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◆モーセがクシュ人の女をめとっていた……。

2015年10月06日 17時22分54秒 | 聖書
(民数一二・一)
 
モーセは不思議な選択をしたものである。しかし、それよりもさらに不思議なのは、モーセにまさる偉大なお方の選択である。ゆりのように美しい私たちの主は、どうしようもない罪人と結婚関係を結ばれた。イエスの愛が、あわれな、失われた罪人の上に注がれたということは、天使たちにとって驚くべきことであった。信者の一人一人がイエスの愛の意識に満たされる時、全く価値のない自分にこのような愛が注がれていることに驚嘆するに違いない。私たちは、自分の隠れた罪、不忠実、邪悪を知っている。広大な、しかもねんごろな恵みを思う時、私たちは感謝と賛美に満たされる。
イエスはその愛の根拠を、ご自身の心の中に見いだされたに違いない。主はそれを、私たちのうちに見いだすことができなかった。なぜなら、私たちの中にそのようなものは何もないからである。私たちは回心後においてさえ、恵みが私たちを美しくしたとは言え、まだ真っ黒である。信仰の人ラザフォードが自分について次のように言ったが、それは私たちにもあてはまる。「主と私との関係は、私が病人で、主が私の必要とする医者である。ああ、私はキリストに対していかにしばしば無定見な態度をとったことだろう。主が縛られると私は解き、主が建てられると私は倒した。私はキリストと争うが、主は一日に二十度も私と和らがれる。」
私のたましいの、最も優しく忠実な夫よ。私たちをあなたの御姿のようにさせるいつくしみ深いみわざを続けてください。私たちのような者を傷も汚れもない者として、あなたの御前に立たせてくださるまで。
モーセは、クシュ人の女と結婚したことで非難された。彼も彼の妻もいやな目で見られた。この空しい世が、イエスとその花嫁に反対したからといって(特に罪人たちが回心した時に反対したからといって)、あなたは驚くだろうか。いつもパリサイ人の反対の論拠となったのは、「この人は罪人を受け入れている」ということだった。この非難の種は今でも残っている。
 
 

「…わたしの時はまだ来ていません」

2015年10月06日 17時21分37秒 | 聖書

(ヨハネ2:4)

婚宴の席で、ぶどう酒が無くなった。
当時の披露宴では、ぶどう酒は重要で、途中で無くなるなど、主催者の取り返しのつかない失態となる。
心配し配慮したマリヤが、主に「ぶどう酒がありません」と言った。
主イエスに言えば、何とかなるとの心だったに違いない。
しかし、主はマリヤの言葉によってではなく、御父の御心によって動かれる。
「わたしの時はまだ」との言葉に、しかし「あの方が言われることを、何でもするように」と手伝い達に告げたマリヤは、主が最善をして下さると信じた。
結果的に主は奇跡をされ、上質のぶどう酒を備えて下さった。
信じるとは、主にいっさいを任せることだ。
「時」も主の御手の中だ。しばしば祈りの中でも、早く答えが欲しくて、早く早くと焦る。
時を待てない。待てないので、絶えず不安と思い煩いに襲われる。
いつも欲求不満状態だ。委ねる事ができないところに原因がある。
又、実際に、主の時を待てないで、自分で行動してしまう。
自分が良いと思う事を、自分の思いで、自分の思う時に行動する。
そして失敗してしまう。
アブラハムが約束のイサクを待てないで、イシマエルを生み出したように。
信じるとは委ねること。
自分が委ねられないのは、信じられないからか、心にあるものをはっきりと知ろう。
信じられない事を認める時に、上からの信仰が与えられる。
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委ねるためには、信仰が必要だ。
主が必ず水をぶどう酒にしてくださったように信じて祈っていこう。
信仰によって委ねる時、すでに得たりの確信が与えられる。


◆モーセがクシュ人の女をめとっていた……。

2015年10月06日 15時05分43秒 | 聖書
(民数一二・一)
 
