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5人目の王とは

2014年09月12日 17時14分53秒 | 日記

9月9日の東京新聞の記事にちょっとびっくり。「キャサリン妃 第2子
妊娠」とあります。記事によると英王室は8日、ウィリアム王子の妻キャサ
リン妃が第二子を妊娠したと発表したとのことです。7月に一歳の誕生日を
迎えたジョージ王子に続くロイヤルベビーの吉報に英国中が沸いていると記
事は続きます。
 英国では昨年、王位継承法が男女平等に改正されました。その結果、産ま
れてくる子は性別に関わらず、第四位の継承順位となります。ちなみに一位
はチャールズ皇太子、二位はウィリアム王子、三位はジョージ王子です。三
代先まで王位継承者がいるのですから、ウィンザー朝も安泰でしょう。
 昔から最後に残るのは5人の国王だというジョークがあって、5人とはト
ランプの4人の国王とイギリス国王を言います。

 王位継承とは面白いもので偶然に左右されることがしばしば起こります。
現英女王エリザベス2世の父親ジョージ6世は、本来は王弟に過ぎません
でした。国王は兄のエドワード8世でした。ところが英王室を揺るがす大
事件が起きます。エドワード8世は当時独身で、皇太子時代から付き合っ
ていた女性がいました。ウォリス・シンプソンという離婚歴のある人妻で
アメリカ人でした。エドワード8世は、このシンプソン夫人と結婚するつ
もりでした。これが「王冠を賭けた恋」と呼ばれます。
 当然のことながら離婚歴もアメリカ女性も英国王にふさわしくないと、
周囲は大反対です。ところがエドワード8世は、BBCラジオを通じて
「愛する女性の助けと支えなしには、自分が望むような重責を担い、国
王としての義務を果たすことは出来ない」とスピーチし、退位します。
国王になって一年も経っていませんでした。う~ん、男の純情と言うべ
きか。この結果、王弟のヨーク公がジョージ6世として即位します。

 王家は案外としぶとくて、最も有名なブルボン家はフランス革命で消滅
したと思いきや、現スペインのカルロス国王はブルボン家です。これはル
イ14世が后がスペイン王女という関係で、孫のフェリペ5世をスペイン
国王に送り込んだ歴史があるからです。この横車は、フランス対イギリス、
オーストリア、オランダが10年以上も戦うスペイン継承戦争を引き起こ
しました。
 現在でもスウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー
というように王国は健在です。これに比べると帝国の没落は対照的です。

 20世紀の初頭、世界に帝国はどれくらいあったのでしょう。西から挙
げれば、まず大英帝国(the British Empire)があります。イギリスです。
正式の国名は連合王国(the United Kingdom)ですが、19世紀に始まる
ヴィクトリア女王の治世下で、世界の人口の約4分の1、世界の陸地の約
4分の1を支配する大帝国となります。イギリス国王はインド皇帝を兼務
していましたから、まさしく帝国と言っていいでしょう。
 さらにヴィルヘルム2世の支配するドイツ帝国、神聖ローマ帝国以来の
伝統を誇るハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国、ニコライ2
世の支配するロマノフ朝ロシア帝国、ヨーロッパからアジアにかけての広
大な領地を誇ったオスマン・トルコ帝国、アフリカには最古の独立国であ
るエチオピア帝国がありました。
 東には大清帝国、李氏朝鮮から国名変更した大韓帝国、そして我が大日
本帝国がありました。文字通り帝国主義の時代だったのです。

