聖テクラおとめ
1世紀
テクラは、小アジア(トルコ)のイコニオンの裕福な家に生まれた。いろいろな学問を勉強し、18歳のときには婚約していた。そのころ、この町を宣教のため訪れた聖パウロの説教を聞き、そのすばらしさに感動したテクラは、キリストの愛の深さを知り、すべてをささげようと、婚約を破棄することを決めた。そのため婚約者がパウロを訴えたので、パウロは追放され、テクラは処刑されることとなった。しかし彼女は奇跡的に救われ、パウロに従ってその宣教に協力し、各地を転々としてアンチオキアに行った。この町でもある役人から結婚を申し込まれたが、拒否したために再び訴えられ、処刑されることになった。しかし神から守られているのを証明するかのように、どんなにテクラを処刑しようとしても失敗に終わった。そのため民衆も、彼女の命を助けてくれるように総督に嘆願し、晴れて自由の身となった。その後、彼女のもとには教えを求めて多くの人びとが集まったといわれる。テクラはセレウキアで亡くなったとされ、墓の上には大きな教会が建てられている。彼女は、初代教会以来、多くの人びとから尊敬を受けている。
聖ピオ(ピエトレルチナ)司祭
1887年-1968年
フランチェスコ・フォルジョーネ(後のピオ神父)は、1887年5月25日、南イタリアのベネヴェント県ピエトレルチナに住む、農家の家庭に生まれた。7人兄弟の4番目として育った彼は、信心深い母親の影響を受けて、幼いころから神に一生をささげたいと望むようになった。1903年、フランチェスコが15歳のときにカプチン会に入会し、ピオという修道名を受けた。
修道会で勉学に励んだ後、1910年司祭に叙階された。彼は聖痕を受けた聖人として有名であるが、それは、1918年9月20日のミサ後に感謝の祈りをささげているときだった。ピオ神父の前に現れたイエスの手足には傷があり、その示現が終わると、神父の手と足にも聖痕が現れた。
ピオ神父が聖痕を受けてから、多くの人びとが彼のもとにやって来た。毎朝5時にささげるミサにはたくさんの人が集まり、時には一日に10時間も告解を聞いた。告解をする人がくわしく言わなくても、彼はその人がどのように生活しているかを知っていた。
ピオ神父は聖痕の痛みとともに断食や徹夜の祈りをささげて、厳しい生活を送った。ミサと聖体を大切にし、ロザリオを決して手から離すことはなかった。多くの人がピオ神父の取り次ぎによって、恵みや病のいやしを受けた。彼のミサにあずかった人は熱心になり、興味本位で神父に会いに来た人も、心を動かされた。
1968年、足が弱ったため車椅子を使いはじめ、同じ年の9月23日、ロザリオを手にして、「イエス、マリア!」と唱えながら、平和のうちに生涯を終えた。81歳だった。
1999年に列福され、2002年没後34年という異例の早さで、列聖された。