座間コミニティー

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◆日暮れの狼……。

2014年09月10日 17時20分46秒 | 聖書

(ハバクク一・八)

この著書の準備をしている間、この特別な表現がしばしば私の心に起こってきた。それがあまり頻繁なので、ここにそれを記すことにした。
日暮れの狼は、日中何も食べていないため気が荒くなり、朝よりもどう猛で貪欲になっている。この狂暴な獣は、その日の心労、商売上の損失、友人の痛烈な皮肉のために生じた私たちの疑いや恐れを表している。どれほど私たちの思いが耳もとでわめきたてることであろう。「おまえの神はどこにいるのか」と。なんとそれらは大食であり、強欲であることか。すべての慰めの暗示をことごとく飲み尽くしても、なお飢餓状態にある。大いなる牧者よ。これらの日暮れの狼を殺して、あなたの羊に命じてください。飽くことを知らない不信仰に悩まされずに、緑の牧場に伏すことを。
地獄の悪霊は、なんと狼に似ていることだろう。キリストの群れが曇った暗い野にあり、彼らの太陽が沈もうとしているのを見るとき、悪霊はさっそく引き裂きむさぼり食うためにやって来るからである。彼らは、信仰の昼間にクリスチャンを攻撃することはほとんどないが、たましいの戦いが暗やみにあるとき、クリスチャンに襲いかかる。おお、羊のためにいのちを捨てられた方よ。羊たちを狼の牙から守ってください。
偽教師は、こうかつに根気よく、尊いいのちをあさり歩き、偽りの教えによって人々をむさぼり食う。これらの偽教師が忌まわしく危険であることは、日暮れの狼と変わらない。暗黒が彼らの構成分子であり、欺きが彼らの性質であり、破壊が彼らの目的である。彼らが羊の皮を着る時、私たちにとって彼らは最も危険である。彼らから守られる者は幸いである。なぜなら、幾千という人々が、教会のおりの中に入って来る狼の


「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。

2014年09月10日 17時20分03秒 | 聖書

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)

自由は、何でもしたい事をする事ではない。
放縦やわがまま、自分勝手と勘違いしてはいけない。
魚は水の中で自由、私達は陸で自由なように、自由は無秩序でなく、秩序がある。
魚は水の中が不自由と感じないように、秩序の中の拘束が自由なのだ。
楽器を演奏する時、譜面に、英語を学習する時、文法に縛られないだろうか。
それらに乗っ取って初めて、素晴らしい演奏ができ、流暢に英語を喋れる。
スポーツもルールがある。
誰かそれをルールに縛られて拘束だと言うろうか。
自由とは無秩序でなく放縦でない。
しばしば生まれつきの思いは、勘違いする。
すべての拘束から解放される事が自由だと。
そうではなく、拘束を受け入れて、従うこと、つまり御霊の導きに従うところに、本当の自由がある。
今、くびきを負う事を拒否している事柄があるか。
拒否する事、逃れる事が、解放される道と勘違いする。
御心から逃げて、解放感を味わった事があるか。
解放どころか、平安が失せ惨めになる。
実際は、くびきを受け入れて、しっかり負う事が解放される道だ。
喜びと平安が来る。今、示される事があるなら、受け入れて従おう。
信仰生活に真の自由を味わおう。
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嫌な人を憎み続ける事が自由だと思う。
絶対に愛したくないと思う。
しかし、主にその心を明け渡し、御霊に従うなら愛が与えられ、愛する事ができる。
愛する事が真の自由だ。問題はそれを頑なに拒んでいる心だ。


今日の聖人の記念日

2014年09月10日 07時52分12秒 | キリスト教

日本205福者殉教者

 

 日本205福者殉教は、江戸時代初期の205人の殉教者たちです。1867年に教皇ピオ10世によって福者にあげられた。

 長崎での殉教者 151人、大村28人、有馬9人、小倉5人、島原4人、江戸3人、その他 雲仙、田平、壱岐、京都、仙台各1人の205人である。

 国籍は、日本が153人、スペイン 24人、ポルトガル 5人、イタリア 5人、メキシコ 3人、オランダ、ベルギーが各1人、豊臣秀吉の朝鮮侵攻で朝鮮半島の出身者が13人で、司祭13名、修道者20名がいた。
 また、女性が14人、少なくとも6人は子どもであった。

