座間コミニティー

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◆彼を力づけよ。

2014年09月17日 17時07分16秒 | 聖書

(申命一・三八)

神はその民を用いて互いに力づけさせられる。神は天使に向かって、「ガブリエル。私のしもべヨシュアが、私の民をカナンに導こうとしている。行って、彼を力づけなさい」とは言われなかった。神は不必要な奇蹟は決してなさらない。もし普通の手段によって目的が達せられるならば、奇蹟を用いることはなさらない。ガブリエルは、モーセほどに適任ではなかった。兄弟の同情は、天使が派遣されることよりも尊い。敏捷な翼をもつ天使は主のご命令をよく知ってはいても、人々の気質はあまり知らないかもしれない。天使は、モーセのように困難な道を経験したことも、燃えるへびを見たこともなく、荒野を通ってかたくなな民を導いたこともなかった。私たちは、神が人を用いて他の人に尽くさせられるのを喜ぶべきである。それによって兄弟のちぎりが形成され、互いに頼り合うことによってさらに完全な一家族とされる。
主にある友よ。冒頭の聖句を、神のあなたに対するメッセージとして受け取ってほしい。努めて他の人々を助け、特に彼らを力づけよ。若く、心に心配事をもつ求道者に楽しく語りかけ、愛をもってその途上のつまずきの石を取り除くことに努めよ。その心の中に恵みの火花を発見したならば、ひざまずき、それを吹いて炎とせよ。若い信者は、次第に信仰の険しさを発見するであろう。それに任せるとよい。しかし彼に、神のうちにある力と、約束の確かさと、キリストとの交わりの楽しさについて語れ。悲しみのうちにある者を慰め、気落ちした者を力づけるように努めよ。疲れた者には、時に応じて喜んでみことばを語り、道を歩むことを恐れる者を励ませ。
神はその約束によってあなたを力づけ、キリストはあなたのために獲得された天を指さしてあなたを励まし、聖霊はあなたのうちに働いて、主のみこころとその喜ばれる事をなす願いを起こさせ、それを実行に移させて、あなたを励まされる。今夜の聖句に従って、神の知恵を見ならい、そして他の人々を励ませ。

 


「信仰の試練は、

2014年09月17日 17時06分06秒 | 聖書

火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至る」(Ⅰペテロ1:7)

世の人々は災いを恐れ、災いが無いようにと信心する。
しかし、まことの神は違う。
天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせる。
だから平等だ。信仰するなら受験はすべて合格、畑はすべて豊作、大金持ちになるなら、すべての人が信仰するだろう。
しかし、神はそうではない。不都合な事も備えておられる。
だが、それは試練であり、試練は祝福とされる。
私達の信仰は、必ず火で精錬される必要がある。
金は、火の精錬により不純物が溶かされ、純金となる。
同様に、私達も試練の火で、内にある不純物が除かれて行く。
不純物が除かれるために、どうしても火が必要だ。
試練の時に、あなたの心はあらわになる。
建前は信仰でも、本音は何を求めていて、何を頼っていて、自分の力としているものは何なのか。
本音で愛しているものは何なのか。
平穏な順境の時には決して出て来ない、心の本音が現われ出る。
自分の本当の姿を知る。
神はすでに見ておられるが、自分が自分の姿を知らない。
自分に偽ったまま、進む事を望んでおられない。
神は、建前でなく、本音の私達を受け入れて下さっている。
裸の自分を知り、認め、主に頼ることができる。
主の愛に安らぎを見い出す。試練は必ず益で祝福だ。
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本当の自分の姿を知るのは試練の中でだ。
むき出しの自分と対峙する。本当の自分を知らなければ祈れないし、成長もない。
知れる事が恵みで、教えられない事が最大の悲劇だ。


切なくて金沢②

2014年09月17日 16時57分49秒 | 小説・詩

    しんこうとユリ

早朝、レストランで、朝食を食べながら英字新聞を読みながらマタイ受難曲をウォークマンで聞いている。いつも大事な時には必ずこの曲を選ぶ。
一通り新聞を見終わると大きくため息をつく。
部屋に戻り、椅子に座り机に肘を付き手を組みいつもより深く思いを込めて神様に祈りを捧げる。
20分ぐらいが過ぎて退出の支度を始める。

