座間コミニティー

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◆あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、

2014年09月02日 18時36分11秒 | 聖書

決して信じない。(ヨハネ四・四八)

奇蹟を切望するのは、主が地上におられた時代の人々の心が病的な状態にあることのしるしであった。彼らは健全な滋養を拒み、奇蹟のみを求めた。彼らに真に必要であった福音を望まず、イエスが必ずしも与えようとされなかった奇蹟を熱心に要求した。今日でも、多くの人々はしるしや奇蹟を見なければ信じようとしない。ある人々は心の中で言う。「私はたましいに深刻な恐怖を感じなければならない。そうでなければ、私は決してイエスを信じないだろう」と。しかし、あなたがそのような経験をすることがなかったらどうするのか。おそらくあなたは決してそのような経験をしないだろう。神が自分をそのように扱ってくださらなければ、神を恨んで地獄へ行くつもりなのか。
ある者は、自分自身に向かってこのように言う。「もし私が霊の夢でも見るか、まだ経験したことのない突然のショックでも受けたら信じよう」と。このように、無価値な死すべき人間であるあなたが、主を指図のままに動かそうなどと考えているとはどういうことか。あなたは主の門口にいて、あわれみを求めている者なのに、主があわれみを与える方法を指図しようと言うのか。私の主は寛大な心をもっておられるが、正しい王の心をもっておられる。主はあらゆる指図を退けて、主権者としての行動をとられる。
愛する友よ。なぜあなたはしるしと奇蹟とを見たがるのか。福音そのものがしるしであり奇蹟ではないか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これは奇蹟中の奇蹟ではないか。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」この尊いみことば、そして「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」という厳粛な約束は、たしかにしるしや奇蹟にまさるものである。なぜ、偽りを語れないお方について真実の証明を求めようとするのか。悪霊でさえ、この方が神の御子であると宣言したのに。

 


「わたしの教えは、わたしのものではなく、

2014年09月02日 18時35分00秒 | 聖書

わたしを遣わした方のものです。
だれでも、神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか…かがわかります」(ヨハネ7:17)

「だれでも」と言っている。誰でも神の御心がわかると。
それは「神のみこころを行なおうと願う」ならと。
つまり、神の御心を行なおうと願う人は、だれでも、神の御心がわかると。
そして、神の言葉が正しくわかる。
神の御心を行ないたいと、切に求めること、祈ることが大切だ。

しかし、その時に、自分の強い思いがあるなら、さえぎられてしまい、神の御声が聞こえなくなる。
どうしても○○したいという強い欲望があるなら、主が見えなくなってしまう。
又、本気で、真剣に、従いたいと思っているかどうかも大切だ。御心示して下さいと祈っていても、もし示された御心が好きでなかったら、したくない事だったら、どうだろう。

示されても、行なわないなら、聖なる御心を踏みにじってしまうことになる。
はなから従う気がない人に、御心を知らせられないのは、むしろ主のあわれみだ。
自らの心も探ってみよう。
本当に御心を示されたなら、行なう気があるだろうか。
又、自分の思いを貫くのでなく、主の御心を行なおうと思っているだろうか。

「自分から語る者は、自分の栄光を求めます」パリサイ人や律法学者たちは、自分を優先し、自分の栄光を求めた。
私たちはどうだろう。
「しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり」、まず心探っていただき、主の前に正直な自分の姿を認めよう。
主は御心を示そうとして下さっている。
導きの主だ。従おうとしているなら、必ず御心へと導いて下さる。
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何が神の御心であるのか、それを知りたいと願う。自分の思いが何層にも絡み合い失敗すれば御心と思っていてもがっかりする。
純粋に御心であるのかわきまえ知れるよう、悟れるよう祈りたい。


今日の聖人の記念日

2014年09月02日 07時30分53秒 | キリスト教

聖パウロ(エジプト)修道士

228年ごろ-341年ごろ

 パウロは、エジプトのデバイスに生まれた。ローマ皇帝デキウスの迫害下に、異教徒である姉の夫の密告を逃れるため、荒れ野に身を隠した。パウロは、洞くつの中で祈りと苦行の生活を送り、60年もの間、誰にも会うことがなかった。彼のもとに毎日、カラスがパンを運んだという。113歳になったときに、修道生活の父と呼ばれる聖アントニウスから見つけ出されたといわれている。


◆王が友となる

2014年09月02日 07時29分43秒 | 聖書

心のきよさを愛し、優しく話をする者は、
王がその友となる。        (箴言二二11)

「王がその友となる」とは、最高級の人物になるというユダヤ的表現です。アブラハムは「神の友」(ヤコブ二23)と呼ばれ、神がその友となられたと聖書に書いてあります。神があなたの友となって、神がそのみこころの秘密まで明かしてくださるとしたら、いったい、どれほど大きな祝福でしょうか。
さて、私の友人はだれとだれだろうかと考えてみると、心もとなくなります。「類は友を呼ぶ。」真実の友のないのは、大部分は自分自身のあり方にかかわっているのではないでしょうか。さて、この箴言のことばは、ほんとうの友を得、最高級の人となるための条件として、第一に、心のきよさを愛すること、第二に、優しく話をすることの二点をあげています。
手をきたなくして労働していても、心のきよい人もいましょうし、手は白魚のようになめらかできれいでも、心のきよくない人もいましょう。心のきよい人は、自分は清廉潔白だと自称自任している人ではありません。心のきよさを愛する人です。神の愛と恵みのゆえに、――具体的にいえば、流されたまいし神の小羊イエス・キリストの血潮が心に注ぎかけられているゆえに、心がきよくなっている人と言いたいのです。自分の肉の力で心をきよめられる人はいません。きよさを愛し求めるがゆえに、神の力にたよる人です。優しく話をするのは、心に話をする思いやりのある人です。具体的にいえば、こんなに愚かでけがれた、こんなに弱い者まで愛してくださる神の愛に励まされて、人の心に愛を語ることのできる人ではないでしょうか。
神の人ダビデは、このように歌いました。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」(詩篇二四3―4)。