 20世紀の帝国に黄昏が訪れます。まず、1910年に韓国併合が行な
われます。大韓帝国は滅び、日本の植民地となります。翌11年、中国で
辛亥革命が勃発します。孫文らの革命が成功します。ラスト・エンペラー
宣統帝溥儀が退位し清朝は崩壊、1912年1月1日、臨時大総統・孫文が
中華民国の建国を宣言します。
 ヨーロッパでも暗雲が漂います。1914年、第一次世界大戦が始まり
ました。1917年、最大の転機が訪れます。ロシア革命です。ニコライ
2世は打倒され、レーニンらによる世界最初の社会主義国家が誕生します。
同年、アメリカが参戦。1918年にドイツとオーストリアの敗北で大戦
は終了します。ドイツ皇帝はオランダに亡命、ドイツ帝国は崩壊します。
ドイツと共に戦ったオーストリア=ハンガリー帝国、オスマン・トルコ帝国
も崩壊し、大帝国の落日の時代となりました。

 1931年、日本軍部による満州事変が起こります。翌32年、満州国
が建国され、34年には清朝最後の皇帝溥儀が満州国皇帝になります。も
ちろん、実際は日本の植民地でした。
 
 1945年8月15日、大日本帝国は、満州帝国を道連れに崩壊します。
戦後のアジア・アフリカの独立運動の高まりの中、1947年、ガンジー
やネルーが指導するインドが独立します。インド帝国の崩壊でした。イギ
リスはもはや大英帝国ではなくなります。

 最後に残ったのはエチオピア帝国でした。1975年、社会主義政権が
成立し、帝政は廃止されました。これで世界に皇帝を戴く帝国はなくなり
ました。寂しいような当然のような。


◆私は、

2014年09月12日 17時00分43秒 | 聖書

恵みとさばきを歌いましょう。(詩篇一〇一・一)

信仰は試練に打ち勝つ。理性が牢獄の奥に押し込まれ、足かせに縛られている時も、信仰は楽しそうに「私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう」と叫んで、牢獄の壁を揺り動かす。信仰は苦悩の顔から黒い仮面を取り除いて、その下にある天使の顔を見いだす。信仰は雲を見上げて、
「あの密雲の中にはあわれみが宿り
やがて祝福の慈雨を降らす」
ことを知る。
神の私たちに対するさばきの中にさえ、歌の主題を見ることができる。なぜなら、第一に、試練は当然あるべきものよりはるかに軽く、次に、患難は私たちが当然担うべきものより苛酷ではなく、そして、私たちの苦痛は他の人が負うべきものほど重くはないからである。最悪の悲しみの中にあっても、信仰は懲罰を見ない。その中に神の怒りは一滴でも含まれず、すべては神の愛によってもたらされたものである。怒られる神の御胸に、愛が宝石のように輝いているのを信仰ははっきり認める。
悲しみについて、信仰はこう言う。「これは誉れのしるしである。なぜなら、子どもこそがむちを受けなければならないからである」と。そして信仰は、悲しみのもたらすすばらしい結果について歌う。悲しみこそ、霊的な益をもたらすからである。否、信仰はさらに言う。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」と。
このように、信仰は黒馬にまたがり、征服に征服を重ね、肉の理性と感覚とを踏みにじりつつ、激しい戦いの中にあって勝利の歌を歌う。
 私の道で会うすべてのものは
 天を目指していく私を助ける
 行く道に試みの矢が襲ってきても
 主にあるたましいの安きを奪うものはない

 


「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、

2014年09月12日 16時59分53秒 | 聖書

からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブル10:22)