フロントでチェックアウトを済ませ、ホテルから10分ほどの距離の教会まで歩いていく、心が緊張と何か重いものを抱えた感じでいつも慣れた道程が長く感じる。

教会の十字架をじっと見つめている。
ごく短く祈る「主よ我が身を憐れみたまえ」。

思い切って教会のドアを押し開ける、何人かの人が長椅子に座り身を屈めて深く静かに祈りを捧げていた。
風のように静かに近づく気配に右側に体を動かす。
満面の笑みで強くハグをされる、青い目がキラリと光る。
重荷がなくなり軽くなったように利幸にも笑顔が戻る。
「トシしばらく」
「ミゲル先生もお元気そうで」
「祝福を受けなさい」
利幸は少し膝を折り頭を下げる
ミゲルは優しく頭に手を置き目をつぶり祈りを捧げる。
「主の名によって祝福がありますように」

(ミゲル・ドミニコ、ドイツ系ポルトガル人で30年前に宣教師として来日、2mの大柄であるがチャーミングな笑顔が人を引き寄せる60歳の初老で生涯独身を宣誓し神様にお仕えしている。どこの派閥にも属さずに神の愛を顕わすこと、祈りにより生きることを説く人であり、利幸の信仰の師である)
「まだ時間があるから聖母の園で心を休めなさい」
ミゲルはどこか不思議がある。心の中が見えるような優しさを現わす。

30分ぐらい教会の庭を散策して時間を楽しむ。
聖母像の周りには、ユリの花が咲き凛とした姿と香りで心が癒されていく。
一瞬意識が無になり宇宙と一つになった錯覚に陥った。
時計を見ると主日礼拝が始まる時間である。
ドアを開けると今度は会堂の中は8割方座っている。

緑を基調とした祭服を着たミゲルが合掌しながら御聖所から静かに聖壇に移動する。
聖壇の上にある十字架に合掌しながら一礼し、信徒の方に体を向ける。
そして手を大きく左右に広げ頭を下げ歌うように祈りを捧げる。
(歌による祭儀である、祈る言葉に節をつけて歌うように祈るのである。)
一連の儀式が終わり。

説教が始まる。
「今日のテーマは祈りの中で与えられたものです。それは父なる神様にある一致する共同体についてです。そしてイエス様の愛に答える我々の誠です」
30分ほど説教が続きそして主祭儀が終わる。

そしてミゲルが十字架のイエスをじっと見つめ「我々の罪を許したまえ」、信徒「我々を憐れんでください」
ミゲルが信徒の方に向き直り両手を広げ手のひらをかざしながら「父・子・聖霊のみ名により外に出て行きなさい。イエスが我々とともにあります。」、信徒「主は我々とともにあります」。
静かにオルガンの音色が会堂中に響き渡る。

この一連の礼拝=祭儀はまるで天国でみ使いが神を讃えて集まっているかのような雰囲気に包まれていた。誰もが畏怖の念でここで神様と向き合っていたのである。

礼拝が終わって顔なじみの人も初めての人も帰り際利幸に握手を求め一言かけて行く「帰ってきたね~」「ようこそいらいっしゃいました」「元気そうね、昼食、食べるよね」と老若男女、子供まで握手をしてくれる。利幸は心の中で恐縮しながら心底嬉しかった。

http://nicogame.info/watch/sm19885451 この曲は癒されます。元々ミサ曲として作曲されたもので大教会のミサで特別な時に奏曲されます。


今日の聖人の記念日

2014年09月17日 08時18分24秒 | キリスト教

 聖ヒルデガルト修道女

1098年-1179年

 ヒルデガルトは、ドイツのベッケルハイムの貴族の家に生まれ、福者ユッタがいるベネディクト会の修道院で教育されて、1116年にこの修道会の会員となった。36歳のときに、ユッタの後を継いで修道院長になった。彼女は、幼いころから神秘的な体験をし、司祭からも勧められて『Scivias』(道を知る者)という書を著わした。また、教皇からも彼女の示現(ヴィジョン)は真正なものとして認められた。

 1147年に、18人の修道女とともにビンゲン近くのルペルツベルグに修道院を移し、大きな修道院に発展させた。ヒルデガルトは、会の修道女を導くとともに、国王や聖職者たちに手紙を書いたり、貧しい人びとや病人の世話をしたりするなど、ドイツ各地を巡って人びとの信仰を鼓舞し、大きな影響を与えた。

 彼女は、ドイツにおける最初の女性神秘家であり、科学的視野のある博物学や医学について著作し、聖人伝や賛美歌などを作った。

聖ロベルト・ベラルミン司教教会博士

1542年-1621年

 ロベルトはイタリアのモンテプルチャーノで10人兄弟の3番目に生まれた。彼は、教皇マルケルス2世(在位1555年に即位して、3週間後に急逝)の母方の甥にあたる。ラテン語に堪能でバイオリンを弾くなど、才能に恵まれ、1560年にイエズス会に入った。パドバで神学を学んだ後、1570年に叙階され、ベルギーのルーヴァンでトマス・アクィナスの『神学大全』を教え、有名な説教家となった。このころロベルトは、神の恵みと人間の自由意志の問題について、人間の意志の努力によって徳を積み、救いに達しようというペラギウス的発想を唱えた、ベルギーの神学者、バイウスと対立した。プロテスタントの宗教改革者たちとの論争に備え、教会史、教父学、聖書学を研究し、体系づけた。その後彼は、1576年にイエズス会のナポリの管区長になり、1598年、クレメンス8世のときに枢機卿になった。彼は、神学者として公教要理をまとめて教会に大きな影響を与える一方、貧しい人びとを援助するために、自らは質素な生活を営んだ。

