座間コミニティー

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◆イエスは言われた。

2014年09月23日 16時08分16秒 | 聖書

「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ九・二三)

ある人の息子が悪霊につかれていた。その父は、弟子たちが息子をいやすことができないのを見て、キリストに対してもほとんど、あるいは全く信仰をもっていなかった。だから、イエスが子どもを連れて来るように命じられた時、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言った。あわれな震えおののく父は、この「もし」ということばの置き場所を間違えた。そしてイエス・キリストは、「もし」を取り消すことをお命じにはならず、正しい場所に置かれた。イエスはこのように言おうとしておられたようである。「わたしの力、またはわたしが喜んでなすことに関して『もし』はいりません。『もし』は別な所につけるのです。もしあなたが信じることができるならば、信じる者には、どんなことでもできるのです」と。父親の信頼は強められた。彼はへりくだって、不信仰な私をお助けくださいと祈った。イエスがただちにことばをかけられると、汚れた霊は追い出され、イエスは二度と入るなと命じられた。
ここに私たちの学ぶべき教えがある。私たちはこの父親のように、常に「もし」を誤った場所において失敗をくり返す。もしイエスが私を助けられるなら、もし誘惑に勝つ恵みを与えられるなら、もし私に赦しを与えられるなら、もし私を成功させられるなら、と。しかし、もしあなたが信じることができるならば、主はなすことがおできになるのであり、むしろ、なすことを願っておられるのである。あなたは「もし」を間違った場所に置いている。あなたが大胆に信頼することさえできるなら、すべてがキリストにとって可能であるように、あなたにとってすべてが可能なのである。
信仰は神の力の中に立ち、神の尊厳をまとう。王の衣をまとい、王の馬に乗る。それは王があがめられることを喜ぶ恵みだからだ。すべてをなしてくださる聖霊の栄光に取り巻かれつつ、それは神の全能にあって大いなることをなし、勇敢に立ち向かい、力強く耐える。信じる者はすべてを無制限にすることができる。

 


「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、

2014年09月23日 16時06分16秒 | 聖書

私を義の道に導かれます」(詩篇23:3)

誰しも慌ただしい忙しい毎日のことだろう。
1日の予定はビッシリで、為すべきことは山積、幾らやってもきりがないほどだ。
しかし、そんな中で、日ごとに、静まる時を持つ事は極めて大切だ。
日々生活に追われているが、静まって御言葉を前にし思いを巡らすことだ。
自分は御言葉に従って生きているだろうか、御言葉からそれていないか、心に罪は無いか、御霊に導かれてよく探ってみることは必要だ。
神を意識する時を、自らの状態を振り返る時を、持たない限り、どこまでも流されていて気づかない。
神の御心にそれているなら、それは罪だ。
罪を放ったままにしておくと、必ず苦しみと悲惨を刈り取る事になる。
今のこの時、神を見上げ、神を意識しよう。
御子を賜うほどに愛して下さっているその愛を覚えよう。
神の前に罪を清算しないまま、喜びと平安を失い、重い暗い心で歩んでいないか。
失望で沈んでいないか。生涯赦されて赦されて歩む歩みが信仰生活だ。
「ごめんなさい」は大きな平安と喜びを回復させる。
ちょっとストップして、神の前に静まろう。
神の霊に触れて心が必ず新たにされる。
喜びが返って来る。
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羊飼いがおられる。
それを忘れて羊が自分で何もかもしようとして迷子になる。
羊飼いがすべての必要を備えて導いて下さる。
羊飼いにただついて行けばよい安堵の歩みだ。


今日の聖人の記念日

2014年09月23日 08時07分46秒 | キリスト教

聖テクラおとめ

1世紀

 テクラは、小アジア(トルコ)のイコニオンの裕福な家に生まれた。いろいろな学問を勉強し、18歳のときには婚約していた。そのころ、この町を宣教のため訪れた聖パウロの説教を聞き、そのすばらしさに感動したテクラは、キリストの愛の深さを知り、すべてをささげようと、婚約を破棄することを決めた。そのため婚約者がパウロを訴えたので、パウロは追放され、テクラは処刑されることとなった。しかし彼女は奇跡的に救われ、パウロに従ってその宣教に協力し、各地を転々としてアンチオキアに行った。この町でもある役人から結婚を申し込まれたが、拒否したために再び訴えられ、処刑されることになった。しかし神から守られているのを証明するかのように、どんなにテクラを処刑しようとしても失敗に終わった。そのため民衆も、彼女の命を助けてくれるように総督に嘆願し、晴れて自由の身となった。その後、彼女のもとには教えを求めて多くの人びとが集まったといわれる。テクラはセレウキアで亡くなったとされ、墓の上には大きな教会が建てられている。彼女は、初代教会以来、多くの人びとから尊敬を受けている。

