座間コミニティー

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◆また、御座の回りに二十四の座があった。

2014年09月09日 17時14分45秒 | 聖書

これらの座には、白い衣を看て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。(黙示録四・四)

天国における聖徒の代表者たちは、「御座の回りに」いたと記されている。雅歌の中に、ソロモンが食卓についている王を歌っている箇所がある。ある人はそれを「円卓」と訳す。ここから、ある注解者たちは、「聖徒たちは平等である」と言うが、これはみことばの意味を正しく解釈していると思う。二十四人の長老が同じ距離を保って、みな御座に近くいたというのである。
天にある栄化された霊たちは、主に近くおり、その栄光をはっきり見、その宮廷に常に出入りをし、ご自身と親しく交わっている。この点に関して、聖徒たちの間に優劣はない。神の民は、使徒も、殉教者も、教役者も、また名もない信徒も、すべてが御座近くに座るのである。そこにおいて彼らは、とこしえに高められた主を見、その御愛に満ち足りる。彼らはみな主に近くおり、主の御愛を喜び、同じ食卓で主と共に食し、全部の者が主に近くある友として、平等に愛される。
地上にある信者も、キリストに近くいることにおいて、天上の聖徒にならおう。地上にある私たちも、天上における長老たちのように御座の回りに座ろう。どうか、私たちの思いがキリストに向けられ、キリストが生活の中心となられますように。どうして私たちは、愛する主から遠く離れて生きていけるだろう。
主イエス様。私たちを近くに引き寄せ、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」と私たちに告げてください。そして「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに」と歌わせてください。
もっと高く私を引き上げ
もっと近くで会わせてください
私のたましいをへりくだらせて
御足の下におらせてください
ますます自分に頼まなくなり
ますますあなたの愛にある楽しき慰めを
証しさせてください

 


「あなたがたのだれが、心配したからといって、

2014年09月09日 17時13分56秒 | 聖書

自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(マタイ6:27)

ある未亡人がリストラになり、探せど探せど仕事が無かった。
その時、この御言葉が心にグッと来て、御言葉を信じ、受け止めた時に、完全に思い煩いが失せ、全く不安が無くなったと。
神が与えて下さると、お委ねできたのだ。
心平安に待ち望むことができて、仕事は時かなって与えられた。
「自分のいのちを延ばすことができますか」自分にどうしようも出来ない事について、あれこれ心配したり、悩むのは時間と労力の無駄だ。
命を延ばすことなど、幾ら悩んでも考えてもどうにも出来ない。
それより、今、目の前のすべき事に、心を集中して成し遂げて行った方が、どんなにか良いではないか。
私達が変える事ができるものと、変える事ができないものを区別する知恵が必要だ。
自分に出来る事をして行く事は必要だ。
変えるべきところは変えなければならない。
しかし、「どうにもできない事」に悩み煩っていないか。
あなたの今の思い煩いは、この種のものか。
そうであれば、主にきっぱりお委ねしよう。
思い煩いが失せるばかりか、平安で心を満たして下さる。
「何も思い煩うな」ピリピ4:6。
今、目の前、自分に出来る事に心を向けよう。
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私たちに明日の事を知ることを許されていない。
明日の事は神様に、すべてお任せなさいということだ。
今できる事を精一杯成し遂げ、まだ見ぬ明日を思い煩うことはやめよう。


今日の聖人の記念日

2014年09月09日 08時33分42秒 | キリスト教

聖ペトロ・クラベル司祭

1580年-1654年

 クラベルは、スペインのカタロニアに生まれ、信仰深い両親のもとで育った。幼いころから司祭になることを望み、バルセロナ大学で学んだのちに1602年にイエズス会に入った。勉学のためにマジョルカの修道院に派遣され、そこで聖アルフォンソ・ロドリゲスと出会った。アルフォンソは、クラベルに新大陸での宣教の可能性を熱く語り、それを聞いたクラベルは自分の使命を悟って、宣教師となることを決心した。1610年、神学生としてコロンビアのカルタヘーナへ行き、黒人奴隷の悲惨な状態を知って、生涯彼らの救いのために働きたいと思った。1616年に司祭になり、「大切なことは唇で話すことでなく、手で話すことだ」と言って、奴隷たちに薬や食物などを与えたり、キリスト教について教えるなど、力を尽くして働いた。クラベルは黒人の保護者といわれている。


