座間コミニティー

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◆主よ。

2014年09月11日 16時10分41秒 | 聖書

私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。(詩篇五・八)

この世がキリストの民に対して抱く敵意は、実に激しい。人々は他の人の欠点であれば、いくらでも許すが、主に従う者の罪は、ごく小さなものでも大げさにする。それをいたずらに嘆くのではなく、むしろそれを用いて、神の前に注意深く歩く特別な動機としたい。もし私たちが不注意な生活をするならば、世間の鋭い目はすぐにそれを見つけ、百枚もあるかと思われる舌で広め、尾ひれをつけて熱心に吹聴する。彼らは勝ち誇って叫ぶ。「ああ、こんなことだろうと思った。見ろ。このクリスチャンたちのやることを。彼らは一人残らず偽善者だ」と。こうしてキリストの大目的に大きな損害が加えられ、その御名が侮られることになる。
キリストの十字架自体、世の人のつまずきとなっている。十字架は、「ユダヤ人にとってはつまずき」である。すでに十分であるつまずきの上に、私たちがさらにつまずきを加えないようにしよう。「異邦人にとっては愚か」である。私たちの愚行によって、福音をあざけるこの世の知恵に、さらに乗ずるすきを与えないようにしよう。
私たちは自分のことについて、どれほど注意深くなければならないことだろう。私たちの良心をどれほど堅固なものにしなければならないだろう。敵は私たちの最上の行為さえ誤り伝え、行為を非難できない時は、私たちの動機に向かって攻撃を加える。バニヤンの『天路歴程』の中で、巡礼者は虚栄の市において容疑者として扱われた。私たちは、監視されているばかりでなく、敵の回し者は私たちが考えている以上に多い。スパイ網は、至る所に張り巡らされ、内にも外にもある。もし私たちが敵の手に陥るならば、狼のほうがむしろ彼らより寛大であり、悪霊のほうがまだ彼らよりあわれみをもつ。神に対しては不信仰であり、神の民を中傷する人々に、私たちの弱点が容認されることを期待することなど、およそ望み得ぬことである。
おお、主よ。敵が私たちをつまずかせないように、絶えず導いてください。

 


「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。

2014年09月11日 16時09分36秒 | 聖書

そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう」(イザヤ37:20)

ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王のセナケリブがユダの町々を攻め取った。
王はラブシャケを送り、ヒゼキヤや人々に脅しをかける。
大軍を伴い、強力な軍隊を誇示し、挑んで来る。
ラブシャケは、ヒゼキヤは主が救い出すというが、そんな言葉にだまされるな、信じるなと、信仰を揺るがして来る。
これを聞いたヒゼキヤは衣を裂き、荒布をまとって主の宮へ行き、祈りを献げ、イザヤにも祈りを要請した。
私達に挑み、攻撃をしかけて来るサタンも同じだ。
経済的な事や信仰ゆえの戦い、圧倒的な勢力を持つこの世を前に、自分達の無力をこれでもかと見せつける。
祈っても無駄だ、神を信じて何になる、しょせん無力だ…。
神を信じて立たないように、この世に妥協して生きるように誘惑する。
そうすれば楽に生きられるし、世の成功を手にできる。
サタンだ。このような時には祈りが対抗手段だ。ヒゼキヤもイザヤも祈った。
その時、神は奇跡を行われ、主の使いを遣わし戦わせた。
その結果、アッシリヤは立ち去った。
世に妥協させようとする、耳元に来るサタンの誘惑に気づけるように。
あなたにもこの誘惑が来ているか。祈りによって立ち向かおう。
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信じても無駄だ、どうにもならない…、こんな微力、焼け石に水だとサタンが攻撃して来る。
又、楽で、安易な道を誘惑して来る。神は働きみわざをされる。
サタンの囁きに気づき祈ろう。


今日の聖人の記念日

2014年09月11日 07時45分50秒 | キリスト教

福者ディエゴ司祭と殉教者たち

 

 ポルトガルに生まれたディエゴは、17歳のときにイエズス会に入り、1609年に来日した。天草、京都、大阪で宣教したが、家康の追放令でマカオに退き、再び来日して各地を回り奥州に着いた。そこでは、同会のアンジェリス司祭が熱心に宣教をしていて、互いに再会を喜び合った。その後、日本人の司祭・修道士の応援もあり、東北を巡回し、共に宣教活動に励んだ。

 1624年の江戸の大殉教が終わったころ、仙台藩にもキリシタン迫害が起こった。ディエゴは信者とともに捕えられ、仙台の信者9名とともに広瀬川で殉教した。毎年2月、仙台の信徒たちは、殉教碑のある広瀬川の河原に集まって、殉教者たちを記念している。


第2サムエル記16章5-8節

2014年09月11日 07時44分18秒 | 聖書

16:7 シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。
16:8 主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王
となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」



 ダビデ王が逃げ道を進んでいきますと、サウル家一族の一人、シムイという人に出会いました。

彼は、滅ぼされたサウル一族の者なので、サウルに恨まれていたダビデに対しては、怒りの思いを持っていました。

ですから、このダビデが今、困難に遭って逃亡を図っていることを見た時、彼はそのことを喜んで、ダビデ一行の群れに対して石を投げつけ、呪いのことばを吐き続けました。

その呪いの言葉が、ここに記されているものです。

彼は、主がダビデに対して、サウルのことで報復をしたのだと告げました。

 ダビデは本来、主の御心には忠実に生きようとした人でした。

しかし、敵対する人には、そうは見えませんでした。

むしろ、彼の滅びが、喜ばれているのです。


◆彼らと分離せよ……。

2014年09月11日 07時41分24秒 | 聖書

(Ⅱコリント六・一七)

クリスチャンはこの世に住んでいても、この世の者ではない。彼はその生きる目的において世の人と区別されるべきである。彼にとっては、「生きること」すなわち「キリスト」でなければならない。食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなければならない。宝を蓄えるにも、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともない天に蓄えよ。富むにしても、「信仰に富み」、良い行いに富もうとする大望を抱け。楽しみを求めるのもよい。しかしその時、主に向かって心から賛美の歌を歌うようにせよ。
目的だけでなく精神においても、世の人と異なる者でなければならない。神の前に謙遜に仕え、絶えず臨在を意識し、神との交わりを喜び、みこころを知ることを求めるならば、天国の民であることが証明される。
また行動において、この世と分離されていなければならない。正しいことであるなら、そのために損失をこうむるとしても、それをしなければならない。間違っていることは、たとえそれによって利益が得られるとしても、主のためにそれを軽蔑せよ。無益な暗黒のわざに携わることなく、むしろそれらを排斥せよ。
あなたは召しと与えられた地位にふさわしく歩め。クリスチャンよ。あなたが王の王なる方の子であることを忘れるな。やがて天のたてごとをかき鳴らす指を、この世のもので汚すな。すぐに麗しい王を見る目を、肉欲の窓とするな。またすぐに天国の黄金の道を歩くあなたの足を、ぬかるみの中に踏み入れるな。ほどなく天国の思いに満たされ、歓喜にあふれるあなたの心を、高慢と苦みで満たすな。
 立ち上がり舞い上がれ、私のたましいよ
 思慮のない人々の群れを離れ
 華やかな快楽と
 みごとな高慢さを離れて
 永遠の麗しい花が咲き
 神聖な喜びに満ち、
 富は尽きることなく
 無限の栄光が輝くところへ

 


9月10日(水)のつぶやき

2014年09月11日 01時45分45秒 | キリスト教