座間コミニティー

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◆わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。

2014年09月18日 17時03分50秒 | 聖書

(ヨハネ一〇・二七)

私たちは、羊が羊飼いに従うように、ためらうことなく主に従うべきである。なぜなら、主は欲される所に私たちを導く権利をもっておられるからである。私たちは代価を払って買い取られた。だから、贖いの血の権利を認めよう。買い取られた財産である私たちが、自分の贖い主に従わなくてもよいだろうか。もし私たちの指導者また指揮官である方の命令に対してとやかく言うならば、クリスチャンであるという信仰告白に対して真実ではない。服従は私たちの義務である。
主は、ペテロに対して言われたように、私たちに対してもしばしば「……あなたは、わたしに従いなさい」と言われる。どこへ導くにも、イエスは先立って行かれる。私たちは行く先を知らなくても、だれと共に行くかを知っている。旅は長いであろう。しかし主の永遠の腕は私たちを目的地まで運ぶ。イエスのおられることが、永遠の救いの確証である。主は生きておられる。それゆえ私たちも生きる。
私たちは、単純な信仰をもってキリストに従うべきである。主が導かれる道はすべて、栄光と不朽に至る道だからである。それは平たんな道ではなく、鋭いごつごつした試練におおわれているかもしれない。しかしその道は、神が「設計し、建設された」、「堅い基礎の上に建てられた都」へ続く。「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とさとしを守る者には。」
導き手である主に全き信頼を置こうではないか。なぜなら、前途に繁栄、逆境、病、健康、名声、軽蔑のどれがあろうと、主の目的は実現され、その目的はすべての恵みの相続人にとって、純粋な混じり気のない善であることを知っているからである。キリストと共に険しい道をよじ登ることはすばらしい。雨や雪が吹きつけても、主の愛に抱かれていることは、世俗の手で自らを暖めている者よりも、はるかにまさる祝福である。私たちは、愛する主に従って行こう。アマナの頂でも、獅子のほら穴、ひょうの山へでも行こう。
尊いイエス様。引き寄せてください。私たちは走ってあなたのみあとについてまいります。

 


「人は心に自分の道を思い巡らす。

2014年09月18日 17時02分55秒 | 聖書

しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16:9)

私達の心には、様々な計画が思い浮かぶ。
しかし、それらのすべてが必ずしも主の計画なのではない。
しかし、主の御心と一致するなら必ず成し遂げられる。
「人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る」。
御心で無いなら、どんなに願っても成就しない。
主の御心だけが成る。
すべての主権は主にあるので、私達の側とすれば「何も思い煩わないで…願い事を神に知っていただきなさい」とあるように、心にある願い事は神に知っていただいて、お委ねすればよい。
そして、平安でおればよい。
「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が…」となる。
御心ならその計画は進んで行くし、御心でないなら閉ざされる。
それで平安だ。御心だと思い込んでいるが、そうでない場合も多い。
人間は完全ではないので、しばしば間違うものだ。
むしろ、思い通りでなく、逆に思わぬ方に、御心があったりする。
又「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。
しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」自分では純粋だと思っている計画の動機が、間違っている事もある。
しかし、主はそれらも明らかにし、教え導きながら、愛をもって、あなたの歩みを確かなものとして下さる。
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自分が心に思い巡らす計画も、主の御心だけがなることを知っているなら、結果はお委ねできる。
自分が主権を握っている限りいつも恐れと不安だらけだ。


今日の聖人の記念日

2014年09月18日 07時28分02秒 | キリスト教

聖ヨセフ(クペルティノ)司祭

1603年-1663年

 ヨセフは、イタリアのナポリ近郊のクペルティノの貧しい家に生まれた。病弱で、普通の子どもよりも知恵が遅れており、口をぽかんとあけていたので、人びとからもあざけられることが多かった。仕事に就くとすぐに解雇され、修道士になることを望んで修道会に入るが、すぐに出されるなどして、ようやくラ・グロッテラのフランシスコ修道院から、馬丁として受け入れられた。ここで、ヨセフは祈りと断食の修行をよく行い、1628年に司祭となった。そのころから、彼は神秘体験をし、身体が宙に浮かぶことが度々おこり、「空飛ぶ修道士」と呼ばれて、人びとの訪問を受けるようになった。そのため教会の権威者たちは、ヨセフをピエタロッサの修道院に移して、人びとの目にふれないようにした。彼は死ぬまで監禁されていたが、決して不平を言わずすべてを耐え、神にのみ信頼を置いていた。ヨセフはこの徳ゆえに、1753年に聖人とされた。飛行機の操縦士と乗客の保護の聖人といわれている。


◆心とくちびる

2014年09月18日 07時26分59秒 | 聖書

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、
私の心も喜び、
あなたのくちびるが正しいことを語るなら、
私の心はおどる。                      (箴言二三15―16)