聖ピオ(ピエトレルチナ)司祭

1887年-1968年

 フランチェスコ・フォルジョーネ(後のピオ神父)は、1887年5月25日、南イタリアのベネヴェント県ピエトレルチナに住む、農家の家庭に生まれた。7人兄弟の4番目として育った彼は、信心深い母親の影響を受けて、幼いころから神に一生をささげたいと望むようになった。1903年、フランチェスコが15歳のときにカプチン会に入会し、ピオという修道名を受けた。

 修道会で勉学に励んだ後、1910年司祭に叙階された。彼は聖痕を受けた聖人として有名であるが、それは、1918年9月20日のミサ後に感謝の祈りをささげているときだった。ピオ神父の前に現れたイエスの手足には傷があり、その示現が終わると、神父の手と足にも聖痕が現れた。

 ピオ神父が聖痕を受けてから、多くの人びとが彼のもとにやって来た。毎朝5時にささげるミサにはたくさんの人が集まり、時には一日に10時間も告解を聞いた。告解をする人がくわしく言わなくても、彼はその人がどのように生活しているかを知っていた。

 ピオ神父は聖痕の痛みとともに断食や徹夜の祈りをささげて、厳しい生活を送った。ミサと聖体を大切にし、ロザリオを決して手から離すことはなかった。多くの人がピオ神父の取り次ぎによって、恵みや病のいやしを受けた。彼のミサにあずかった人は熱心になり、興味本位で神父に会いに来た人も、心を動かされた。

 1968年、足が弱ったため車椅子を使いはじめ、同じ年の9月23日、ロザリオを手にして、「イエス、マリア!」と唱えながら、平和のうちに生涯を終えた。81歳だった。

 1999年に列福され、2002年没後34年という異例の早さで、列聖された。


◆真 理 を 買 え

2014年09月23日 08時06分32秒 | 聖書

真理を買え。それを売ってはならない。
知恵と訓戒と悟りも。       (箴言二三23)

私は、このことばを読んですぐ、イエス・キリストのなさったたとえ話を思い出しました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ一三44)。持ち物全部を売り払っても買いとるべき、人生の宝とは何でしょうか。イエス・キリストはそれを「天の御国」と言い、この箴言では「真理」と言っています。
岡井久子さんという方は、現代のヨブとでもいうべき方です。脳性麻痺とてんかんと筋ジストロフィーの三つの病気を負っておられます。幼い時に父に捨てられ、唯一の友だった亀にも死なれ、ただ一人のたよりだった母親にも先立たれました。天涯孤独となって、施設のベッドに横たわるだけの人生でした。
ところが、この岡井久子さんが病床で、一つの真理を発見したのです。神がいらっしゃる。神が愛していてくださる。私を生かして、尊い使命を与えていてくださる。やがて神が、苦しみも暗やみも涙もない、永遠の輝く御国に自分を連れていってくださる。――キリストにあってこの神の愛の真理を見いだした時、岡井さんは絶望をふりすてて、希望を手にしました。うらみや嘆きに代えて歌をとりもどしました。無為に過ごす代わりに、祈りを与えられました。病床でつづった数々の輝かしい詩は、『ヨブの涙』という本になって出版され、療養者文学賞まで獲得しました。イエスが言われたとおり、岡井さんを「真理が自由にした」(ヨハネ八32参照)のです。
この無上に尊い真理は、金や努力や知識で買うのではありません。神なき自我の道からまわれ右して信じるという、悔い改めと信仰という値を払えば、金なくして、だれの手にも入るものなのです。

 


◆神はその愛する方によって

2014年09月23日 08時05分45秒 | 聖書

私たちを受け入れてくださった。(エペソ一・六英訳)

