座間コミニティー

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◆私は、自分の罪を、あなたに知らせ、

2014年09月14日 16時12分01秒 | 聖書

私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇三二・五)

ダビデは自分の罪にたいへん苦しんだ。その結果は肉体にも及んだ。彼の骨は「疲れ果てた」、彼の「骨髄は、夏のひでりでかわききった」とある。それをいやす道はなかった。ついに彼は天の恵みの御座の前に、腹蔵ない告白をなすに至った。彼はしばしば沈黙を守ったが、彼の心はより深い苦悩に満たされていた。出口がふさがれた山の中の湖のようにたましいの中には、悲しみの奔流があふれたのである。
彼は口実を考えてまぎらわそうとした。しかし、それはむだであった。腫れ物がうむように、苦悩は増大し、彼が告白というメスを用いようとしなかったので、その霊は苦悩に満たされて安息を得られなかった。
ついに彼はへりくだり、罪を悔いて神のみもとに帰るか、それともその場で悶死するかのどちらかであることがわかった。それで彼は、急いで恵みの御座に行き、すべてをご存じであるお方の前で、自分の悪の巻き物を広げ、これまでのすべての邪悪を、詩篇五一篇、その他の詩篇にあることばをもって告白した。このことをなし終えると(これは非常に簡単なことだが、高慢な者にはこの上なく困難である)、彼はすぐに神の赦しのしるしを受けた。彼の砕かれた骨は喜び、彼は密室を出て、咎を赦された者の祝福を歌った。
恵みによってなす罪の告白の価値を見よ! それはすべての価値にまさって尊ぶべきものである。いやしくも、真実の、幸いな告白がなされるところ、あわれみは自由に与えられる。悔い改めと告白に、あわれみを受ける価値があるからではなく、ただキリストのゆえに与えられる。神はほむべきかな。砕かれた心のあるところ、必ずいやしがある。私たちの罪をきよめる泉は絶えず流れている。
おお、主よ。まことにあなたは「赦しの神」であられます。それゆえ、主よ。私たちは自分の罪を告白します。

 


「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。

2014年09月14日 16時11分14秒 | 聖書

そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)

 人は裸で生まれて来た。裸自体は罪ではない。
エデンの園ではアダムもエバも裸であった。
しかし、罪が入って来た時、裸が恥となった。
汚れた思いなしに見られなくなったからだ。
それで自分の恥を隠すために、いちじくの葉をつづり合わせておおいを作った。
私達の姿だ。
罪の恥を隠すために取り繕う。
とにかく隠しておきたい。
人に知られたくない。
そのために嘘をつき、相手のせい、状況のせいにする。
体裁、体面を恐れて隠すのだ。
神が悔い改めの機会を与えようと「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた。
「ごめんなさい」を引き出そうとして「あなたは…食べたのか」と問うて下さった。
「ごめんなさい。食べました」と罪を認めれば良かったが、責任転嫁して行った。
アダムはエバに、更にエバを置いた神が悪いと、神を責めて行く。
エバは蛇に責任転嫁した。罪の姿だ。
自分の罪であるのに、自分を被害者にし、相手を責める。
ましてや、その状況を作った神が悪いとなる。
どこまでも罪深い。自分の内にこのようなパタンはないか。
罪の性質は、必ず罪を認めず人のせいにする。
罪を認める時、完全な罪の赦しが臨む。
真正面から罪を認めよう。
悔い改める事が、その罪に責任を取る事だ。
その時、完全な赦しが臨む。
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自分の罪をするりとかわして被害者になる。
人を責めている方が楽だろうか。
私達はそうであってはならない。
見るべきものはいつも自分の内にある罪だ。
そこを認めなければいつまでも成長もなく苦しい。


今日の聖人の記念日

2014年09月14日 07時45分23秒 | キリスト教

1265年-1313年

 ノトブルガは、オーストリアのチロルの貧しい農家に生まれ、18歳のときにヘンリー・ラッテンブルグ伯の城に手伝いとして雇われた。彼女はよく働き、いつも明るく、皆から好かれた。城に貧しい人たちが物乞いをしに来るのを見て、ノトブルガは、食べ物の残りをその人たちに与えた。しかし、そのことをよく思わなかった夫人から追い出され、近くの農家に住み込みの手伝いとして働くようになった。ある日曜日に、ミサに出るために麦刈りの仕事を断わったことで主人の怒りにふれ、彼女は神に正しさを証明してもらおうとして、鎌を高く差し上げて手を離し、鎌を空中にとどめたといわれる。そのため彼女の像は、鎌を持って描かれている。その後、ヘンリー伯の夫人が亡くなり、ヘンリー伯が再婚すると、家事をする女性が必要となり、ノトブルガが呼び戻された。彼女は亡くなるまでそこで働き、貧しい人たちに施しを与え、城のためにも貢献した。彼女は、雇い人の保護者として親しまれている。


◆富を得ようと苦労するな

2014年09月14日 07時43分56秒 | 聖書

富を得ようと苦労してはならない。
自分の悟りによって、これをやめよ。(箴言二三4)

ある雑誌で、「幸福な家庭生活のための三本柱」を特集し、アンケートを有名人に出した結果をのせていました。多くの人が、「安定した経済」を三本柱の一つとしてあげていました。一生懸命働いて家族の生活を支え、病気や不時の災害に備え、人さまの世話にならず、かえって人さまの世話までできるようにするのは、うるわしい必要なことでしょう。
しかし、自分のために金をためることだけを人生の目標にしている人々も、世の中になくはありません。落語に、「黄金」というのがあります。金をためるためにのみ生きた男が、病気になり、死んでその金が人手に渡るのを惜しんで、あんころもちの中に金をくるんで飲みこみ、ついに窒息して死んでいく話です。
聖書の中でもヤコブは、金持ちになるために人生のあらゆるエネルギーを消費する、そのような金持ち志願者たちに、こう警告しています。少々長いのですが、読んでみましょう。富を得ようと苦労する者の後ろ姿が明らかです。「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました」(ヤコブ五1―5)。
キリスト・イエスは、私たちを富ますために貧しくなってくださった方です。