 


◆シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、

2014年09月02日 07時28分58秒 | 聖書

人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。(マルコ一・三〇)

使徒となった漁師の家庭をかいま見るのは、非常に興味深いことである。私たちがすぐに気づくことは、家庭の喜びや心配は少しも伝道の妨げにはならないということである。否、むしろ、それは主の恵みの深いわざを直接肉親に証しする機会を与えるので、地上のどの訓練よりもよい教訓を伝道者に与える。ある宗派の人々は、結婚を非難するかもしれない。しかし真のキリスト教と家庭生活はよく一致するのである。
ペテロの家はおそらく貧しい漁師の小屋であったろう。しかし、栄光の主がその家に入って宿られ、そこに奇蹟をもたらされたのであった。この小著が今朝どこかの貧しい小屋で読まれるようなことがあれば、この事実が家人を強め、王なるイエスとの交わりを深めるようにと願いたい。神は豪華な宮殿よりも小さなあばらやに臨まれる。イエスは今、あなたの部屋を見回し、あなたに恵みを施そうとして待っておられる。
病がシモンの家に入り、恐ろしい熱病がシモンのしゅうとめを悩ませた。そこへイエスが入られると、人々はその苦しみをイエスに打ち明けた。イエスはただちに患者のベッドに急がれた。今朝、あなたの家に病があるだろうか。あなたは、イエスが比べるもののない名医であられることを知るであろう。ただちにみもとに行って、すべてを打ち明けよ。民の悩みはイエスにとって決して些細な問題ではない。
救い主がただちに病んでいる者をいやされたことを心に留めよ。主のような名医はいない。私たちの愛する者の病を、主がただちにいやしてくださるとは断言できない。しかし、私たちは、病人のための信仰による祈りが、この世のどんなものにもまさって、病人を回復させる力のあることを知っている。たとえ病気が治らなかったとしても、生死をつかさどられる方に従順でなければならない。
イエスの優しい心は、私たちの悲しみを聞こうとして待っておられる。主の忍耐深い耳に、すべての悲しみを打ち明けようではないか。

 


第2サムエル記14章28-33節

2014年09月02日 07時27分34秒 | 聖書

14:32 アブシャロムはヨアブに答えた。「私はあなたのところに人をやり、ここに来てくれ、と言わせたではないか。私はあなたを王のもとに遣わし、『なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでしたのに』と言ってもらいたかったのだ。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」



 アブシャロムは、王が彼に会おうとしないので、家来ヨアブを呼びにやりました。

しかし、ヨアブもなかなか来ようとしませんでした。

そこで、わざとヨアブの畑の大麦に火をつけて燃やしました。

その結果、驚いたヨアブは、やっとアブシャロムの所に来ました。

そこで彼は、ヨアブに向かって王に会う手立てをたててほしいと求めました。

こんな状況にいるのであったら、以前のままでいた方が良かったと思ったからでした。

彼にとっては、父であるダビデから呼び出されたので、当然、彼の好意を受けて、自由に受け入れてくれるはずだと思ったのでした。

しかし、もう2年経っても、何の無沙もない時に、彼の忍耐の尾が切れたのでした。


ルカによる福音書16章15節、イザヤ書16章5節

2014年09月02日 07時25分55秒 | 聖書

★ルカ16:15  イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは 、神の前で憎まれ、きらわれます。

★イザ16:5  一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行う者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。

■O:今日のコラム

9月2日の朝です。今日1日、主の正しさを求めていきましょう。主が、僕らをどの様に見てくださっているのかを見ていきましょう。祈りの中で、堅く立てられていきましょう。

イエス様は、欲深いパリサイ人に今日の御言葉を伝えました。人の間であがめられる事は全て神様から与えられた事柄だからです。

富、名声、地位、権力、才能、性格、生まれた環境、家庭、持ち物…。自分で購入したモノもあるかもしれませんが、でも、神様から与えていただいたモノです。自分で努力した結果も含まれているかもしれませんが、その努力する力も神様から与えていただいた力です。

それらを、神様の栄光のために感謝して用いるならば、神様はさらに豊かに増し加えてくださいます。それらを、すべてが主から与えていただいたと感謝して栄光をお返しする時に、本当の意味で、義の中で正しく生きることができるのです。

主に栄光をお返しする時に、主の恵みを体験することができます。一人の人が、イエス様の十字架と復活が自分の為だったことを信じることが、天のお父さんの御心だからです。

一つの王座が、天の御国が恵みによって堅く立てられます。主の恵みによって、堅く立てられるのです。

そして、主の御前で、主の恵みによって、自分自身のさばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行う者となることができます。自分の罪を知る時、主の恵みを本当に知り体験することができます。そこには、本当の悔い改めがあります。

そうすると、ダビデの天幕が回復します。祈りが強くなります。祈りが真実をもちます。祈りの中で主の王座が確立され、主がそこに座ってくださいます。

僕らの力ではありません。主イエス様の十字架と復活による御国の富によって、神様が友と呼んでくださるのです。天のお父さんの息子、娘とされるのです。そして、ついには、キリストの花嫁として成長していくことができるのです。ますます主の恵みによって、歩んでいきましょう。

■A:考えてみよう

へりくだって、主が必要だということを認めて、主を求めていきましょう。
主の恵みをますます味わっていきましょう。

自分の弱っている所、傷ついた道、罪を主に示して頂き、主の恵みによって癒していただきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月1日(月)のつぶやき

2014年09月02日 01時56分26秒 | キリスト教