◆怒りっぽい者といっしょに行くな

2014年09月09日 08時32分06秒 | 聖書

おこりっぽい者と交わるな。
激しやすい者といっしょに行くな。
あなたがそのならわしにならって、
自分自身がわなにかかるといけないから。(箴言二二24―25)

ある尊敬している先輩が、いかにも優しく柔和なまなざしで、「あの青年はすばらしい男だけれど、まだまだ怒りっぽいからだめだ」と言っていることばを聞いて、「ああ、私のことを言っている」と深く感じたことがありました。私は上州長脇差、激しやすいのは私の身上などと思ったこともなきにしもあらずですが、「おこりっぽい」ことはみじめです。
不正や、不義不法な圧迫に対して、聖なる怒りを感じないような者にはなりたくないと思います。しかし、私たちが「おこりっぽい」のはいつも、私たちを取り巻く親しかるべき身近な人に対してではないでしょうか。怒りっぽい人には、いつも次の二つの洞察が欠けているように思われます。
第一に、自分自身に対して神が怒りっぽく、すぐ結論を出したり、さばきや仕返しや断罪をも行ってしまうならどうでしょうか。この世に、神の断罪を免れる人が一人でもいるでしょうか。神は、私のような偽り者・自分勝手な者・罪深い者にも、深い愛と忍耐を持っておられます。私のために、ゆるしもきよめも新しい人生をもみな備えて、そうです、キリストの十字架の中に備え整えた上で、忍耐深く待っていてくださるのです。このことが分からない時、人は怒りっぽくなるばかりか、怒りに任せて怒りといっしょに「行ってしまう」のです。つまり、そういう人は自分自身に対する洞察に欠けています。
第二には、どれほど怒っても怒り足りないような人でも、神の恵みと力によって、正されゆるされ新しくされる可能性があることを知りません。しかも、自分の人間としての力や知恵の中に、人を変える力がないことを悟りません。さばきと救いの力は神にあるという洞察に欠けています。

 


◆わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、

2014年09月09日 08時31分20秒 | 聖書

あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ三三・三)

この聖句には、種々の異なった訳がある。「わたしは、あなたに大いなる、防備されている事を示す」とも、「大いなる、保留されている事」とも訳されている。クリスチャンの経験の中には特別に保留されたものがある。霊的生活のすべての発展は、どれも容易に到達できるものではない。
悔い改め、信仰、喜び、希望などの共通な心の状態や感情がある。これらはすべての神の家族が経験しているものである。しかし、あふれる喜び、霊の交わり、キリストとの一体の意識などの高次の段階については、それがすべての信者に共通なものとはとても言えない。私たちのすべてが、イエスの胸によりそったヨハネのような高度の特権をもっているのではなく、パウロのように第三の天にまで上げられるのでもない。神に関する経験的知識の高さは、わしのような鋭い目をもっても、哲学的な思想をもっても、決してうかがい得ない。神のみが私たちをそこへ伴ってくださる。
そして神が私たちをそこへ連れられる車と、それを引く火の馬は、熱心な祈りそのものである。熱心な祈りは恵みの神に勝つ。ヤコブは「その力の神と争った。彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はべテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた」。熱心な祈りはクリスチャンをカルメルに伴い、彼をして天を祝福の雲でおおい、地をあわれみの洪水でおおうことを得させる。熱心な祈りはクリスチャンを高くピスガに運び、彼のために備えられている資産を示す。それは私たちをタボルにまで高め、私たちを聖化して主の御姿に似たものとし、この世にあっても主のようにするのである。
あなたが普通の卑しい経験よりも高いレベルに達することを願うならば、あなたよりはるかに高い岩であるキリストを見上げ、執拗な祈りの窓から信仰の目をもって見つめよ。窓を自分の側から開けさえすれば、窓の向こう側は開け放しになっているのである。

 