 優秀な学者であった彼は、ベニスでの反聖職者勢力との争い、そしてプロテスタントであるイギリスのジェームズ1世との対立の際、「教会と国との関係において、権威は、民衆のなかにあって、神から与えられたものである」と主張し、使徒座を擁護した。思想上、ロベルトはプロテスタント神学者たちと対立したが、彼らのために熱心に祈り、個人的に非難することはなかった。
 トレント公会議でヴルガタ訳聖書の改訂版が完結することが望まれ、ロベルトは最終委員としてたずさわった。

 彼は、霊的指導者として聖アロイジオ・ゴンザガを助け、聖フランシスコ・サレジオが聖フランシスカ・ド・シャンタルと設立した「聖母訪問修女会」が、聖座から正式認可されるために、尽力した。

 晩年には、信心や教訓的な多くの著作を残し、1621年に亡くなった。


◆心 の 成 熟 度

2014年09月17日 08時17分14秒 | 聖書

あなたは訓戒に意を用い、
知識のことばに耳を傾けよ。    (箴言二三12)

聖書を直訳せず、現代の話しことばに分かりやすく言い替えて訳した聖書が、『リビングバイブル』として、世界中で爆発的に読まれ、親しまれています。もとになっている英語版は、私の古い友人、アメリカのケネス・テイラーさんの苦心の作です。そのリビングバイブルによると、このことばを、こんなふうに訳しています。「批判のことばを受け入れるのをこばんではいけない。できるかぎりの助けを、自分のものにせよ」(英訳)。
私が青年のころのことです。今から思うと、若気の至りで、大人の目から見ると危なげな振舞いをしていたのでしょう。私に近しい年長の人が、私についての批判や忠告のことばを、私の尊敬している先生のところに手紙で告発したことがありました。手紙を受けとった先生は、「私はあなたを信頼していますし、そんなことはないと思います。あったとしても賢いあなたのこと、すぐ、そこから離れるでしょう」と言ってきてくださいました。これには感激して、私自身、深く反省し、姿勢を改めました。しかし、その手紙を書いた先輩をなかなかゆるすことができず、私は、彼に近づかなくなりました。そのことは、長い間私の心のしこりとなりました。
しかし、いま思うと、その告発してくれた方を逆うらみする資格も、私にはありませんでした。逆うらみした私の愚かさ・未熟さ・罪深さを、今さらながら思うのです。
「人のことばとしてではなく、神のことばとして受け入れてくれてありがとう」(Ⅰテサロニケ二13参照)と、テサロニケの人々にパウロは書いています。批判のことばを神のことばとして受けとれる。――ここに、人の心の成熟さが表れるのではないでしょうか。

 


◆その子をわたしのところに連れて釆なさい。

2014年09月17日 08時16分20秒 | 聖書

(マルコ九・一九)

弟子たちに失望した父は、主に泣きついた。子どもが最悪の状態にあり、すべての手段は失敗した。しかし、「その子をわたしのところに連れて来なさい」との主のみことばに従ったとき、子どもはただちに悪霊から救われた。
子どもは神が与えてくださる尊い賜物である。しかし多くの心遣いが伴う。子どもは両親の大きな喜びであるが、心痛の種となる場合もある。子どもは御霊に満たされるか、悪霊に満たされるかのどちらかである。いずれにせよ、「その子をわたしのところに連れて来なさい」との神のことばは、すべての病をいやす。
子どもがまだ乳飲み子である間に、もっと心を砕いて彼らのために祈ろうではないか。彼らはすでに罪をもっている。それゆえ祈りによってそれを攻撃しようではないか。子らに対する私たちの叫びは、彼らが罪の世に出て行く時を告げる叫びに先立たなければならない。彼らの青年時代には、もはや正しく祈ることも、神のみことばをたましいに聞くこともできなくなるという悲しい事実を私たちは見る。しかしなおイエスは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と命じられる。彼らが成長した時、彼らは罪にまみれ、神に敵対するようになるかもしれない。このような時、私たちは断腸の思いで悩むが、なお「その子をわたしのところに連れて来なさい」との偉大な医者のみことばを想起すべきである。彼らの呼吸の続く限り、私たちは決して祈りをやめてはならない。イエスが生きておられる限り、絶望ということはない。
主は時々その民を窮地に落とし、主が彼らにとっていかに必要な方かを、実際的に知らしめられる。不敬虔な子らの堕落が私たちの手に負えなくなった時、私たちは力を得るために全能者のもとに逃れる。そして、それは私たちにとって大いなる祝福である。
私たちの悲哀をただちに取り去ることが、イエスには可能である。主は私たちを慰めることを喜ばれる。主が私たちを待ってくださる間に、急いでみもとに行こうではないか。