なんという特権だろう。これは神の御前における私たちの義認を含むだけではない。ギリシヤ語の「受け入れる」ということばは、それ以上の意味をもつ。神の満足の対象であること、否、神の喜びの対象であることをさえ意味する。私たちは虫であり、死すべき者、罪人である。それなのに神の愛の対象となるとは!
ある信者は、その経験において受け入れられているように見える。少なくとも、彼らはそう理解している。たましいが力に満ち、希望に燃える時、神に受け入れられていると思う。そのような時、自分が高潔であり、聖化され、俗事をはるかに超越しているように感じるからである。しかし彼らは、ちりあくたのようなものに心ひかれる時、もはや受け入れられていないのではないかと恐れおののく。けれども彼らが、彼らの崇高な喜びは彼らを高めもせず、失望落胆は彼らを低くするのでもなく、常に完全にして、傷も汚れもない神の愛する御子によってのみ受け入れられていることを知るならば、どれほど幸福に満たされ、また救い主をあがめることであろう。
だから、主にある友よ。喜べ。あなたは「愛する方によって受け入れ」られている。あなたは心のうちをながめて「受け入れられる何ものもない」と言うであろう。しかし、キリストを見よ。そこにおいてすべてのものが受け入れられていないか。あなたの罪はあなたを悩ます。しかしその罪を、神はご自身の後ろに捨てられた。あなたは義なる方によって受け入れられている。あなたは腐敗と戦い、誘惑と格闘しなければならないが、すでに悪の力を征服した方にあって受け入れられている。悪魔は誘惑するだろう。しかし、雄々しくあれ。悪魔にはあなたを滅ぼすことはできない。あなたは、すでにサタンの頭を砕いた方にあって受け入れられている。あなたの栄光ある地位を確信をもって知れ。すでに栄化されたたましいは、天国で、「愛する方によって」受け入れられている。そして全く同様に、あなたはキリストにあって受け入れられている。

 


第2サムエル記18章16-18節

2014年09月23日 08時04分01秒 | 聖書

18:18 アブシャロムは存命中、王の谷に自分のために一本の柱を立てていた。「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」と考えていたからである。彼はその柱に自分の名をつけていた。それは、アブシャロムの記念碑と呼ばれた。今日もそうである。



 アブシャロムの遺体は木から引き下ろされて、森の中の深い穴に放り込まれ、そこに大きな石の山が積まれてました。

そこが彼の墓となったのです。

 ところがアブシャロム自身は、生前、王の谷に自分で1本柱を建てていました。

それは、自分には息子がいないので、自分で自分のための記念碑を立てようと思っていたようです。

彼は王となる野望を持っていましたが、同時に自分はいつか殺害されるかもしれないという危機感も持っていたようです。

いわば、人生のペシミストです。

 彼のどこが悪かったのか。

私たちには、容易にはわかりません。

自分の姉妹が殺された後、彼の復讐の行動が、ダビデの怒りを買っていました。

ダビデは、彼よりも他の兄弟を愛していました。

それが、彼が王となろうと思った原因でもあったようです。

悲しい現実です。


テサロニケ人への手紙第二3章5節(イザヤ書36章)

2014年09月23日 07時57分47秒 | 聖書

★どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。

■O:今日のコラム
聖霊様は私たちの心を導いて、神の愛と忍耐を得させてくださるのです。主は、私たちの心に触れて導いてくださいます。愛は心から出てくるものであって、理論からは出てきません。特に私たち男性は、論理的な行動に重きを置きやすいものです。しかし、導き主である聖霊様は、私たちの心にアプローチして導いてくださるのです。

私たちを神の愛に支配されたものとしていきたいなら、心に湧き上がる愛の心に主導権をもたせければなりません。そして、湧き上がった愛の心が本当に神からのものであるかどうかは、論理的に御言葉に照らさなくてはなりません。私たちの心に語りかけてくるのは、主だけとは限らないからです。サタンも私たちの心にささやくのです。そして御言葉に照らしたなら、今度は、行動をもってそれを実際に表すのです。愛は、思いの中で完結しては何にもなりません。力強く行動的なものです。

たとえば貧しい人に施しをするとき、心は、与えたいという思いが沸きあがっていますが、論理的思考は、それは自分にとってマイナスだと訴えます。しかし、御言葉はやはり『与えよ』と語ってくるでしょう。こんなとき、心の思いをどうしたら表せるかを、今度は知恵を持って決断し、行動に移す。みなさん、そうしてらっしゃる事でしょう。

『心を尽くし、精神(つまり考え)を尽くし、力(つまり行動)を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』と私たちは言われています。これは全てを捧げてという意味ももちろんありますが、違う見方をすれば、神を愛する愛の流れる順番でもあるのです。

論理的な考え方に支配されず、心に湧き上がる愛に支配され、それを御言葉に照らした考え、それに従う良い行動をもって神の愛と忍耐へと導かれて行きましょう!


■A:考えてみよう
論理的な行動と、心に湧き上がる愛の思いが食い違うとき、愛の思いを優先させることからはじめよう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月22日(月)のつぶやき

2014年09月23日 01時34分14秒 | キリスト教