「心とくちびる」のことが言われています。人の心とくちびるは、時々、いいえ多くの場合、裏切り合うものではないでしょうか。「遊女は客にほれたと言い、客は来もせでまた来ると言う。」こんな浪花節の文句ではありませんが、心の中に、愛も真実も信頼もないのに、口先では、さも愛と真実があるように語る。――ここに、人の偽りがあります。天の父である神は、このような人とその偽善に対して、最も悲しい思いをされるのです。
しかし、一方では、心の中で神を求め、愛を求め、罪のゆるしを求め、永遠のいのちを求め、真実の生きる目的を求めていながら、口ではどうでもいいようなことを言う人が、世の中にたくさんいるのです。変なところで変なみえを張っている、偽悪者・照れ屋です。
昔路傍で説教していた時、新円切り替え時代の虎の子の十円札を取り出して、欲しい人にあげますと大勢の前で言ったことがあります、ところが、だれも、「下さい」と言って手を出す人はいませんでした。しばらくして、小学校五年生ぐらいの男の子が、人垣を分けて前に出てきました。「おじさん。おくれ」とさし出されたかわいい手に、私はその十円札をにぎらせました。惜しい気はしました。しかし私は、神の前に心と口を一つにして、愛・いのち・ゆるしを神からいただく姿を語りたかったのです。
パウロは言いました。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ一〇10)。
神の愛を心で深く求めるなら、それを口で告白して、手をさし出しなさい。心で深く神の愛を信じたなら、照れないで、口で告白してごらんなさい。――人生はすっきりしてきます。そのことを神が喜び、力を与えてくださいます。

 


◆もし私たちが御霊によって生きるのなら、

2014年09月18日 07時26分12秒 | 聖書

御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ五・二五)

キリスト教に最も重要な二つのことは、信仰のいのちと信仰の歩みである。これを正しく理解している人は、実践神学の奥義を極めていると言っても言いすぎではない。この二つは、クリスチャンにとって欠くことのできないものだからである。あなたが真に敬虔でないならば、決して真の信仰を見いだすことはできないであろう。また反対に、キリストの義に基づく生きた信仰を根底としない聖い生活は存在しない。
この二つのうち一方のみを追求する人はわざわいである。ある人々は信仰を養って、聖潔を忘れている。彼らの信仰はきわめて正統的であるかもしれないが、それは強く非難されるべきである。彼らは不義の中に真理を握っているからである。他方、聖い生活を追求して努力するが、パリサイ人のように信仰を否定する人がいる。主は彼らを「白く塗った墓」と言われた。
私たちは信仰をもたなければならない。それは土台である。そして、私たちは聖い生活をしなければならない。それは上層建築である。あらしの日には土台のみで何の役に立つだろう。まさかその中に隠れるわけにもゆくまい。土台もむろん必要であるが、雨露をしのぐためには家がなければならない。そのように、もし私たちが疑いの日に慰めを得たいと思うならば、霊的生活の上層建築が必要である。しかし、信仰なくして聖い生活のみを求めてはならない。なぜなら、それは岩の上に土台を置いていない家を建てることであって、永続するはずがないからである。
信仰と生活とを組み立てて、アーチの二本の柱のようにしよう。そうすれば、私たちの敬虔は永続するであろう。光と熱が同じ太陽から出ているように、この二つも祝福に満ちている。神殿の二本の柱のように、それらは栄光と義とをかたどる。恵みの泉から流れ出る二つの川、聖なる火をともされた二つのランプ、天上の水に育てられた二本のオリーブの木である。
主よ。私たちに内なるいのちを与えてください。それが外に現れて、あなたの栄光を現すのです。

 


第2サムエル記17章21-23節

2014年09月18日 07時25分02秒 | 聖書

17:21 彼らが去って後、ふたりは井戸から上がって来て、ダビデ王に知らせに行った。彼らはダビデに言った。「さあ、急いで川を渡ってください。アヒトフェルがあなたがたに対してこれこれのはかりごとを立てたからです。」
17:22 そこで、ダビデと、ダビデのもとにいたすべての者たちとは出発して、ヨルダン川を渡った。夜明けまでにヨルダン川を渡りきれなかった者はひとりもいなかった。」



 アヒトフェルの意見が聞かれず、フシャイの提言が聞かれたということで、ダビデは安全だとは思いませんでした。

フシャイの提言が、すぐ実行に移されて、ダビデに迫ってくるかもしれないという思いがあったからです。

折角、主が時間稼ぎの道を開いてくださったのですから、その時間を有効に用いて、すぐにでも逃げる事が求められました。

ダビデはその勧めに基づいて、すぐにヨルダン川を渡ることにして、家来の者達と共に川を渡りました。

こうして、ダビデの身の安全は確保されることとなったのです。

神によって与えられた時を用いて、即座に行動に移したのです。

それが、彼を守りました。


イザヤ書31章1節(テサロニケ人への手紙 第一 3章)

2014年09月18日 07時21分20秒 | 聖書

★  ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。

■O:今日のコラム

助けが必要なとき、皆さんはまず何をしますか?

まず、神様に祈り助けを求めますか?
それとも、目に見えるものにまず助けを求めますか?

お金や人、それは、「多数の戦車」や「非常に強い騎兵隊」に頼ることを言っています。

皆さんは、私達の神、主は、「多数の戦車」や「非常に強い騎兵隊」に勝って、はるかに強い存在、また確実な助けであることを信じていますでしょうか?

今日、もう一度、自分の助けはどこから来ているのか、考えてみましょう!

■A:考えてみよう

ぜひ、詩篇121篇を用いて、「主こそ私の助けです」と宣言して祈っていきましょう。そして、まずお金や人と相談する前に、神様と相談することを心がけていきましょう!!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月17日(水)のつぶやき

2014年09月18日 01時33分36秒 | キリスト教