 


◆舟に乗っておられるままで、

2014年09月14日 07時43分16秒 | 聖書

イエスをお連れした。(マルコ四・三六)

その夜、イエスは海軍提督として、親しく一隊の船団を守られた。舟がどれほど小さくても、主と共に航海するのはまことによい。私たちがキリストの群れに加わって航海する時も、なぎばかりとは限らない。時には主ご自身の乗っておられる舟すら大風にもまれることがあるからである。したがって、私たちの小舟が波にもてあそばれることが少ないことを期待してはならない。私たちがイエスと共に行くならば、彼と同じ境遇に満足しなければならない。波がイエスに荒ければ、私たちにも荒いであろう。私たちが陸地にたどり着くのは、以前主が経験されたように、あらしの中を通って木の葉のように波にもてあそばれた後である。
あらしが暗いガリラヤ湖上に吹いたとき、人々は顔色を失い、今にも舟が難破するのではないかと恐れた。こうして一切の人間的な頼みの綱が切れたとき、眠っておられた救い主が起き上がって、一言で大あらしを静められた。そのために主が乗っておられる舟も、その他の舟も共に安きを得た。
イエスは海の星であられる。私たちの心がイエスをいかりとし、舵とし、灯台とし、救助艇とし、港とすることができますように。
主の教会は、提督の乗られる旗艦である。私たちはこの教会の集いに出席し、この旗艦の将校である教職者を励まそうではないか。常に私たちはイエスの航跡に従い、信号に注意し、主の海図に従って舵をとり、呼べば答えられる所におられる主を覚えて、決して恐れないようにしたい。護送船団のうち一そうたりとも、難破するものはない。大提督がすべての舟の一つ一つの舵をとり、目指す港へ安全に伴われるのである。
信仰によって、私たちはいかりづなを解いて航海に出る。そしてイエスと共に苦難の海に乗り出す。風波は容赦しないだろう。しかし、それらはすべてイエスに従う。だから、外にどんな突風が吹いても、信仰により、内には幸いな平和がある。ゆえに、私たちは主にあって喜ぼうではないか。主の舟はすでに港に入った。こうして私たちもまもなく港に入るであろう。

 


第2サムエル記16章20-23節

2014年09月14日 07時42分00秒 | 聖書

16:23 当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた。



 アヒトフェルは、議官として有能な人でした。

彼はダビデに仕えていたのですが、アブシャロムが立った時、彼に組しました。

そこでダビデは、彼の助言が破綻に帰すようにと、神に祈ったことでした。

 アブシャロムは、このような彼に、王の立場に関して助言を求めました。

そこで彼は、ダビデが愛したそばめたちの所に入りなさいと告げました。

こうして、ダビデが持っていた王としての権威を、自分が今所持しているのだということを、民に示すためでした。

アブシャロムは、その助言に従って行動を取りました。

ダビデにとっても、アブシャロムにとっても、彼の助言は有効性のあるものでした。

従って、両方の人が重宝がりました。

しかし大事なことは、人ではなくて、主です。

まず伺うべきは、主の御心です。

私たちにとっても、主の御心である聖書の言葉に聞く耳を持つことが、第一です。


コロサイ人への手紙4章5-6節(イザヤ書28章)

2014年09月14日 07時39分33秒 | 聖書

 ★  外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
??
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

■O:今日のコラム

パウロは、獄中からこの手紙を書いています。

どんな状況の中にあっても、パウロの願いはいつも、福音が世界中で実を結び広がり、全ての国々に福音が届けられることでした。

だから、この獄中からの手紙において「神がみことばのために門を開いて下さって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈って下さい!」(3節)と書いています。

福音を語る門が開かれて大胆に語ること、これがパウロの切なる願いでした。

今、私たちの住んでいる日本はどうでしょうか。福音の門が開かれてい、、、ると信じます!

日本で福音を語ったら処罰にあうことはありませんね。もちろん、多くの学校や会社や病院、施設においては、宗教活動を行ってはいけないという規定があるかもしれません。

しかし、祈ることはどこででも出来ます。そして祈りの中で、神様は福音を語る門を開いて下さると信じます。

実は福音を語ることの一番の障害は、会社の規定でも、学校の規定でもなく、私たち自身の中にあるかもしれません。

パウロは、死が待ち受けているような所へも躊躇せず踏み込んで行きました。何度迫害され追い出されても、ユダヤ人の会堂で説教することを止めませんでした。

パウロにとっては、いかなる状況も福音を語る妨げにはなりませんでした。今日のみことばにある、機会を十分に生かした人物こそ、このパウロです。

福音を語る門は、自分の恐れを打ち砕くことから開かれていくと信じます。

聖霊の油注ぎを毎日求めましょう。聖霊様は、私たちの固い殻を打ち砕き、大胆な者へと造り変えて下さいます。

神様の栄光が私たちを通して流れることを今日も神様に期待しましょう!

■A:考えてみよう

具体的に私たちは外部の人に対して、何を語るべきでしょうか。親切な言葉、優しい言葉、人を喜ばせる言葉も良いでしょうが、人々が本当に必要としている言葉は、塩気のきいた言葉です。

言葉に神の命が無ければ、人は変わりしません。

今日、聖霊の力を受けて、大胆に福音を伝える者となりましょう!

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(テモテへの手紙 第二 4章2節)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月13日(土)のつぶやき

2014年09月14日 01時33分09秒 | キリスト教