モーセは不思議な選択をしたものである。しかし、それよりもさらに不思議なのは、モーセにまさる偉大なお方の選択である。ゆりのように美しい私たちの主は、どうしようもない罪人と結婚関係を結ばれた。イエスの愛が、あわれな、失われた罪人の上に注がれたということは、天使たちにとって驚くべきことであった。信者の一人一人がイエスの愛の意識に満たされる時、全く価値のない自分にこのような愛が注がれていることに驚嘆するに違いない。私たちは、自分の隠れた罪、不忠実、邪悪を知っている。広大な、しかもねんごろな恵みを思う時、私たちは感謝と賛美に満たされる。
イエスはその愛の根拠を、ご自身の心の中に見いだされたに違いない。主はそれを、私たちのうちに見いだすことができなかった。なぜなら、私たちの中にそのようなものは何もないからである。私たちは回心後においてさえ、恵みが私たちを美しくしたとは言え、まだ真っ黒である。信仰の人ラザフォードが自分について次のように言ったが、それは私たちにもあてはまる。「主と私との関係は、私が病人で、主が私の必要とする医者である。ああ、私はキリストに対していかにしばしば無定見な態度をとったことだろう。主が縛られると私は解き、主が建てられると私は倒した。私はキリストと争うが、主は一日に二十度も私と和らがれる。」
私のたましいの、最も優しく忠実な夫よ。私たちをあなたの御姿のようにさせるいつくしみ深いみわざを続けてください。私たちのような者を傷も汚れもない者として、あなたの御前に立たせてくださるまで。
モーセは、クシュ人の女と結婚したことで非難された。彼も彼の妻もいやな目で見られた。この空しい世が、イエスとその花嫁に反対したからといって(特に罪人たちが回心した時に反対したからといって)、あなたは驚くだろうか。いつもパリサイ人の反対の論拠となったのは、「この人は罪人を受け入れている」ということだった。この非難の種は今でも残っている。
 
 

「ケリテ川のほとりに身を隠せ…

2015年10月06日 15時04分22秒 | 聖書

わたしは烏にそこであなたを養うように命じた」(Ⅰ列王17:4)

カルメル山でのバアルとの壮大な闘いの前に、主はエリヤをケリテ川に退かせられた。
「ケリテ川のほとりに身を隠せ」、人のいない隠れた場所で、充分な主と交わり、霊的養い、備え、整えを与えるためであった。
密室での交わりが、まさに働きのため、又、信仰生活のための原動力だ。
植物は根が下に強く張っていないと、上に伸びない。
人に隠れた密室での交わりはその根だ。
色々な人が証しをしている。早朝から深夜まで多忙で仕事に追われていた中で、倒れてしまい、又、病気になり入院の事態に。
最初はガックリ来て落ち込んだが、常に後回しにしていた、主との幸いな交わりの時とされ、神に立ち返れたと。
休養が必要となり、寝床で天井を見ている間に、一番大切なものは何なのか、人生このままで良いのかと、立ち止まる時とされ、狂っていた優先順位を正される時とされた。
時にケリテ川が与えられる。
病気のケリテ川や、受験が不合格のケリテ川、失望落胆のケリテ川、失敗のケリテ川、別れのケリテ川、悲しみや寂しさ、痛みの中で静かに主と交わろう。
心を主に向けて、御声を聞こう。
主はそこで霊の養いを下さり、前進するための新しい力を下さる。
又、忙し過ぎるなら、しばし身を隠して主と交わろう。
平安と喜びが戻る。
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主に心を向ける時、主は語りかけて下さる。
あらゆるこの世の喧噪から離れて、主の御前に心を開き、静かに主と交わろう。
息吹き返す、幸いな時として下さる。


