座間コミニティー

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◆このわたしは荒野で、

2015年10月31日 19時09分20秒 | 聖書
かわいた地で、あなたを知っていた。(ホセア一三・五)
 
しかり、主よ。あなたは私が堕落していた時の様を知っておられました。その時でさえ、あなたは私をあなたのものとして選ばれました。私が汚れ、自分自身を嫌悪するほかなかった時、子どもとして私を受け入れ、私の燃えるような心の要求を満たされました。この自由な、豊かな、あふれるばかりのあわれみよ。このために私はとこしえにあなたの御名をたたえます。
その後も私の内なる経験は、しばしば荒野でした。しかし、なお私を愛する者として所有され、愛と恵みの流れを注いで私を喜ばせ、実り多い者とされました。ああ、外の環境が最悪であり、私がかんばつの地にさまよい出た時にも、あなたの楽しいご臨在は私を慰めました。嘲笑が私を待っていた時、人々はそれを知りませんでしたが、あなたのみ、逆境の中にいる私のたましいを知っておられました。なぜなら、どのような苦難もあなたの愛の輝きを曇らせることはないからです。いと高き恵み深き主よ。試みの中にあった時、いつも誠実であられたあなたをほめたたえます。そして、私はあなたの柔和と愛に一切を負っているのに、あなたを忘れ、心に高ぶりを覚えていたことを嘆き悲しみます。主よ。あなたのしもべをあわれんでください。
私のたましいよ。おまえが卑しかった時、このようにイエスがおまえを顧みられたとすれば、繁栄している今も、主ご自身とそのみこころの支配下にあることを確信せよ。世の成功によって高慢になり、真理を恥じ、属する教会を恥じてはならない。主に従って荒野に行け。迫害の火の手が燃え上がっている時にも、主と共に十字架を負え。おまえが貧乏と恥辱の中にあった時も、主はおまえをご自身のものとして所有された。決して主を恥じて主にそむいてはならない。おお、私の愛する方を恥じるとは、思うだけでも恥辱である。イエス様。私のたましいはあなたにすがります。
 最も輝かしく、麗しき主よ
 私のたましいはあなたにすがります
 心労の夜にも、また光の昼にも
 
 

「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、

2015年10月31日 19時08分34秒 | 聖書

あなたがたに必要なものを知っておられる」(マタイ6:8)

偶像を見つつ育って来た日本人は、くどくどと唱え、量を多く祈れば答えられると勘違いする。
数珠を繰りながら唱えたり、とにかく毎日時間をかけて祈る姿を見聞きするので、熱心にさえ祈るなら聞かれるというのが、潜在意識にあったりする。
そして、神よ、ああして、こうして、あっちへ行って、こっちへ来て式の指図の祈りをする。
願いが聞かれないなら神を捨ててしまう。そんな神は要らないのだ。
欲しいのは自分に都合のよい神だ。
都合の良い願いを聞いて欲しい。
つまりは、自分に都合良く人生が回って欲しい。
人生途上で神に出会ったクリスチャンも、長年培われた価値観が潜んでいて、あくまでも自分のために神があり、祈りですら神を利用する。
ところが、祈る先に必要をご存じの神だ。
祈りは何のためか。あたかも神が状況に無知かのように、くどくどと説明する必要はない。
すでにご存じとは、何と感謝で嬉しい事だろう。
熱心に祈って、祈りを手段として、祝福をもぎ取るのではない。
あなたよりも、本当のあなたをご存じの神が目の前におられ、その方は御子を殺すほどに愛して下さったお方だ。
親は子が心配する前に、必要を心配し整える。
私達は自分にとって何が本当に必要で、良いのかがわかっていない。
それを教えてくれるのが祈りだ。
祈りの中で自分が変えられ、真の必要がわかり、それを求めて行く。
お願いする先に必要をご存じ、「だから、祈りなさい」だ。
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いま自分に本当に必要なものは何だろうかと素直に聞く祈りをして行こう。
必要をご存じの神様の前に、まずありのままを認める態度で祈って行かなければ、大切なものは何も受け取っていないのではないだろうか。


今日の聖人の記念日

2015年10月31日 07時57分17秒 | キリスト教

聖ウォルフガング司教

920年-994年

 ウォルフガングは、ドイツ南部スウェーベンの貴族の家に生まれた。少年時代はベネディクト会修道院で学び、ヴュルツブルクの神学校に入り、司祭となった。956年に、友人のヘンリーがトリーアの大司教に任命されると、その教区の神学校校長に招かれた。ヘンリーが964年に亡くなると、スイスのアインジーデルンで隠修士となり、ハンガリーへ宣教に行った。しかし972年に皇帝オットー2世からレーゲンスブルクの司教に任命され、司祭や修道士の生活を指導する一方、皇帝のよき相談相手となった。彼自身は質素で厳しい生活を続け、貧しい人びとや病人の援助に力を尽くした。
 レーゲンスブルクの守護の聖人とされている。


◆人をのろわば穴二つ

2015年10月31日 07時56分15秒 | 聖書

穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、
石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(箴言二六27)
 