 1968(昭和43)年、列福式から100周年記念にあたり、「斬罪小屋」の立て札があった大村の殉教地、放虎原の処刑場跡に、大村の信徒たちによって顕彰碑が建立された。


◆保証人となるべきか

2014年09月10日 07時50分09秒 | 聖書

あなたは人と誓約をしてはならない。
他人の負債の保証人となってはならない。
あなたに、償うものがないとき、
人があなたの下から
寝床を奪い取ってもよかろうか。(箴言二二26―27)

昔から、人の保証人になったために一生立ち直れないような打撃に会った人の例は、多くあります。あなたの身近にも、そんな人がいるかもしれません。いいえ、あなた自身、そのような苦しい経験をしたことがおありかもしれません。
リビングバイブルでは、この聖書のことばをこうパラフレーズしています。「余分に払える金も持っていないのに、他人の保証人になるな。持ち物全部を犠牲にするのか。人はお前のベッドまで持ち去る」(英訳)。うかうかと、他人の保証人になってはなりません。もしなるのでしたら、三つのことを考えるべきです。
・ 最悪の場合、保証した額を自分で全部払えるか。
・ 自分が保証人になり、あるいはまた、払ってあげることで、その人がほんとうに助けられるのか。
・ その人をこのように助けるために、自分や家族の生活と将来とを犠牲にしてよい覚悟があるのか。
こう考える時、私たち一人一人のために、保証人となってご自分のいのちをかけ、十字架の上で血の値を払って、私たちを死とさばきから救い出してくださったイエス・キリストのことを思って愕然とするのです。そして、使徒ヨハネのことばを、かみしめてみます。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ三16)。このことばと箴言のことばの間を、行ったり来たりしてみる必要を感じます。そして神の知恵をいただかなければならない必要を感じます。
自分の力や富のことだけを考えるなら、他人の保証人にならないほうが、やはり知恵なのではないかと考えます。どうでしょうか。

 


◆さて、イエスは山に登り、

2014年09月10日 07時49分24秒 | 聖書

ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。(マルコ三・一三)

ここに主権がある。性急なたましいは、しきりに心はやり、伝道の高い位置に召されていないことを怒るかもしれない。しかし読者よ。イエスが、お望みになった者たちを召されることを喜べ。もし私を主の家の門番とされるならば、私はお役に立つことができた恵みを思い、喜んで主をあがめるであろう。クリスチャンの主への奉仕の召命は上から来る。
イエスは山の上に立たれ、聖潔と熱心と愛と力とにおいて、常に世に抜きん出ておられる。主に召された者は、山によじ登って主のみもとに行かなければならない。不断に主と交わる生活をすることによって、主のレベルに到達することを努めなければならない。彼らが必ずしも大芸術家、大学者になれるとは限らない。しかしモーセのように山に登り、見えない神と親しく交わらなければならない。そうでないと、決して平和の福音を宣べ伝えるにふさわしい者とならないだろう。
イエスは父なる神と親しく交わるために孤独になられた。私たちも、もし同胞に祝福を与えることを願うならば、同様な神との交わりに入らなければならない。イエスと共に山上にいた使徒たちが下山した時、新たな力を受けていたことは驚くに当たらないことである。今朝、私たちは霊の交わりの山に登ることを努めなければならない。そこで、私たちが聖別された生涯の事業に任ぜられるためである。今日イエスにまみえるまでは、人の顔を見ないようにしようではないか。
イエスと共に過ごした時には幸いな利益がついてくる。もし私たちが、キリストのみが与えることのできる聖なる力を受けて世に出るならば、私たちも悪霊を追い出し、奇蹟を行うことができるであろう。私たちが天上の武器を入手するまでは、主の戦いに加わってもむだである。私たちはイエスにまみえなければならない。これを欠くことはできない。私たちは、ご自身を世に現されない主の顕現に接し、心から「私たちは聖なる山で主イエスとともにいた」と言うことができるまで、恵みの御座を去らないようにしよう。