今日の聖人の記念日

2015年10月06日 07時03分39秒 | キリスト教

 聖ブルーノ司祭

1030年ごろ-1101年

 ブルーノは、ドイツ、ケルンの貴族の家に生まれた。レンスの大学で学び、1055年に司教座聖堂参事会員になり、神学の教授を務め、また教区の教育顧問に任命された。1075年にレンスの大司教マナセから教区の秘書局長に選ばれたが、マナセが大司教の地位を金で買収していたことを知り、それを告発したため免職された。しかし教皇はマナセを破門し、後任の司教としてブルーノに要請した。彼はこれを断わり、1084年6人の同志とともに、シャルトルーズという地で、祈りと労働による非常に厳しい生活を始めた。これがシャルトルーズ会(カルトゥジオ会)の始まりである。彼らは、清貧、祈祷、労働、学問を基礎とした修道生活を送った。

 その後ブルーノは、グルノーブルの司教フーゴから支援を受け、また、かつての教え子であった教皇ウルバヌス2世から顧問として招かれてローマに行ったが、ドイツ皇帝ハインリッヒ4世に追われ、教皇とともに南イタリアに逃れた。カラブリアの荒野のラ・トレに第2の修道院を作り、そこで厳しい生活を始め、そこからシャルトルーズの仲間たちに手紙を送り励ました。

 シャルトルーズ会は、1688年に教皇より正式に認可され、聖人や学者を輩出した。


◆かなかすを除け

2015年10月06日 07時02分35秒 | 聖書

銀から、かなかすを除け。
そうすれば、練られて良い器ができる。(箴言二五4)
 
政界浄化が叫ばれて久しいのですが、まことに、銀から「かなかす」を取り除かなければなりません。しかし、政界といわず、私たちの心からもかなかすが取り除かれるべきではないでしょうか。
昔まだ、栃木県の足尾銅山が盛業中のころ、精練所の見学に行きました。純粋な銅・銀・金が取り出されるまでのプロセスに、目を見張りました。まず最初に、大きな鉱石がクラッシャーで粉々にくだかれて、小麦粉のようにまでなってしまいます。次に、その粉を油の中に入れ、油のあわの上に役に立つ原料だけを乗せて集めます。かきまわされて、かすは沈み、原料だけがすくいとられます。そして最後に、何千度という熱でとかし、かなかすを取り除き、純銅・純銀・純金が取り出されるのです。
私は、クリスチャンとして四十年の人生をふりかえる時、数えきれない神の恵みに驚きます。私は真実でなかったのに、神はいつも真実であられたことが、打ち消せない一つの事実です。
もう一つのぬぐいきれない事実があります。もし私が、恵みから恵みへ、祝福から祝福へとひきあげられてきたとしたら、それは、私が何かよいことを成し遂げたとか、すばらしい努力をしたからなのでは、けっしてありません。いつも私が心から悔い改め、心をくだききって神のみ手に陥ったと申しますか、神に従ったことによるのです。
神の求めたもう供え物は、まさしく悔いしくだけし魂なのです。神はそのような魂を愛され、神の恵みを持ち運ぶ、きよい器として、つくりあげられるのではないでしょうか。
 
 

◆わたしが与える水を飲む者はだれでも、

2015年10月06日 07時01分50秒 | 聖書
決して渇くことがありません。(ヨハネ四・一四)
 