人間には良心が与えられている。
その良心には、罪を犯すととがめが来る。
そのとがめを抑えたいがために、良い事をする。
言葉で、態度で、人を傷つけた時に、良心がとがめるので、そのままでは平安が保て無いので、親切な行いを返す。
そして、プラスマイナスゼロにする。
これで良心のとがめを収めて良しとする。
誰しもにあるかも知れない。
しかし、これは自分の良心を何とかしたいだけで、神への
愛や、相手への愛などまるで無い。
強烈な自己中心だ。ある人は犯した罪に対するとがめから、懸命に奉仕したり献金している事に気づいた。
神のために良い事をして、自分の良心をなだめ、罪滅ぼしをするのだ。
神に認めてもらおうとする。そして偽りの平安を得る。
人は知らぬ間に、これを繰り返している事がある。
これは「邪悪な良心」だ。良い事をして、神に受け入れてもらおうとの態度だ。
そうであれば、主の十字架は無意味になる。
この良心はきよめられる必要がある。
それはただ十字架の血潮によってきよめられる。
神に行いで受け入れてもらおうとの、死んだ行ないから離れさせてくれる。
主の血によって良心はきよめられ、赦され、どんな時も恐れなく御前に行ける。
主の血に拠り頼もう。         
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私たちの罪は尊い主の血潮によって洗い流されているのだ。
繰り返し罪を犯す者だけれど、自己嫌に陥ったり、自我を満足させるだけの罪ほろぼしに走るのでなく謙遜に罪赦されている恵みに感謝しよう。


今日の聖人の記念日

2014年09月12日 07時56分08秒 | キリスト教

福者アンジェリス司祭と殉教者たち

1567年-1623年

 アンジェリスはイタリアのシチリアに生まれ、18歳でイエズス会に入り、日本への宣教を志していた。西インドで宣教したのちにポルトガルに行き、31歳のときに司祭となった。インド、マラッカに渡り、1602年に来日して、伏見、後駿府、江戸で宣教活動をした。しかし1614年のキリシタン禁教令によって江戸を追放され、翌年、仙台藩の後藤壽庵の招きで仙台に行った。その後蝦夷(現在の北海道)に渡って、キリスト信者を励まし、再び江戸に戻った。

 彼は、日本の習慣を大切にし、貧しい人や病人をいたわるなどして、多くの日本人から親しまれていた。1623年、徳川家光によるキリシタン弾圧によって捕えられ、小伝馬町の牢に送られた。そしてジョアン原主水、フランシスコ・ガルベス司祭、シモン遠甫ら50人の信者とともに火刑にされ、殉教した。家光はこの処刑を皮切りに、諸大名に対しキリシタン処分を命じ、過酷な弾圧の時代が始まったのである。「江戸の殉教者」の記念碑は、カトリック高輪教会内にある。

マリアのみ名

 

 聖ヨアキムと聖アンナはユダヤの習慣に従って、聖母の誕生後8日目に、「マリア」と命名した。

 この記念日は、1513年にスペインで祝われたのがはじまりだと言われている。1683年、オスマン帝国がヨーロッパに進軍し、キリスト教をおびやかされるようになった。ヨーロッパ連合軍を指揮していたポーランドの王、ヤン3世ソビェスキは自分自身と兵士たちをマリアにゆだねて戦いに臨み、勝利したのが、9月12日だった。教皇インノチェンチオ11世はこの勝利に感謝し、主の降誕の8日間の日曜日に全教会で祝うよう規定した。その後1911年、教皇ピオ10世のときに9月12日と定められた。

 マリアという名は、ヘブライ語では「婦人」を意味し、中世には「海の星」と解釈された。聖ベルナルドは、「マリアがヤコブから出た輝く星であり、全世界を照らし、信じる人びとの道を照らす星である」と述べている。

 マリアの名を呼ぶことで、神の母であるマリアを愛し、もっと親しくなるよう、教会は招いている。


◆職分に生きる

2014年09月12日 07時55分05秒 | 聖書

じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。
その人は王の前には立つが、
身分の卑しい人の前には立たない。(箴言二二29)