 


第2サムエル記17章15-20節

2014年09月17日 08時15分00秒 | 聖書

17:16 「今、急いで人をやり、ダビデに、『今夜は荒野の草原で夜を過ごしてはいけません。ほんとうに、ぜひ、あちらへ渡って行かなければなりません。でないと、王をはじめ、いっしょにいる民全部にわざわいが降りかかるでしょう』と告げなさい。」



 自分の提言が受け入れられたことを見たフシャイは、人をやってダビデにこちらの側に留まらないで、すぐに旅だって川の向こうに行きなさいと言わせました。

ところが、このことを知らせる人々に問題が起こりました。

事が知られて追われたのです。

そこである人の妻が、彼らを庭の井戸に隠してくれました。

彼らは守られたのです。

この時、アブシャロムの家来は、自分たちが探した二人の人が見つからないので帰って行きました。

その時に応対した女性の言葉は、「あの人達はここを通り過ぎて川の向こうに行きました。」という言葉でした。

自分で彼らを井戸に隠したのですが、彼らはここにいない、先に行ってしまったと伝えたのです。

もちろん偽りです。

彼女は、追われる者を助けるために、このように語ったのでした。

自分が、その罪の責任を負ったのです。


テサロニケ人への手紙 第一 2章12、13節、イザヤ書30章9、15節

2014年09月17日 08時11分42秒 | 聖書

★1テサ2:12、13  ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。
 
こういうわけで、私たちとしてもまた 、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

★イザ30:9、15  彼らは反逆の民、うそつきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられれる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

■O:今日のコラム

9月16日の朝です。今日1日も、神様の御言葉を受け取っていきましょう。神様は、僕らに救いと力を与えたいと願っているからです。

御言葉を読む時に、単純に読んで、自分の励ましとなる聖句は好きだけど、悔い改めやさばきの箇所は苦手だということがあります。

自分を励ます御言葉はとても大切です。たくさん蓄えてください。同時に、自分の罪を思い知らされるほどの厳しい御言葉も、僕らの成長には本当に必要で大切です。僕らは、苦しみの中で、主のおきてを学ぶことができるからです。

自分の気に入る言葉だけを求める時、僕らは、健全な成長をすることはできません。子供が大好きな食べ物だけ食べていたら、どうなるでしょう。味覚などが育たず、栄養不足や繊維不足で抵抗力が育つことができなくなります。甘味を楽しむこと、苦味を楽しむこと食感を楽しむことなど楽しみも減ってしまいます。幅が狭くなるのです。

聖書は、あらゆる角度からの神様の愛を表わし現わしています。時には励ましが必要です。時には主の前にひれ伏すことしかできなくなることも必要なのです。

反逆の子らよ、と語られる者へも、主から逃げようとする者にも、主はどこまでも恵みに満ちています。

『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。』(18節)

18節以降、主の祝福が満ち溢れています。恵もうと待ってくださっています。主の言葉を聞かない者にも語ってくださるのです。

しかし、その声も聞こうとしない者には、27節以降、

『見よ。主の御名が遠くから来る。その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。』(27節)

最終的な状況が書かれています。

イエス様が地上におられた時、十字架と復活にいたるまで、様々なことを通して、道を作ってくださいました。

イエス様と天のお父さんの御国と栄光とに、聖霊様によってふさわしく歩む方法。天のお父さんに絶対的な信頼をおくこと、聖霊様との親しい交わり方、力の受け取り方…。

それは、神様の御言葉を受け取って、心の中で御言葉が働いてくださるからです。
御言葉を求めて、受け取っていきましょう。

■A:考えてみよう

僕らは、御言葉によって生きることができます。

『正しい人は生きるために食べ、悪人は食べるために生きます。』(箴言13:25、リビングバイブル訳)

生きるために、御言葉が必要です。今日1日、求めていきましょう。
受け取った御言葉を実行できるように、聖霊様に助けていただきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月16日(火)のつぶやき

2014年09月17日 01時33分30秒 | キリスト教