 


第2サムエル記16章1-4節

2014年09月10日 07時47分18秒 | 聖書

16:1 ダビデは山の頂から少し下った。見ると、メフィボシェテのしもべツィバが王を迎えに来ていた。彼は、鞍を置いた一くびきのろばに、パン二百個、干しぶどう百ふさ、夏のくだもの百個、ぶどう酒一袋を載せていた。
16:2 王はツィバに尋ねた。「これらは何のためか。」



 オリブ山を越えた所に、メフィボシェテの僕ツィバが、沢山の品物を持って王を迎えに来ていました。

メフィボシェテというのは、ヨナタンの子で、足が不自由になっていた人でした。

ダビデが彼を迎えて、交わりを持っていたことです。

彼の僕ツィバが、ダビデを迎えたというのです。

ところが、彼には下心がありました。

主人の財産を自分のものにしたいという思いでした。

彼はダビデに、おまえの主人は今どこにいるのかと聞かれた時、主人はエルサレムにいますが、「私の父の王国を今私の所に帰してくれる」と語って、アブシャロムの反逆を喜んでいると告げたのです。

偽りです。

しかし、ダビデはそれを信じてしまい、その結果、メフィボシェテに渡した財産はおまえのものだ、と彼に伝えてしまいました。

偽りの言葉に、彼は、翻弄させられたのです。


ルカによる福音書24章44-45節 (イザヤ書24章)

2014年09月10日 07時44分08秒 | 聖書

 ★  さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

■O:今日のコラム

聖書。それは、私たち1人1人に宛てられた神様からの愛のお手紙だとよく聞きます。

本当にその通りで、私たちは日々、そのお方の御言葉を読み、そして時には励まされ、時には慰められ、また時には教えられます。そして、受けた御言葉を私たち個人の人生に適応していきます。神様は個人に語られるお方だからです。

しかし、聖書はただ個人の為にある書物ではありません。

今日の箇所からそれが読み取れます。

「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」

ここにあるモーセの律法、預言者、そして詩篇とは、旧約聖書のことであり、聖書です。そして、その聖書に書かれている事とは、イエス様についてなのです。

聖書を読む時、ただ単に自分の為だけに読むのではなく、メシアであるイエス様をもっと深く知る為に読む必要があると学ばされました。なぜなら、聖書全体がイエス様について書かれているからです。

しかし、それを受け取るには、大事な大事な秘訣があります。

イエス様の時代に生きていたパリサイ人、祭司、律法学者達は毎日聖書を読んでいましたが、イエス様が聖書に書かれているメシアなる存在だと理解できませんでした。また、3年間もイエス様と一緒にいた弟子達でさえ、理解することができなかったのです。

しかし、旧約聖書時代には、イエス様がメシアだと理解していた人々がいます。シメオンやバプテスマのヨハネなどです。彼らの共通点はなんでしょうか?

聖霊です。神様の御霊である聖霊を皆受けていた事です。

弟子達も、最終的には、イエス様が彼らの心を開いたときに理解し始めました。

私たちも、聖霊様を受け、聖書を通して、イエス様についての啓示をますます吸収していきましょう。

イエス様ご自身がヨハネの福音書15章26節でこのように語っています。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」

御霊、聖霊様の働きは、私たちを慰め、助けるだけではなく、イエス様についてあかしをするのです。

■A:考えてみよう

毎回、聖書を開く時、聖霊様に私たちの心を開き、聖書を悟らせてくださるようにお祈りしましょう。そして、聖書を通して、私たちへのレーマを受け取るだけではなく、イエス様をもっと知る為の啓示を聖霊様から頂きましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月9日(火)のつぶやき

2014年09月10日 01時41分43秒 | キリスト教

ルカによる福音書23章8-9、41-43節、イザヤ書23章17~18節 blog.goo.ne.jp/tosi_1968/e/7d…


◆わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、 blog.goo.ne.jp/tosi_1968/e/c4…


「あなたがたのだれが、心配したからといって、 goo.gl/vaWafP


◆また、御座の回りに二十四の座があった。 goo.gl/a6cuzw