「じょうずな仕事をする人」は、聖書協会訳では「そのわざに巧みな人」です。それは不器用な私には当てはまらないと考えてしまいます。小学生のころ、こよりをつくった時、いくら一生懸命やっても、手あかで紙を真っ黒にしても、ピンと立った使いものになるものはできなくて悩んだことがあります。しかし、どの注釈書を読んでも、「じょうずな仕事をする人」を「手先の器用な人」とは解釈していないので、ほっとしています。その意味は、「良心的にこつこつと、自分の職分をやりとげる人」なのです。
第一に、良心的に自分の職分をとらえている人です。金や名誉や利得のためでない、使命感のある人です。第二に、こつこつとやる人です。忍耐深く、手を抜かずに、一つ一つのプロセスを大切にします。第三に、やりとげる責任感のある人です。
こう分かると、そんな人になることは、よけい大変な気がします。山室軍平が書いていることですが、救世軍の創設者ウィリアム・ブース大将が日本に来て、明治天皇に謁見の許可を得た時、イギリスにいる孫たちにこう手紙を書いたそうです。「おじいちゃんは、『なんじ、その業に巧みなる人を見るか。かかる人は王の前に立たん。必ず卑しき者の前に立たじ』の聖書のことばを思い出しました。おじいちゃんは、若い時から善良なよい仕事を選び、一生涯飽きずにやって、右にも左にも迷わず進んできました。だから、明治大帝の前にも立てたのでしょう。しかし、終わりの日に、『よいかな、善かつ忠なるしもべ』と神さまに言っていただくことが、おじいちゃんの最大の希望です。」
神と神の愛を知った時、たとえ小さな目だたないことでも、自分に与えられた職分が分かり、それに一心不乱に携わる喜びも与えられるのです。

 


◆主はねたみ、

2014年09月12日 07時54分21秒 | 聖書

復讐する神。(ナホム一・二)

おお、信者よ。あなたの主はあなたの愛について、非常にねたみ深くあられる。主はあなたを選ばれた。主は、あなたが他の者を選ぶのに耐えられない。主はあなたを血潮をもって買われたのではないか。あなたが自分を自分のものと思ったり、あるいは世のものとすることは、主には耐えられないことである。これほどまでに主はあなたを愛されるので、あなたなしに天国にとどまることに耐えられない。主はあなたの心からの愛を求め、ご自身との間に何ものかが介在するのを忍ぶことがおできにならない。
主はあなたの信頼について、非常にねたみ深くあられる。主は、あなたが自分自身に頼るのをお許しにならない。私たちが主により頼むならば喜ばれる。しかし私たちが信頼を他に移し、自分の知恵や友人の知恵により頼むならば(さらにひどく、私たち自身の功績に頼るならば)、主はみこころを痛め、私たちをみもとに引き戻すため、懲らしめを与えられる。
主はまた私たちの交わりについて、非常にねたみ深くあられる。私たちはだれをおいても、主と最も親しく交わるべきである。主のうちにのみ住む。これが真の愛である。しかし、この世と親しく交わり、肉の慰めに満足すること(主との密室の交わりよりも、信仰の友との交際を好むことすら)は、私たちのねたみ深い主を悲しませる。主は私たちが主のうちにあり、絶えずご自身と親しく交わることを喜ばれる。私たちに下される多くの試練は、私たちの心を被造物から離れさせ、さらに主に堅く結びつけるためのものである。
キリストに近くおらしめようとするこのねたみを、私たちの慰めとしようではないか。なぜなら、主がこれほどまでに私たちを愛しておられるならば、私たちの害になるものを近寄らせず、すべての敵から守ってくださることを確信できるからである。
ああ、今日聖なるねたみをもって、私たちの目を世のすべての魅惑に対して閉じさせ、私たちの心が愛する主へのきよい思いにとどまる恵みを与えてくださいますように。

 


第2サムエル記16章9-14節

2014年09月12日 07時52分38秒 | 聖書

16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。」



 ダビデの将軍アビシャイは、ダビデに呪いの言葉を掛けるシムイに対して、怒りを発し、彼を捕らえその首をはねてしまいましょう、とダビデに申し出ました。

 しかしダビデは彼の申し出を拒み、そのままにさせておくようにと、命じました。

自分の子アブシャロムまでが自分に逆らっているのだから、自分の王を失ったシムイは、なおさらのことだと語ったのです。

ですから、今は忍耐の時だと告げたのです。

そして、時が来たならば、この呪いの言葉をお聞きくださった主が、それを益へと変えてくださるであろうと言ったのです。

 人は、調子の良い時には、味方になってくれます。

しかし、弱くなりますと、痛めつけたりすることを、容易にすることがあります。

そうした時に必要なことは、怒りではなくて忍耐、主にある忍耐なのです。


コロサイ人への手紙 1章 28節-29節(イザヤ25章)