第2サムエル記15章32-37節

2014年09月09日 08時30分01秒 | 聖書

15:35 「あそこには祭司のツァドクとエブヤタルも、あなたといっしょにいるではないか。あなたは王の家から聞くことは何でも、祭司のツァドクとエブヤタルに告げなければならない。
15:36 それにあそこには、彼らのふたりの息子、ツァドクの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンがいる。彼らをよこして、あなたがたが聞いたことを残らず私に伝えてくれ。」



 ダビデの友人のアルキ人フシャイが、ダビデの元に来ました。

彼はダビデについて行くつもりでした。

しかしダビデは彼に、エルサレムに帰って、アブシャロムに仕えてほしいと願いました。

そしてそこで聞いたことのすべてを、祭司のツァドク達に伝えてほしいと語りました。

彼らには息子達がいるので、その聞いたことをこの私に伝えてくれるであろう、と語ったのです。

そこでフシャイは、ダビデの申し出を聞いて、エルサレムに戻っていきました。

ダビデに対して、正確な情報をもたらすためでした。

ダビデは、泣いたりしていますが、しかし単に感傷的な面だけを持った人ではなかったようです。

正確な情報を求める、冷静な戦略家でもありました。


ルカによる福音書23章8-9、41-43節、イザヤ書23章17~18節

2014年09月09日 08時27分49秒 | 聖書

★ルカ23:8-9  ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ 。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
  それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。

★ルカ23:41-43  われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
  そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
  イエスは、彼に言われた。「まことに 、あなたに告げます。あなたはきょう、 わたしとともにパラダイスにいます。」

★イザ23:17-18  七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。
  その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。

■O:今日のコラム

9月9日の朝です。今日1日、イエス様の本質を求めていきましょう。主が近くにいるのに、インマヌエルの主が何も語ってくださらない時があるからです。

イエス様と会うことができたヘロデ王様と十字架で隣になった罪深い男の違いは、イエス様を通して御国を見ているかどうかです。

ヘロデ王様は、ある意味で、有名人に会えて喜んでいる感じです。「ネタになる! 奇跡も見たいしな~♪」の様な感じです。(有名人に会うこと、喜ぶことなどは、悪いことではないと思います… 何より、奇跡を求めることは本当に大切なことです。)

一方で、罪深い男は、自分の罪を認めました。イエス様が自分の人生には必要だということを認めました。イエス様に天の御国の鍵があることを信じました。

イエス様が戻られた天の御座で思い出してくださるだけでも良いと考えていました。(きっと牢屋にいたので、イエス様の噂だけを聞いていて、御言葉を実際に聞いていなかったので、旧約の話と、噂からのイメージだけがあったのだと思います。)そして、御国を求めていました。

ヘロデ王様には話されなかったイエス様は、罪深い男には語られました。イエス様の本質を求め、見ていく時に、イエス様御自身が語ってくださるのです。

ツロにおける遊女の報酬は、この世のモノに価値をおいているヘロデ王様と似ています。ツロは、港町で、貿易で栄えていた街でした。ダビデ王の時代には神殿のための材料を準備したりと活躍しましたが、だんだんと、貿易の中で、高慢さが出てきてエルサレムをバカにするようになっていました。今の状況だけを求めていたのでした。しかし、その儲けは蓄えることはできません。

この世には宝を蓄えることができませんが、天の御国には蓄えることができます。主の前に住む者達が、主の御国を求める者達が、天の御国で受け取る報酬として見ることができます。

罪深い男が、イエス様を求め、イエス様に立ち返った時に、パラダイスへの鍵を受け取れたように、天の御国に宝を積むことができたように、イエス様の本質を求めていきましょう。イエス様を通して御国を求めていきましょう。

■A:考えてみよう

御国を求めていきましょう。御心が天で行われるように地でも行われますように、求めていきましょう。イエス様の十字架と復活を感謝して今日も受け取っていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月8日(月)のつぶやき

2014年09月09日 01時43分34秒 | キリスト教

イザヤ書22章12-13節(ルカによる福音書22章) goo.gl/DCefG4


第2サムエル記15章30-31節 goo.gl/ZjikZ0


◆あなたはわたしから実を得るのだ。 goo.gl/BFCxp4


「あなたは正しすぎてはならない。 goo.gl/pPmoRs