イエスを信じる者は、現在自分を満足させ、かつ永遠に満足させるものを主イエスの中に見いだす。その信仰の中に、自分を満足させ、幸福にさせる喜びの泉と慰めの源を見いだしている。だから、信者を牢獄に入れてみよ。彼はそこでも良い友を見いだすであろう。信者を不毛の荒野に置いてみよ。彼はそこで天来のパンを食するであろう。また信者から友情を奪ってみよ。彼は「兄弟よりも親密な者」に出会うであろう。信者のこの世にある希望の基礎をくつがえしてみよ。彼はなお主に信頼し、動揺することはないであろう。
人の心は、イエスが入ってくださるまでは、よみのように飽くことを知らない。しかしイエスが来られるなら、杯は満ちあふれる。信者にとってキリストのみがすベてのすべてとなるほど、キリストの中には満ち足りたものがある。真の聖徒はすべてを備えておられるイエスに満足しきっており、その生きた泉からさらに多くを飲みたいという以外には願望をもたない。信者よ。あなたはこの意味において渇くのである。それは苦痛を伴う渇きではなく、愛着から来るものである。あなたはイエスの愛をさらに十分に楽しもうとしてあえぎ求めることが、非常に甘美なものであることを見いだすであろう。
昔の人は言った。「私は手おけを頻繁に井戸に下ろして水を汲んでいた。しかし今、イエスに対する私の渇きは飽くことを知らないようになり、井戸そのものにくちびるをつけて直接飲みたいと思っている」と。信者よ。これが今のあなたの思いであろうか。すべての願望がイエスにおいて満たされ、イエスをさらに知り、イエスとさらに親しく交わりたいと願うほかに何も願わないか。それなら、絶えず水源に来て、価なくしていのちの水を飲め。イエスは決してあなたがいのちの水を飲みすぎるとは思われない。むしろ、いつでもあなたを歓迎し、「飲め。愛する人たちよ。大いに飲め」と言われるのである。
 
 

第1歴代誌18章1-8節

2015年10月06日 07時00分32秒 | 聖書


18:3 ダビデは、ツォバの王ハダデエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を確保しようと出て来たとき、ハマテに出て、彼を打った。
18:4 ダビデは、彼から戦車一千、騎兵七千、歩兵二万を取った。ダビデは、その戦車全部の馬の足の筋を切った。ただし、戦車の馬百頭を残した。



 ここでは、ダビデが、対外的に強い軍事的な力を持つようになっていった事実を語っています。

初めに語っているのは、国の西側に位置したペリシテ人に対する勝利です。

彼らは、主の民に対する敵対者でありましたが、その敵を打ち破ったことが語られています。

また、国の東側に位置したモアブの民を打ったことが告げられています。

さらに、この箇所では、北の方の国に対しての勝利を告げています。

それは、ツォバの王ハダデエゼルに対する勝利でした。

ツォバというのは、シリヤの一部の国ですが、その王が非常な力を持っていて、アッシリヤの勢力を脅かすほどのものでした。

その軍勢を、ダビデはハマテで打ち負かしたことを語っているのです。


伝道者の書 9:1

2015年10月06日 06時57分35秒 | 聖書


★というのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。彼らの前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。

テサロニケ人への手紙 第一1:4
★神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!10月6日の朝です。今日1日も、主に期待して、主の御手の中で、自分が主に愛されている者だということを確かめていきましょう。聖霊様が僕らの本来の姿を教えてくださるからです。

僕らは、神様に愛されています。イエス様がいのちをかけるほどに、愛されています。天のお父さんが熱烈に愛している聖霊様を僕らの内側に住まわせてくださるほどに、主に愛されているのです。三位一体の主が、天の全ての祝福を通して祝福を注いでくださっています。

しかし、僕らの毎日の生活には苦しみがあります。労苦があります。これが、神様からの愛なのか、憎しみなのか、わからなくなる時があります。だから、いつも、どんな時でも、主の御手の中にあることを確かめ、宣言し、聖霊様から教えて頂きましょう。

今、どんな状況の中でも、すべては主の御手の中です。その中で、僕らは、主イエス・キリストへの望みの忍耐を、主の恵みと平安によって受け取っていくことができます。

すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。(伝道者の書8:17)

しかし、
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
ともすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイの福音書7:7,11後半)

僕らは、神様から愛されている者です。感謝です。神様に選ばれた者です。感謝です。すべてに感謝です。感謝できない状況も感謝です。自分の力ではなく、主の御手の中にあることを確めることができるからです。

今日1日も、あらゆる時に、主に愛されていることを感謝して、賛美していきましょう。


■A:考えてみよう
主の御手の中で生きていることを感謝しましょう。主の御手の中にあることを確めていきましょう。
イエス様を待ち望みましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月5日(月)のつぶやき

2015年10月06日 01時47分57秒 | キリスト教