちは天使を見ることはできないが、天国はなお開かれており、神の使いたちは救いの相続人たちを訪れるため、仲保者なる方の上に上り下りしている。今なおセラフィムは祭壇の上から取った燃えさかる炭を携え、神に愛される者のくちびるに触れようとして飛びかけっている。もし私たちの目が開かれるとすれば、主のしもべたちの周りに火の馬と戦車を見るであろう。私たちは無数の天使の群れの中におり、彼らは王室の子孫である私たちを見張り、かつ保護しているのである。スペンサーの詩は単なる作り話ではない。
 彼らは絶えず黄金の翼をはり
 空中を飛びめぐり
 翼をもつ従者として
 悪魔と戦う私たちを助ける
きらきら輝く天国の廷臣が、進んで私たちの従者となるとは、選ばれた私たちはなんという位置に高められていることだろう。一点の汚れもない天上にある者と交わるとは、なんとすばらしいことか。私たちを救うために、神の戦車幾千万が待機しているとは、なんと完全に守られていることだろう。これはだれのおかげであろうか。主イエス・キリストを永遠に私たちの慕わしい方としようではないか。主のゆえに、私たちは支配、権威をはるかに超えて天に座する者とされたのである。主の使いは、主を恐れる者を取り巻く陣を張っている。彼は竜を打ち破るミカエルである。
ばんざい。主イエス様! 主の使者であられるあなたの御前に、今朝、あなたの家族は忠誠を誓います。
 
 

第1歴代誌16章37-43節

2015年10月03日 06時53分56秒 | 聖書


16:39 祭司ツァドクと彼の兄弟である祭司たちを、ギブオンの高き所にある主の住まいの前におらせ、
16:40 全焼のいけにえを、朝ごと、夕ごとに、絶えず、また、すべて主のイスラエルに命じた律法に書かれているとおりに、全焼のいけにえの壇上で、主にささげさせた。



 主の契約の箱がダビデの町に運び込まれ、幕屋の中に設置された時、ダビデはそこで行われるべきことを定めました。

まず、毎日その箱の前で奉仕をする人々を決め、さらに犠牲を献げるべき祭司たちを任命して、彼らに主が命じられたとおり、犠牲の供え物を献げるように命じました。

またさらに、主の御名を褒め称える讃美をする人々も定めました。

こうして彼は、この場所で民が秩序を持って主のことを覚え、主を礼拝し、主が崇められるようにしたのです。

 礼拝において、それが民全体の行為としてなされるために、秩序を持って行うようにさせ、また日々民が主を褒め称えることが出来るために、そのことを率先して行うところの人々を立てて、道筋をつけたのです。


コロサイ人への手紙1章6節

2015年10月03日 06時51分20秒 | 聖書


★この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

■O:今日のコラム
コロサイ人の手紙においてパウロは福音の真理を解き明かしています。1章6節では、「その福音の恵みを聞き、それを本当に理解したとき以来、勢いをもって世界中で実を結び広がり続けています。」と言っています。

私達は福音の真理を本当に理解する必要があります。私達はキリストの十字架により罪赦され、天の国籍が与えられた。と同時に、神の子とされ、長子の権を持つ御国の相続者となり、キリストに付く王であり祭司、しみも傷も無いキリストの花嫁とされました。日々、私は自分自身に向かって福音に基づく身分とアイデンティティーを語り、それが自分の思いとなり信仰となる様に教え続けています。

また、私達は天の御国に行く特権を与えられた上に、今この地に神の御国をもたらす権威を受けています。

主イエスの十字架の目的は天と地が一つとされる事でした。パウロはこの奥義を聖徒達が悟る様に切に祈り求めています。

「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」(コロサイ1:9)

コロサイ1章には偉大な福音の奥義が記されています。今日この1章全体を朗読し、黙想し、御霊にあって福音の奥義が私達の内に啓示される事を求めましょう。

■A:考えてみよう
コロサイ1章を読み、祈りましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月2日(金)のつぶやき

2015年10月03日 01時48分16秒 | キリスト教