小さい時、私たちはよく落とし穴を掘って遊びました。原っぱに穴を掘り、その上を木の枝や草でおおって擬装し、人が落ちるのを楽しみにしていたものです。でも次の日に、自分のしかけた落とし穴を忘れて、自分で落ちてしまったということなども、確かあったようです。こんなことは遊びです。しかし、「人をのろわば穴二つ。」――これは、深刻な現実です。
聖書の中に、いくつか顕著な実例があります。ハマンという高官は、憎いユダヤ人のモルデカイを王にざん言し、彼をはりつけにするために、柱を立てておきました。しかし、そのハマンの悪だくみが王妃エステルによってあばかれた時、ハマンは、自分が立てたはりつけ柱にかけられてしまいました。エステル記に出ていることです(五―七章参照)。
ユダヤ人の預言者ダニエルを憎み、彼を落とし入れようとした大臣たちは、ダニエルを投げこもうと計画した獅子の穴に、自分たちが投げこまれる破目になってしまいました。旧約聖書ダニエル書に書かれています(六章参照)。のろいや悪だくみは、必ず、自分自身へののろい・わざわいとなって返ってきます。
そして愛もまた、必ず、勝利と祝福を持って返ってくるのではないでしょうか。聖書は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。……いつまでも残るものは……愛です」(Ⅰコリント一三4―813)。
 
 

◆ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

2015年10月31日 07時55分29秒 | 聖書
(詩篇五一・一〇)
 
信仰後退者が、もしその内にわずかでも残りの火をとどめているならば、回復を求めてうめくであろう。彼が再び新たにされるには、回心と同様の恵みの働きが必要である。私たちは回心の時、悔い改めが必要であった。今もたしかに悔い改めが必要である。私たちは最初キリストのもとに来るため、信仰を求めた。今もこれと同じ恵みのみが私たちをイエスのもとに行かせる。私たちはその時、私たちの恐れに終止符を打つため、いと高き方のみことば、愛する者のくちびるより出るみことばを必要とした。私たちは現在罪の意識の下にある時、なおそれを要することを発見するだろう。だれでも、初めに感じたような聖霊の力の真の顕現がなければ、新たにされることは不可能である。なぜなら、それは難事業であり、血肉は今も変わることなく行く手をふさいでいるからである。
クリスチャンよ。あなたの弱いことを、神に熱心に助けを求める理由とせよ。ダビデが自らの無力を感じた時、手をこまねくことなく、くちびるを閉じることなく、恵みの座に駆けつけて、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ったことを覚えよ。あなたが一人では何事もなし得ないという教えを、怠惰の理由とせず、イスラエルの保護者に熱心に駆けつける理由とせよ。あなたが命をかけて「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に嘆願する恵みを得られるように。神に向かって真剣にこのように祈る者は、神の働かれる手段を用いることによって、自分が誠実であることを証明するであろう。
多く祈れ。神のみことばに生きよ。あなたから主を追い出した肉欲を殺せ。罪が再び頭をもたげないように警戒せよ。主はご自身の定められた方法を用意される。道のかたわらに座せ。主がお通りになる時、あなたは備えができていよう。あなたの恵みを養い育てる信仰の務めを続けよ。そして、すべての力が主から来なければならないことを知り、「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と叫ぶことをやめるな。
 
 

第1歴代誌26章1-11節

2015年10月31日 07時54分00秒 | 聖書


26:1 門衛の組分け。コラ人ではアサフ族のコレの子メシェレムヤ。
26:2 メシェレムヤには子どもがあった。長男ゼカリヤ、次男エディアエル、三男ゼバデヤ、四男ヤテニエル、
26:3 五男エラム、六男ヨハナン、 七男エルエホエナイ。



 神殿の門の所で守衛の働きをする、レビ人達のことが語られています。

コラ族とメラリ族の子孫があたりました。

 ここでは特に、コラ族のことが語られています。

その部族から出たアサフ族のコレの子メシェレムヤには、男の子が7人もいたと書かれています。

これは神様からの祝福でした。

これらの人々が、門番の働きについたのです。

しかし、なぜここで男の子の多い人のことがここで記されているのでしょう。

それは、彼らがコラ族に属していて、その子孫であったということに係わりがあります。

先祖のコラという人は、モーセが指導者として立っていることに文句を言って逆らった結果、神さまによって裁かれた人達の代表です。

その子孫がここに残されています。

神の憐れみを、ここで告げているのです。


ヘブル人への手紙6章10~12節

2015年10月31日 07時52分07秒 | 聖書


★神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。

■O:今日のコラム
いつの日か私達が天の御国の門をくぐる時、そこで主と顔と顔を合わせて出会う事となります。その時に主が私達に問われるのは、私達がどれだけ大きな働きをし、有名であり、成功したか?では無く、どれだけ愛に生きたか?と言う事です。

私達が心から主を愛し、そして主を愛するが故に人々を愛する事。ヘブル書6:10には

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

と記されています。主は私達の愛による行いを決して忘れる事がありません。時には愛を実行するには犠牲と決断が必要です。自分の利益を求め無いで仕える事、自分を傷付けた人々を赦し祝福する事、意見の違う人々を受け入れる事など。自分の生まれながらの性質によっては簡単に出来る事ではありません。

しかし、私達が天の相続を思う時、たとえこの地で小さな者と思われても、人目に大きく評価される事が無くても、一時的に損をする事があっても、喜びを持って大胆に主の為に我が身を捧げて生きる事が出来ます。

私達は神の御国の相続者として胸を張って、日々、主に御心を行い生きようではありませんか。

■A:考えてみよう
御言葉を通して御国の相続者としてのアイデンティティーを日々確立しましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月30日(金)のつぶやき

2015年10月31日 01時48分53秒 | キリスト教