2014年09月12日 07時49分13秒 | 聖書

★ですから、私たちはどこへ行っても、耳を傾けるすべての人にキリスト様のことを話し、できるかぎり手を尽くして、警告を与えたり教えたりしています。
そして、キリスト様が成し遂げてくださったことのゆえに、彼ら一人一人を、完全な者として神様の前に立たせることができるよう、願っています。 これが私の務めです。
キリスト様が私のうちに力強く働いてくださるからこそ、この務めを果たせるのです。(リビングバイブル訳)

■O:今日のコラム
最近、教会では、「街に出ていって、人々に声をかけ、祝福や癒しのために祈り、また福音を伝える」というチャレンジを受けています。
人に話しかけることに関しては、得意不得意、勇気の大小などがあるかも知れませんが、あからさまに拒絶されたり、かえって罵倒されたりすることは、得手不得手に関わらず、誰にとっても楽しいことではありません。
それにもまして、自分は勇気がなくて、なかなか大胆になれない葛藤を覚えることもしばしばです。

どのようにしたら、上記のパウロのように大胆に、力強く、福音を、キリストをのべ伝えることが出来るのでしょうか。
パウロはその秘訣を教えてくれています。「キリスト様が私のうちに力強く働いてくださるからこそ、この務めを果たせるのです。」と。

キリストがうちに力強く働くためには、キリストが私たちのうちに力強く住まわって下さる必要があります。
聖書には「ことばは神である」とあります。つまり、私たちが主のおしえを喜んで、絶えず口ずさむ時(詩篇1篇)、そして御言葉の中の真理が私たちの中に生きる時、主イエス・キリストが私たちの中に力強く息づいて下さり、うちに住むキリストのゆえに、私たちは大胆に主に与えられた務め(キリストを伝えること)を果たすことが出来るのです。
御言葉をただの書物のように読むと、自分の勝手な解釈が入り込んでしまいます。御言葉を読む時は必ず、御霊により頼みながら読んでいきましょう。

先日「祭司の祈り」という学びがありました。御言葉を一節、声に出して読み、そこから、悔い改めることが示されたら、悔い改め、感謝すること、賛美することが与えられたら、感謝し、賛美し、また宣言する。そして、また次の一節を読み、悔い改め、または感謝を…etc
これを聖霊様の助けの中でやっていくうちに、御言葉を通して、キリストが自分のうちに生き、また自分自身の内なる人が強められ、建て上げられていくことを感じました。

祈りは、主との親密さに欠かせないものであると同時に、私たちが置かれている場所、遣わされている所(家庭、学校、職場、教会)で、霊的に支配している強い者(サタン)を打ち負かす戦略でもあります。やられっぱなしの戦いではなく、勝利に次ぐ勝利となるのです。そして、御言葉こそはまさに、敵の急所をつくことの出来る剣です。御言葉を宣言することは、守りの信仰から、攻めの信仰への移行です。

今日も、神ご自身である御言葉を、威厳と力に満ちた御言葉を、暗やみを照らす光である神の言葉を、宣言し、御霊によって、祈りましょう。



■A:考えてみよう
御言葉を実際に声に出し、宣言していこう。この世がなんと言おうとも、自分自身の魂が何と言おうとも、またサタンがなんと囁こうとも、御言葉が何と言っているかを、この地に、自分の魂に、そしてサタンに聞かせてやりましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月11日(木)のつぶやき

2014年09月12日 01時33分43秒 | キリスト教